例えばこの空の色を僕は君にどうやって伝えればいい
手塚 豪
第1話 桜坂を駆けあがれば
朝起きるのが辛くなったのはいつ頃からだろうか。小学生だったあの頃は朝日を迎えることが全く苦ではなかった。それどころか希望に満ち溢れていたに違いない。過去のことだから美化されているのではなく、きっとそれは事実だと思う。
春の朝は桜の並木道を歩き、子供ながらに美しいと思っていた。夏の朝はラジオ体操に何故だか分からないけれど行っていたし、冬の朝は雪玉を作りながら歩いた。そんな当たり前の生活はいつしか過ぎて、気付いたら背丈も伸びていた。
俺はスマートフォンのアラームの音で目を覚ました。淡々と朝を告げるアラーム。もそもそと体を起こして、あくびをかいた。
やっぱりまだ冷えるな、と思った。足先がとても冷えている。早く温かい飲み物でも飲みたい。
部屋着と寝間着兼用のジャージを脱ぎ、まだ真新しい制服に着替える。新高校一年生であるという自覚が全く湧いてこない。そんな自覚はなくてもいいとは思うけれど、気持ちが高揚することもない。
使い古したリュックサックを肩に下げて部屋を出る。部屋の外は部屋の中よりも寒さが増していて鳥肌が立ってしまう。
「おはよ」
「あぁ、おはよぉー」
眠そうな声が聞こえてくる。
すらりと伸びた白い手足をティーシャツとホットパンツから覗かせている彼女は、女性と言うには少し品性に欠けていた。食卓に足を乗せた彼女は何やらテレビを見ている。
自室を出るとすぐに居間になっているこの小さいアパートに俺は姉の氷花と二人で住んでいる。
氷花はここから電車で四駅程の私立大学の二回生である。だが、大学生にはとても見えない大人っぽい雰囲気を醸し出していた。というより、やつれていた。
「行儀悪いだろ。やめろ」
「ん――?」
「昨日も遅かったのかよ」
「分かんない」
まだ酔いが醒めていないのではないか、と思ってしまうが服を着替えているし、シャワーも浴びたようだ。酷いときは朝まで帰って来ない日もある。
「姉さん飯食う?」
「いらない」
「はいよ」
氷花はテレビのタレントに夢中のようだ。
玉子焼きでも作ろうと冷蔵庫を開けたとき戦慄が走った。
(「なんもねぇじゃん……)」
冷蔵庫の中は空っぽで、申し訳程度の牛乳も半分も残ってなかった。
「姉さんなんか作っただろ?何でこんな食材一気に無くなっているんだよ」
変な間が空いてからとぼけるように「へ?」と氷花がこちらを向きながら言った。
「いや、だからさ、なくなったら買っといてよ」
少し強い声で言ったからか、氷花は少し俯いてこちらを見て「ごめんじゃん」と申し訳程度に呟いた。
朝ご飯抜きになってしまった俺は仕方がなく洗面所に行って顔を洗い、歯を磨くことにした。洗面所の空気は更に澄んでいて寒かった。春先でも少し寒いのは珍しいと思ったが、一年経つといつも忘れているだけで、いつも桜の咲く前はまだ肌寒い。そんなことを考えながら入念に歯を磨いていた。
今日は入学式前の高校の最終説明会だ。
この春から俺が通うことになるのは国立や名門私立大学の卒業者を多く輩出している私立高校である。そうかと言ってそれは推薦入学のコースのことである。俺が通うのは普通科であるためそこまで特筆することがある訳ではない。通称『一高』である。『一高』なんて名前は全国様々な所にありそうだが、この辺りに住む学生ならその呼び名で通じるであろう。設備はどちらかというと整っており、四年前に改装工事が行われたため校舎は新しい。
そこまで受験に向けて真面目に勉強していなかったのだが、合格することが出来た。そのためこの高校に対する期待感がある訳でもないのである。
「今日何で行く?」
「電車」
「一緒に行こっか?」
「どっちでもいいよ。大学早いんだな」
「遊んでばかりはいられないんだよ少年。理系は忙しいんだから」
「……お前にだけは言われたくない」
「またー、素直じゃないなぁ」
思い切り的外れなことを思っていそうだが、聞こえないふりをして「でももう行くよ」と、氷花を急かした。
「待っといてねー」
気楽そうだ。俺はつけっぱなしのテレビを電源ごと切って、リュックを背負い直す。
「先に出てるよ」
玄関へ通じる扉を開きながら言った。
玄関横の棚から真新しいスニーカーを取り出す。従兄弟のところの家に誕生日プレゼントとしてもらった。真っ青なスニーカー。目立つな。
靴紐を結んで、ズレていた靴下をぐっと引っ張る。
準備万端だ。
「行ってきます」
扉を開けるとすぐに気づく。遅かった春の到来は確かに近づいてきていると。雲ひとつない青空に浮かぶ太陽が容赦なく目を刺す。氷花が来るまでの間、眩しくて目を背けてしまいそうになっても俺は群青を見上げていた。
氷花と最寄り駅までは徒歩での移動である。十分もないのだが、その間に何も話さない訳にはいかない。
「めちゃくちゃウザくない? サナ何もわかってない癖にいちいち言ってきてさー! お前はあたしの親かって思っちゃう」
氷花は人の悪口を意気揚揚と話している。他人の悪口を言われたとき何を言えばいいか分からないし、同調するのもどうかと思う。そのため誰かの悪口を言ってくる人間は嫌だな思ってしまう。そんな自分もついつい言ってしまっているのだが。
「知らねえよ」
「なんでそうなるの? 何も思わないの?」
「そんな嫌いなら友達やめろよ」
「えぇ、そういうことじゃないじゃん」
「じゃあどういうことよ?」
氷花はさっきまでの威勢はどこへ行ったのかというほど萎れた顔をした。
氷花がグチグチと文句言っている横でふと目にした光景に俺は思わず息を漏らした。
満開の桜が坂道を薄紅色に染め上げていた。
氷花のアパートに来てから間もない俺はこの坂にこんな立派な桜並木道があるとは知らなかった。
歩道だけでなく車道までもが桜の絨毯で覆われており、車が通り過ぎる度にふわりと花弁が舞い上がる。その幻想的な絵画のような景色に俺は「うわぁ」と声が漏れ出る。
「今年も咲いたんだ」
氷花は嬉しそうな顔をしていた。だけれども、消え入りそうな声で言うものだから俺もなんだが感傷的になってしまう。
「宗太郎」
「なに?」
「坂登って行こっか」
駅へ向かうのならば少し遠回りになってしまうが、発車時刻にはまだ余裕がある。
「うん、そうしようか」
氷花はにっこりと笑みを浮かべ、桜坂を早足で歩いていく。その背中が離れていくのを見てつい変なことを口走る。
「桜ってこんなに咲くの早かったっけ?」
「今年は早いかな。去年はこの頃はまだ咲いてなかったもん」
「そっか……」
あれから一年か。
「あれから一年だね」
「……うん」
一年という歳月の短さに驚いた。まだ心にも頭にも焼き付いていて、癒えない。
彼女は二度とこの美しい季節を見ることが出来ないのだ。桜の色も突き抜ける様な空の色も。季節の色を見ることが出来ない。
見えないのだ。
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