第18話 縮まる距離
まだ弱い雨が降り続いているが、雷は十分もすれば過ぎ去っていった。ミランダを膝に乗せ、背を撫でていたハインリヒの手が止まった。
「雷は終わったようだな。もう大丈夫か?」
「あ、はい。お恥ずかしいところをお見せしました……」
早く雷が過ぎて良かったと、ほっと胸をなでおろす。これ以上このままでいると、身分不相応な気持ちを抱いてしまうところだった。
ハインリヒのことは好ましいと思っている。でもそれは憧れであって、超えるべきではないと理解している。
「重たかったですよね……ありがとうございます。心強かったです。なんとお礼をしたら良いのか」
そっとハインリヒの肩を押して体を起こし、隣に降りた。もう大丈夫だと、笑顔を作って向けた。ご飯の準備を再開させようとソファから立ち上がる前に、頬に彼の手が添えられた。
「ミランダ」
体を離したはずなのに、ハインリヒの顔が近くにあった。彼の翡翠の瞳はまっすぐにミランダの薄紫の瞳を捉えている。物欲しそうにしているように見えるのは、自意識過剰なのだろうか。目をキュッとつむり、口を横に結んだ。
「お礼はそうだな……」
そう彼は呟くと、呆気にとられているミランダの額にそっと口付けをした。
「え……っと」
その瞬間に視界は煙で覆われ、ちょこんと座る白い猫だけが残った。
「撫でてくれ。礼はそれで良い」
ミランダの混乱をよそに、ハインリヒはソファにコロンと転がった。
「あなたのマッサージテクニックをもう一度体験したい。あれはすべての疲れが取れるようだった」
キリっとした表情なのに、しっぽは催促するようにソファをぺしぺしと叩いている。それは照れ隠しのように見えた。
(なんだ……猫になりたかっただけなのね。呪いの影響が強い証拠だわ。もしかして、だなんて構えちゃって恥ずかしい……)
安堵半分、残念半分の気持ちを織り交ぜながら、白いビロードのような体躯に片手を伸ばし、ひと撫でしてから気付いた。
「――っ」
今は猫の姿をしているが、間違いなくハインリヒだ。撫でているのは先程まで自分を抱きしめていた逞しい体だ。
(これ、実は……とんでもなく破廉恥な行為なのでは?)
初日に見た腰布一枚のあの美しい端整な体まで思い出してしまい、鼻血が出そうだ。
ベルンのこともあり、人は人、猫は猫の姿だからと完全に割り切って接してきた。ハインリヒの行動を見て、彼も割り切っていることは分かっているというのに。
「ミランダ?」
止まった手を不思議そうにハインリヒが見ている。
(もう一度割り切るのよ。雷の怖さから助けてくれたハインツ様にきちんとお礼をするの。彼は猫、今は猫、猫ったら猫! それ以上の感情は持ち合わせてはいけないわ)
ミランダは一度深呼吸をしてから、再び手を動かし始めた。
「今日は本気出しますよ」
「は? どうした急に……にゃっ!」
ミランダは猫のツボをピンポイントで狙って撫で始めた。ハインリヒの喉はゴロゴロとなり、以前と同じく体をくねらせる。そして少し落ち着いたところで膝の上に乗せ、前足や後ろ足、首などを無心で揉みあげていく。
「ミ、ミランダ……もう……や……め……」
ハインリヒは睡魔に襲われながら言うが、本能に抗えず逃げようとしない。そのままマッサージを続けた結果――へそ天で眠る猫が一匹出来上がった。
上から見ても、横から見ても、どこから見ても猫だ。あの美丈夫ではない。ただの猫だ。
(やりきったわ……煩悩に勝利したのよ)
ミランダは満足げに頷き、お昼ごはんの支度を始めたのだった。
雨がすぐに止み、晴れたお陰もあって、結局は泊まらずに済むことになった。そのことにホッとする。
日が沈む頃には、ミランダたちは王都の家に帰ってくることができた。庭先で足についた泥を落とし、石の上を歩いていく。裏口の扉を開ければ、ベルンが出迎えてくれた。
「ただいま、ベルン」
「今帰った」
「みゃあ〜!」
ベルンは棚の上からミランダの肩に飛び乗り、頬を擦り寄せ甘えてきた。
(か、可愛いわ! 私のベルン!)
ミランダは腕の中にベルンを閉じ込め、腹に顔を埋めて香りを吸った。嗅ぎなれたお日様の香りに疲れが飛んでいく。
(ほら、大丈夫だわ。猫耳少年の姿とは結びつかないし、きちんと人と猫で割り切れている)
腕の力を緩めるとすぐにベルンは額でミランダの唇を奪い、人の姿になって床に着地した。
「オキャク、コナカッタ。デモ、テガミキタ」
ベルンから渡された手紙の差出人は、伯爵家に嫁いでいったミランダの姉ドロシーからだ。すぐに開封すると綺麗な百合が型押しされた招待状が出てきた。内容を見て、ミランダはゴクリとつばを飲んだ。
「どうした?」
「ハインツ様……私、お茶会に行こうと思います」
招待状をハインリヒに見せた。
すると彼の翡翠の目は丸く見開かれ、ひげがピンと広がった。
内容はドロシー主催のサロンの招待についてだった。そのサロンメンバーの名前にドーレス家キャメリアとアンダーソン家マリアローズが記されていたのだ。
「ミランダ、どういうことだ?」
「私から姉様にお願いしたのです。姉様が伯爵様との恋を成就させたのは師匠の占いのお陰なのです。その弟子として紹介してもらうのです」
嫁ぎ先の次期伯爵の令息はとても人気の高い青年だった。競争率が激しい中、ドロシーはミランダの師匠に手助けを求めた。師匠はドロシーにラッキーアイテムを占い、授けた。それがハプニングを起こし、ドロシーと次期伯爵は距離を縮めゴールインした経緯がある。
その弟子が占いの修行をしている。試してみないか――と、キャメリアとマリアローズの耳に入れてもらったのだ。
(勝手にお店を出て、見習いの弟子に丸投げして迷惑かけられてるんだから、名前くらい貸してもらうわよ。ね、師匠?)
師匠への憂さ晴らしも兼ねて、こうして魔女の占いという餌を吊るした。案の定、探しものをしているふたりの令嬢が釣れたのだった。
「本当に行くのか? だってあなたは……」
ハインリヒは揺れる翡翠の瞳をミランダに向けた。
「はい。人見知りですね。すでに緊張して、喉から心臓が飛び出そうです」
相手は初対面で、犯人候補。緊張しないはずはない。でも待っていても状況は変わらない。 むしろ猫の呪いが長引くほど結びつきが強まり、解呪が難しくなる可能性がある。
チャンスが作れるなら、作るべきだと動いたのだ。
「何故、俺に事前に相談しなかったんだ?」
「反対するかと思いまして」
「当たり前だ! 解呪や犯人探しは協力して欲しいしが、進んであなたを危険に晒したい訳ではない」
猫の姿からでも、彼が本気で心配してくれていることが分かる。だから精一杯の笑みを浮かべて、伝える。
「大丈夫です。詮索せず、占いが終わったらすぐに帰ってきますから。そんなに危険はないでしょう?」
「だが……」
「魔女の力を悪用した犯人が許せないのです。これは善き魔女としての誇りを守る戦いで、ハインツ様だけの問題ではありません。悪い魔女の呪いに負けたくないのです」
視線をそらすことなく、力強く言い切った。
ハインリヒは今までにないミランダの気迫に、瞠目した。ずっと彼女の力を信じ、肯定してきた彼が振り絞った勇気を止めるはずはなかった。
「あなたって人は……分かった。頼んだ」
「はい。任されました」
善き魔女として、自信を与えてくれた彼のためにも頑張ろうとミランダはしっかりと頷いた。
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