第17話 魔女の森
翌日、ミランダは森へと出かけていた。手には大きなバスケットを抱え、足元には猫のハインリヒがお供をしている。ベルンはお留守番だ。
木の枝につけてある印を頼りに奥へと進み、春の雪解け水で侵食され出来た天然の岩のトンネルを潜った。ハインリヒもトンネルから出てきたところで、草むらに隠すように足元に紐を張って鈴をつけた。
「善には祝福を、悪には警鐘を、訪れに歌え――鈴さん教えてちょーだいな♪」
奥に踏込もうとする人がいれば、離れていてもバスケットにつけている鈴が連動してなる仕組みだ。
もう人の気配は全くなく、聞こえてくるのは風に揺れる葉の音と、小鳥のさえずりだけになった。
「ミランダ、人の姿になりたいのだが」
「分かりました」
ミランダがしゃがむと、口づけの儀式がされた。すぐに煙は風に流され、人の姿が現れる。屋外でハインリヒの人の姿を見るのは初めてだ。
木漏れ日の光を受け、色彩の薄い彼の姿は森の中では幻想的で、精霊や妖精の類と見紛うほどだ。
いつもはすぐに後退って距離を取るミランダも、このときだけは見惚れて動けずにいた。
「ミランダ、手を」
しゃがみ込んだままのミランダを、ハインリヒが手を引っ張り引き上げた。はずみで彼女のローブのフードが肩に落ち、開いていた顔の距離が縮まった。
ここまで顔が綺麗だと、恥ずかしいとか、そんな次元は超えていた。長く見惚れていると、だんだんとハインリヒの耳が赤くなりだした。
ようやくミランダの意識が現実に戻り、慌てて距離をとった。遅れて顔が熱くなる。
「も、申し訳ありません。不躾に見すぎてしまいました」
「いや、構わない。俺もあなたの仕事姿をじっと見てしまうし……お互い様だ」
「はい」
お互いに俯き、しばしの静寂が訪れた。いつもならハインリヒがすぐに何かしら話すか行動を始めるというのに、今日は少し様子がおかしい。
「ハインツ様?」
「……行こうか。バスケットは俺が持つ」
「ありがとうございます」
その後もふたりの言葉数は少なく、黙々と歩き進んだ。
そのうち森が開けた場所にたどり着く。地面には薬草が茂っており、小さな草原の中央には小さな赤い屋根の家があった。
ここはミランダの師匠の師匠が住んでいた家だ。亡くなった彼女の代わりに月に一度、家や薬草を管理するために足を運んでいる。
「癒やしの魔女様、お邪魔します」
空に向かって一言挨拶をしてから、敷地に踏み込んでいく。
家の扉や窓を全て開け放ち、空気を入れ替えている間に薬草畑を整える。ハインリヒは猫の姿に戻ることなく、ミランダと同じように雑草を抜き始めた。
「ここは壊さず残しているんだな」
「私が一人前の魔女になったら、お店は私が引き継ぎ、師匠は街を出てここに引っ越したいそうです」
「なるほど、ここは静かで良い」
予想していない答えに、ミランダは瞳を瞬かせた。王子ほどの身分ならば、豪華絢爛なパーティーで多くの人に囲まれ、賑やかにするのが好きなものだと思っていた。
「はは、意外そうな顔しているな。俺には夜会のシャンデリアの光も、楽団の音も、纏う香水の香りも全て強すぎる。夜会より剣を振っていたいタイプだからな。ここは木々の影が心地よく静かで、薬草の仄かな香りが気分を落ち着かせてくれる。こういう場所は好ましい」
それを聞いて、猫のときの彼があえてスカートの中に逃げ込んでしまう理由が分かった。ミランダのスカートの中は、森の中に似ているのだ。
恥ずかしい思いもしたが、実害はない。ハインリヒが好ましい場所を提供できていたことが嬉しい。
「ふふふ、連れてきて良かったです」
自然と笑ってしまう。するとハインリヒはまたミランダをじっと見つめた。
きょとんとした表情を向けて、「どうしたのですか?」と聞けば、不思議そうな顔を返されてしまった。
「もう目線をそらしたり、言葉を詰まらせないんだなと」
「そういえば……」
目つきの悪い顔を見せることでキツイ性格だと誤解されることもない。口下手であることも受け入れてくれている安心感。顔を合わせて会話することへの不安はもう消えていた。
変わらず整いすぎた顔にはドキドキしてしまうが。
「きっとハインツ様が良い人だと心から思えたからです。お陰できちんと顔を出してお話できる人が増えました。嬉しいです」
宝物が増えたような気持ちに笑みが深まった。それをハインリヒは眩しい物を見るかのように、目を細めた。
「私もミランダのその笑顔が隠されることなく、見られるようになって嬉しい」
「――そ、そうですか?」
「その薔薇のような赤い髪も、薄紫の瞳も美しいから、隠していて勿体ないなと思っていたんだ。これからは見放題だな」
ハインリヒがほんのり頬を染めてはにかむものだから、ミランダも伝播したように頬に熱が集まった。
コンプレックスを感じていた容姿を彼に褒められるのはなんだかとても嬉しくて。でもやっぱり恥しく、外されていたフードを深く被った。
胸の奥がじわりと熱を持ち始める。だけれど同時に暗雲も広がっていく。急に湧き出た感情に戸惑いを感じていると、薬草を掴む手にポツリと冷たいものが落ちた。
「……雨?」
真上はまだ青空だが、少し先では真っ黒な雲が迫ってきていた。黒い雲は目に見えて大きく成長し、ミランダたちがいる場所に急速に近づいてきている。こうやって空を見上げている間にも落ちてくる雨粒は増えてきた。
「ハインツ様、急いで家に入りましょう」
薬草を摘んだバスケットを抱え、家の中に入った。すぐに雨は本降りとなり、森を濡らしていく。
どこまでも広がる分厚い雲を見て、しばらくは止みそうにないと、ミランダはため息をついた。
「帰れるかしら……雨の勢いが止まらなければ、泊まりになるかもしれません」
「泊まり……か。まぁ、そうだよな、こんな雨で帰っては危険だ」
「申し訳ございません。天気を占っていなかったばかりに……持ってきた軽食だけでなくこの家には保存食もありますし、ご飯はきちんとご用意しますから」
「謝らなくていい。ただ留守番をしているベルンが大丈夫だろうかと思って」
「心配してくれてありがとうございます。留守番マスターですから大丈夫です」
ベルンはミランダの唯一無二の相棒だ。幼い頃からずっと一緒にいる大切な存在。人型だと幼い少年の姿だが、使い魔契約で寿命が伸びているだけで年齢は十を超えている。そんなベルンまで気にかけてくれていることに、ハインリヒの優しさを感じた。
(本当にどうして、こんなにも良い人が呪われてしまったのだろう。やはり伴侶の座を狙ってのことなの?)
やはり貴族の社会は怖いと思っていると、ピカッと外が青白く光った。
「――え」
数秒遅れてゴロロと雷鳴が小さな家を震わした。
「きゃぁぁぁっ」
ミランダは耳を押え、その場にしゃがみ込んだ。
「ミランダ!?」
「か、か、雷が……っ」
雷が苦手な魔女は多い。理由は雷が発するエネルギーの影響で魔法の力が乱れ、弱体化するからだと言われている。だから魔女は本能的に雷を恐れるとされ、もれなくミランダもそうだった。もしかしたら他の魔女より酷いかもしれない。
雷雲は近く、耳をふさいでいても雷鳴が激しく鼓膜を揺する。震えているのが自分の体なのか、この家なのかも分からない。
「ううっ」
いつもならベルンを膝に抱え、雷雲が過ぎるのを耐え待つのだが今日はいない。温もりのなさが寂しく、心細さを埋めるように自らの膝を胸に寄せた。
「ミランダ……」
「は、はいぃ……っ」
「少し失礼するよ」
「ふぇ?」
鼻声で返事をした瞬間、体が守られるように包まれた。そして優しく背中を撫でられた。
「大丈夫、落ち着いて。俺がいる」
「ハイ、ン……きゃっ」
また激しい雷鳴が響き、ミランダは体を強張られた。それをハインリヒは慰めるように抱き寄せ、トントンとゆっくりと優しく背中を撫でていく。
「大丈夫……大丈夫だ。怖かったら俺を掴んでいても良いんだからな」
「そ、そんなこと」
「あれだけ私の全身を撫でておいて、今更遠慮はいらないよ」
「それは姿がちが――きゃぁぁぁっ」
ひときわ大きい雷鳴で、ミランダは思い切りハインリヒに抱きついた。
「も、ももも申し訳……ご、ございません」
口では謝罪しつつも、恐怖に支配された体はハインリヒから離れようとしない。
「も、申し訳――」
腰を引いて体ごと離れようとするが、腕が言うことを聞かない。むしろ彼から離れまいと、腕の力は強くなり抵抗する。
「ふっ、あなたにならどれだけ甘えられても良い。遠慮はしないで」
「――っ」
この状況でそんなことを言われたら、もう抗うことなどできない。救いを求めるように縋れば、横に抱きかかえられ、体がふわりと浮いた。
ハインリヒは軽々とミランダをソファまで運び、彼女を腕に閉じ込めたまま座った。そしてまた背中を撫でる。
まだ実家を出る前、母が雷を怖がる幼いミランダを慰めてくれたときと同じだ。懐かしさに恐怖心がほんの少しだけ和らぐ。
だけど彼女を包み込む香りは母のものではなく、嗅ぎ慣れない異性の香りだ。
抱き寄せてくれる腕は優しくも力強く、ミランダを受け止める胸は筋肉の弾力を感じた。温かく、広い。今になってハインリヒが異性であると思い知らされる。
憧れていた謎の上司で第三王子という遠い存在だと思っていたのに、今はどうだ。
先程まで雷の音しか拾ってなかった耳に、自分の鼓動の音が届いた。
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