第10話 聖なる衣
「ミランダ殿……使い魔契約はどうなったのだろうか」
ハインリヒに不安げな声をかけられ我に返った。彼は神ではなく人間だ。慌てて彼の姿を直視しない様に視線を横に向ける。
「きちんと人の姿にお戻りになられたようですし、使い魔契約は成功しています。まずは買ってきた服を着てください。注意事項の説明は後ほどします」
「何から何までありがとう。感謝する」
「――っ、失礼します」
直視しなくても、チラ見しただけでもハインリヒの笑顔は太陽よりも眩しい。
巷では、真面目ゆえに表情の変化が乏しいだとか王家の剣だとか雪の精霊だとか言われていたが、噂とは当てにならない。
部屋の隅に用意していた服をすぐに彼の前に置いた。センスは服屋のオーナーに任せたし、数着あるため着こなしはお任せだ。
逃げるようにハシゴで二階フロアへと降りた。
(待って……あんなに眩しいハインリヒ殿下を飼う……いえ、一緒に暮らすなんて、私の心臓は持つのかしら)
深呼吸を繰り返していると、動悸が収まる前に上から「ミランダ」と声がかけられた。頭上の穴からはハインリヒが申し訳なさそうな顔を出していた。
「なんでしょうか。サイズが小さくて着れませんでしたか?」
「いや、服以前に……下着はないのだろうか」
「――!」
今度こそミランダの心臓は一瞬止まった。完全に失念していた。下着なしで過ごしてもらうのは余りにも酷だ。夜中に開いている服屋はないし、一瞬だけベルンの物を――と思ったが小さすぎる。絶対にだめなやつだ。過去の令嬢教育の一環で刺繍はできるが、簡単な部類とはいえ立体的なパンツをすぐに縫える自信はない。
(パンツ、パンツ、パンツ、パンツ……何か、パンツになるものは……あ!)
ふと思い出したミランダは急いで師匠の部屋に入り、本を探した。呪いや祈祷に関する段で目的の本を見つけると、内容を参考に白い布を真っすぐに裁断していく。幅の広い布と、細い布を簡単に縫い合わせた。その時間は約十分という早さだ。
「できたわ! ハインリヒ殿下、この書物通りにお試しください」
屋根裏部屋に戻り、ミランダ特製の下着を手渡した。
「ありがとう。助かった……っ!?」
ハインリヒは受け取り、畳まれていたそれを広げて息を詰まらせた。
細い布から垂直になるよう幅が広く長い布が垂れ下がっているだけだ。単なる平面の布地を前に、彼の顔には困惑の色がありありと浮かんでいた。
「こ、これは?」
「フンドシです! 異国の立派な下着なんです。神を奉るお祭りではこのフンドシひとつで人前にでることもある、神聖な下着だそうですよ」
ミランダは師匠の本を広げて、絵図を見せた。
「ほぼ裸ではないか……! いや、神の前では服といえど隠しごとは無粋。白ひとつでありのままを晒すのが礼儀ということ……なのか?」
本には罪や穢を落とす禊の儀式にも着用と書いてあった。
ハインリヒは無理やり自分を納得させるように、仰々しいことを呟いている。
「様々な種類があるのですが、最も簡単そうなものを選びました。このように細い布を腰に巻いて、幅広い布を後ろから股をくぐらせ、余った布は前に垂らすのです。ちなみにフンドシはつけるや履くと言わずに、締めるという……ようで……すっ」
ミランダはハッとして顔を俯かせた。殿方の下着について熱弁したことに気が付き、ようやく恥ずかしさがやってきた。
「し、失礼しました。どうぞお試しください」
さっきまでの勢いは鳴りを潜め、ポソポソと言い残して屋根裏部屋から撤退した。
そして数分後、服を身に着けたハインリヒが降りてきた。ハイネックのトップスにシンプルなベストとスラックスなのに、舞踏会に行っても問題なさそうなほど着こなしていた。問題は中身だ。
「……フンドシは大丈夫でしたか?外が明るくなったらきちんとしたものを買いに行きますので」
「締めてみたが問題ない。新たに買いに行く必要はない」
「そうですか。後ほど替えを縫っておきます」
「いや、自分で作る……と言いたいが裁縫はできないからな。手間をかける」
「いいえ。これくらいさせてください」
フンドシを気に入ってくれたらしい。日常使いするのであれば、次のはもっとしっかりしたものを作ろうと決めた。
ハインリヒにはダイニングテーブルの師匠の席に座ってもらい、使い魔の魔法についての注意事項を伝えることにした。ミランダは顔を合わせないよう視線を外しながら、口を開いた。
「人型でいられるのはだいたい三時間ほどでしょう。魔力が馴染み、繋がりが強くなれば四時間ほどまで伸びるかと思われます」
「猫の姿に戻ったあと、またすぐに魔法をかけ直し、継続して人の姿になることは可能か?」
「不可能ではありませんが、おすすめしません。与えられた魔女の力で中毒になってしまいます」
魔女の力は、魔女以外には異物だ。過剰に取り込むと毒になり、体を蝕むことになる。
つまりハインリヒの猫の状態が続いていることは、とても問題だ。彼にも心当たりがあるのか、眉間に深く皺が刻まれた。
「猫の姿のとき、何か気になることはありませんでしたか?」
「日に日に人としての思考が奪われていった。意志とは別に猫の本能のままに体が勝手に動くようになり、猫の姿に違和感がなくなっていった」
「今はどうですか?」
「朝、一度人の姿に戻ってから少し頭がスッキリした。だがまだ前よりは思考が短絡的なような感覚が残っている。だからといってキャットホールでの件はミランダ殿に不快な思いをさせてしまった。本当に申し訳ない」
人の姿だというのに彼の頭には伏せられた耳が見えるようだ。
「呪いが思考にまで影響していたのだから、仕方ありませんよ」
ハインリヒがミランダのスカートに躊躇いなく入っていった理由に納得した。本能的に静かな場所に逃げ込むことしか、考えられなかったのだ。
ミランダと出会わなかったら、本当に姿だけでなく中身も猫になってしまっていただろう。つまり今はミランダの力が猫の呪いを打ち消している状態だといえる。
「毎日、必ず人の姿になりましょう。猫化の進行を止めることができるはずですから」
「ちなみに制限時間以内であれば途中で猫に戻り、再び人の姿になることは可能だろうか。自分で言うのもなんだが、この姿は目立つ。隠れるにあたって、猫の姿のほうが都合がいい時もあると思うのだが」
ハインリヒの希望にミランダはビクリと静かに肩を跳ねさせた。できるのなら気づいて欲しくなかった話だ。
「無理なのか?」
「いえ……可能ですが……手段に少々難がありまして」
「危険が伴うのか? それならば諦めるが」
明らかにシュンと眉を下げて落胆するハインリヒの姿に、ズキリと胸が痛んだ。理由はミランダの個人的感情の問題であるだけなのだから。
「……スを返すのです」
「何をするって?」
「おでこに、キ、キスを返せば戻るのです」
罪悪感に耐えきれず、方法を告げた。ベルンを猫に戻すこともあり、知られるのは時間の問題で、諦めの気持ちもあった。
「私からキスをしたら良いのだな? 副作用などの問題はあるのか?」
首を横に振って否定するが、ミランダの顔は熱がでたように火照っている。
問題アリだ。大アリだ。
ミランダが猫相手にキスするのとは違う。人の姿をしたハインリヒの形の良い薄い唇が、おでこに触れるなんて、耐えられるのだろうか。
人見知りで、異性の手すら触れることもないというのに――果たして、おでこ一点とはいえ異性と接触して、意識を保っていられるのか自信がない。
ミランダの心情を察したのだろう。彼は口を一度横に引いて、神妙な表情を浮かべた。
「ミランダには恥ずかしい想いをさせてしまうが、優しくする。すまない、受け入れて欲しい」
「――っ!」
月夜に言うには強引で、誤解を生みそうな甘い詫言だ。眼差しは射抜くようにまっすぐで、その視線もミランダには慣れないもので、鼓動はどんどん加速していく。
ミランダは胸の痛みから早く解放されたくて、コクリと頷いた。
「では早速、良いだろうか?」
「へ?」
「もう夜も遅いし寝るだろう? 私が男の姿でいるより、猫の姿でいる方が君は寝やすいのでは……そう思ったのだが」
「た、確かに……おっしゃるとおりです」
ハインリヒは本当によく気が利く。気が利きすぎて、ミランダの気持ちが追いつかない。加熱しすぎてポンコツと化している頭を懸命に動かす。
「で、でで殿下の寝るところ、な、なんですが」
「先程の屋根裏部屋が良い。月が綺麗に見える。昨日使わせてもらった籠だけくれないか」
「かしこまりました。他にご要望は」
「大丈夫だ。ミランダには迷惑をかけるが、明日からもよろしく頼む」
言い終えるとハインリヒはミランダの横に立った。
俯いていても、彼の顔が近寄ってくるのがわかる。しかし吐息が触れそうな直前で止まり、離れた。
「その……そう顔を伏せていては、つむじにすることになるのだが……つむじでも大丈夫なのか?」
「す、すみませんっ」
目をキュッと固く瞑って、顔を上げた。緊張のあまり、口元まで固く結んでしまっていた。
(ベルンのときは平気なのに……ドキドキする)
これは単なる儀式で、ハインリヒもそう思っている様子だというのに、自分だけ変に意識してしまって恥ずかしい。
「失礼、レディ」
「――っ」
少しの間のあと、彼の唇がおでこに軽く触れた。その瞬間、心臓がぎゅっと締まったように苦しくなった。
顔の前から気配が消えるのを感じて、そっと目を開けると白猫が床から見上げていた。もう目を潰しにくる美形はいない。自然と体から力が抜けた。
「き、きちんと使い魔契約の魔法は働いているみたいですね」
「言葉も話せるし問題なさそうだ」
「そうですね。猫の姿でも意思疎通ができるのは良いことです。では籠を運んでおきますね」
ミランダの部屋にあった籠を屋根裏部屋に置くと、ハインリヒはするりと潜り込んだ。大きな口を開けてあくびをしている。やはり猫の姿だと、本能に引っ張られてしまうようだ。ただの可愛い猫の姿にミランダの顔は自然と綻んだ。
「殿下、おやすみなさいませ」
「うむ、おやすみ」
こうして、第三王子ハインリヒとのひとつ屋根の下暮らしが始まったのだった。
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