5−7

 新たな追っ手に見つかることもなくフナムシたちの縄張りを抜け出した。脚が壊れた以上、仕事はできないので、村へ戻ることにした。

 コクピットには、シャフトのいびつな駆動音が響いていた。

 肩越しに後ろをうかがうと、カナリアはうつらうつら舟を漕いでいた。緊張から解放され、疲れが出たのだろう。俺も大きくあくびをした。

「眠い」言ったのはカナリアだ。問いか、自分の気持ちを述べたのかはわからない。

「眠い」俺は答えた。

 不意に横から白い腕が伸びてきた。カナリアがシートの陰から身を乗り出していた。

「何だよ」

 彼女の髪が顔に掛かりそうなほど近くにあった。花のようなにおいが漂ってきた。嗅いではいけないような、だがいつまでも嗅いでいたいようなにおいだった。

 真っ白な指が無線のスイッチを入れた。彼女は何かを探すような手つきで周波数を操作した。

 砂嵐が晴れていくように、雑音が次第に〈音〉としての輪郭を帯びてくる。やがてそれは、音楽と呼べるものに変わった。

 楽器の演奏だ。流しの芸人が弾いていたバイオリンとかいうものと似た音だが、弾き方が違った。こちらの方はずっと伸びやかで、落ち着いていた。なんとなく、カナリアから漂ってきた花のにおいと結びついている気がした。

 演奏に、歌が絡みついてきた。こちらは無線機のスピーカーからではなく、後ろから聞こえた。カナリアの声。

 言葉を音色に乗せているようだが、知らない言葉だった。つい耳を澄ませてしまった。

 胸の、奥の方をくすぐられる感覚があった。

 今まで味わったことのない、だがどこか懐かしさを覚える感覚。

 ここではないどこかから聞こえるような音色。

 ここではないどこかから呼ぶような声。

 知っているようで、知らないような。

 知らないようで、知っているような。

 俺の、ずっと奥底にある記憶に響いてくる。

「ハチ」

 カナリアの呼ぶ声で、我に返った。

 バイオリンの音は、既に止んでいた。

「泣いてる」

 そう言われ、俺は泪が頬を伝っているのを知った。慌てて軍手の甲で拭い、誤魔化したくて笑いながら言った。

「何でだろうな」

 理由はわからなかった。カナリアも、何も答えなかった。

 降りしきる雨がトタンを叩くような音がして、別の演奏が始まった。コクピットは再び音楽で満たされた。

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