4−4
気づけばサロンの前に立っている。
角砂糖のような、白い石造りの建物。その側面に、四角い窓がいくつも並んでいる。中の様子は、通りからはうかがえない。何の物音もしないから、人がいるのかもわからない。わたしは中へ入る。
廊下を歩き、階段を上がり、また廊下を歩く。わたしの所属する創作集団の部屋の前にたどり着く。
ここまで誰にも会っていない。街でも、誰かとすれ違った記憶がない。
静寂の世界。
圧倒的な孤独。
わたしは扉に手を掛ける。開ける。
鳥のさえずり――ではなく、歌声が、わたしを包み込む。伸びやかな声。古の言葉が音色に載って辺りに満ちている。
わたしは戸口に立ち尽くす。そんな自分を知ったのは、講師が歌を止め、室内の視線が一挙にこちらへ集まったからだ。わたしは異物として、純粋な音楽のみで形作られた世界へ侵入したのだ。
謝罪を述べる。何に対してかは、心が定まっていない。全てに対して謝る。
講師は微笑む。わたしの父性担当保護者と同じように、ある年齢に達した男性が持つ余裕に満ちた笑みだ。彼は穏やかな口調で、わたしに着席を促す。わたしは歌い手に改めて謝罪をし、指示に従う。
わたしがいつも座る席は空いている。わたしのための空間。そう思うと、先ほどまで凍てついていた胸の内側に温かいものが広がっていく気がする。
近くの席の同期創作者二人がこちらを振り向く。彼女たちは茶化すような笑みを浮かべている。きっと休憩時間に質問攻めにするつもりだ。わたしはうんざりすると同時に、しかしうれしさも感じている。
世界は動いている。
そしてわたしは独りではない。
わたしのせいで中断した歌が再開される。その後も、何人かの歌い手が壇上に上がる。彼女たちが歌い終えると、講師が感想を述べる。肯定的な意見や改善点を伝える。そうして歌い手は、己の歌を磨いていく。
そのやり取りを、わたしは久しくしていない。歌ができないからだ。このサロンでは、自分の創作した歌をうたう決まりになっている。純粋な歌唱のみのサロンも存在するが、わたしの適正はそちらではないと判断された。わたしが遺すことを求められているミームは、この世にまだ存在しない、独自の歌詞であり音色なのである。
溶けかけた氷が、また固まり始める。
完全に凍りついてしまう前に、休憩時間が来る。わたしは同期創作者たちに連れ出される。案の定、どうして遅れたのかとしつこく問われる。
〈送り〉の儀式を見に行っていたのだとわたしは伝える。
それだけか、と一人が疑う。誰かと一緒だったのではないか、ともう一方が言う。
一人だった、とわたしは答える。そう、一人だった。
だけど、傍らに誰かがいた気がする。
誰かの姿を探していたから、そう思うのだろうか。
彼のことについては、二人には言わずにおく。言わない方がいいという声が、胸の底から聞こえてきたのだ。言語化さえしなければ、彼の存在を誰かに知られることはない。言語化されない情報は、ここには存在しないのだから。
二人は尚も疑いの眼を向けてくる。本当に、何も隠していない?
彼女らがわたしに求めているのは、〈恋愛〉というジーン的欲求に基づく話題だとわかる。わたし自身にそういうことをした経験はないけれど、過去の文学や音楽を紐解いていると結構な確率で行き当たる。むしろ大半のミームが〈恋愛〉を主題に置いているような気さえする。人間が、まだ今のような環境では暮らしていなかった頃、〈恋愛〉は種の存続に直結する重要な要素だったらしい。もっとも、それは必ずしも子孫を遺すことに繋がるものではなかったり、個体によってはその行為を忌避する者もいて、効率的ではなかったという。
何より、種の存続に関わる事柄が、感情に左右されるという点が問題だった。不完全で非効率。これを是正するため、人間はジーンとミームを切り分けた。個人の単位ではミームを遺すことに専念し、ジーンについては〈神〉による管理運営とした。あらかじめ全員の遺伝情報を採取しておき、ここの人口の増減に応じて新たな個体を生み出していく。ジーン的な繋がりである〈親子〉〈家族〉という概念も見直され、適切な保護者の元に子が配されるようになった。これにより、親が子の養育を放棄したり、殺してしまうといった事象がなくなった。子供が親を殺すこともまた然り。自然の赴くままに家族が構成されていた頃は、その家庭構成員同士の殺傷が多かったというから、これがあるべき理想の形なのだと思う。
ここまで物理的にジーン的なるものがわたしたちの日常からは切り離されているものの、完全にはなくなっていないと感じることもある。それが、彼女たちが時折話題に上げる〈恋愛〉について話している時だ。
きっとそれは、どれほど人為的な技術を駆使しても取り除くことのできない、人間の芯を形作る本質のようなものなのだろう。
けれど、残念ながら今のわたしは、二人を満足させられるような答えは持っていない。
本当に一人だった、と強く伝えると、二人もようやく引き下がっていく。一人であり、独りだった――そこまでは言わずにおく。
それから二人は、わたしの歌ができないことを心配してくれる。焦ることはない。いつかできる。口々にそう言う。わたしは礼を述べる。わたしの周囲の人々は、いつだってわたしを労い、優しい言葉を掛けてくれる。
それなのに。
わたしは、そんな人々の生きる世界に違和感を覚えている。
「なに、そう自分を責めることはないさ」
頭を殴られたような気がする。痛みはない。ただ、衝撃だけがあった。
わたしは辺りを見回す。
いた。
黒い鳥。窓の外の枝にとまっている。
どうしたの、と傍らの同期創作者たちが訊ねてくる。彼女たちには何も聞こえていない。何も見えていない。
彼は、わたしにしか見えていない。
「君が悪いわけじゃない。だから、そう気を落とさないで」
わたしは立ち上がり、窓へ近づく。後ろから声が掛かるけれど、振り向いている余裕はない。
「場所を変えようか」
〈蛇〉の提案に、わたしは小さく頷く。
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