2−2

 家を出ても教室へ真っ直ぐ向かう気にはなれず、街を歩くことにする。頭の整理をしたい時にはいつもそうしている。

 立ち並ぶ砂糖菓子のような四角く白い建物を横目に見ながら、人通りの少ない道を歩く。角を曲がるごとに、とりとめのない考えが浮かんでは消える。答えには近づかないけれど、悩んでいること自体を忘れることができる。

 すれ違う人々もまた、何か考え事をしているようだ。わたしのことなど見えていないかのように、遠い目をしている。あるいはわたしも、同じ眼をしているのかもしれない。

 空には――硝子の向こうには、青空が広がっている。太陽も雲も、硝子を隔てた先に浮かんでいる。雨や強風からわたしたちを守る硝子。加護であり、罰でもある硝子。誰がどのようにして作ったのかを知る術はない。知ろうとしていることを、公にすることも許されてはいない。

 やがて、聖堂前の広場に着く。折しも、聖堂では〈送り〉の儀式が行われている。知らず知らずのうちにこれを目的として、足が向いたようだ。

 扉を小さく開き、体を滑り込ませる。中では司祭の声が響き渡っている。

 前方の祭壇には白い花が敷き詰められ、その中心に蓋が開いたままの棺が見える。棺の中では、これから送られる人物が眠っている。高名な小説家の女性だ。歳は、三十歳ほどだろうか。年齢の上限に達したのではないようだ。面識のないわたしでも顔を知っているぐらいなので、務めを果たしたと見做されたのだろう。

 ふと、父性担当保護者の顔が浮かぶ。

 彼も年齢の上限に達する前に〈送り〉の知らせが来た。去年完成した音楽堂設計の功績を認められたのだ。知らせが来た日は、家族構成員全員で喜んだ。母性担当保護者がいつも以上に腕を奮い、食べきれないほどのご馳走を作った。

〈送り〉について、わたしたちが知っていることは少ない。どこに送られるのか、なぜ送られるのか、送られた後どうなるのか。それは誰にもわからない。

 ただ一つ確かなのは、その知らせが来たら泣いて喜ぶべきことだということだけだ。

〈送り〉の儀式には、歌が付きものだ。〈送り〉を受ける本人が過去の名曲から選ぶこともあるが、わたしの父性担当保護者はわたしの作る歌を希望した。音楽家が同じ家族構成員にいるのだから、当然といえば当然の話だ。

 わたしは空いていた最後列の席に座る。参列者は誰もが俯き、司祭の説法に聞き入っている。わたしも同じように耳を傾ける。

 語られる聖書の言葉は、それが書かれた時とは根本的な仕組みが異なっている。そのため、本来持っていた意味がいくらか削ぎ落とされているのだと聞いたことがある。その時削ぎ落とされた意味は、今のわたしたちにとっては価値のないものだ、とも。元の言葉で読みたいと思ったから、その話についてはよく覚えている。今から考えると、あれが旧言語に対して興味を抱いたきっかけかもしれない。

 わたしたちが普段使っている言葉は、昔のそれに比べると簡略化されているのだという。誰もが簡単に習得可能で、かつ正確な情報の伝達ができる。大昔、つまり人が外の世界で暮らしていた頃は、いくつもの言語が存在し、意思の疎通に苦労したらしい。同じ言語の中でも複雑な用法が規定されていて、誤解も生じやすかったそうだ。その誤解がやがては争いの火種となった。

 大きな争いがあり、今のような世界になる際に、人々は言葉のあり方を見直した。〈言外の意味〉というものをなくし、一つの表現には一つの意味のみを対応させることにした。そうして言語は今のような形となった。

 今では、いくつかの単語を並べるだけで確実に、自分の意図を相手に伝えられる。また、言葉に含まれた情報が全てであるとされるから、相手の思考も精確に読み取れる。相手は言った通りのことを思っており、それ以外のことは考えていないとされる。誤解もなく、疑いもない。争いの火種は、そもそも生まれ得ない。

 では旧言語が劣っていたかといえば、わたしはそうは思わない。たしかに伝達手段としては未熟で不便だったように見えるけど、芳醇な表現ができるのは、やはり旧言語の方だ。胸の隅に生じた気持ちを表す際に、的確な言葉が見つからずとも、言葉を重ねていくと、そのものではなくとも近しいものが出来上がる。だからこそ、ミームづくりにおいては未だに旧言語が有効なのだろう。絵画を描くのに手間の掛かる絵具が使われているように。像を彫るのに原始的な鑿が使われるように。

 もっとも、こうした考えは人前では口に出さない。過ちによって世界を滅ぼしかけた過去を賛美することは、禁忌の中でも重い罪となるから。保護者に困惑を浮かべさせるのみならず、道徳官の耳に入れば連行されかねない。

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