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 鳥が、硝子の向こうの空を飛んでいく。

 わたしは手を伸ばす。届かないのはわかっている。だけど、そうせずにはいられない。鳥はそうしたわたしの姿などお構いなしに、点となって、やがて消える。

 空にかざした手を胸元まで引き寄せる。手のひらを見つめる。

 わたしの手。

 たしかに、ここに存在している。

 裏返してみても異変はない。少なくとも、わたしには感じられない。

 先ほどと同じように、腕を伸ばしてみる。今度は正面に向かって。何もない、手すりの向こうへ。

 手のひらは、何にも触れない。何もないのだから、何かに触れるはずもない。

 だけど、この胸騒ぎは何なのだろう。わたしは何かを間違っている。そんな予感が、胸の隅で疼いている。

 これも、あの夢と関係があるのだろうか。

 あの夢。

 定期的に、わたしの眠りに訪れるあの夢。

 目をつぶると、ありありと思い出すことができる。

 わたしは湖のような場所で、水に浮かんでいる。

 辺りは闇。見上げる空には白い満月が輝いている。

 体を動かすことはできない。わたしにはただ、水音を聞きながら月を見上げることしかできない。

 声を挙げることも、泣くことも許されない。

 孤独。

 そこにはわたし以外に誰もいない。

 それなのに、わたしだけはいると確信が持てる。

 わたしはたしかに、そこに存在している。


 名前を呼ばれ、我に返る。

 母性担当保護者が、部屋の入り口に立っている。朝食の準備ができたと伝えに来たのだ。わたしはバルコニーを離れ、階下へ向かう。

 食卓ではすでに父性担当保護者が朝食を摂っている。彼は、わたしがなかなか降りてこないのを寝坊だと思って笑う。わたしは敢えて抗弁しない。すると母性担当保護者が、バルコニーで何をしていたのかと問うてくる。鳥を見ていたのだとわたしは答える。

 開け放った窓の外からは、鳥のさえずりが聞こえてくる。その中で、食器の触れ合う音が響いている。歌に合わせて楽器を鳴らしているような気分になる。

 わたしは保護者たちに訊ねる。

 どうして空は硝子で覆われているのか、と。

 二人は顔を見合わせる。いつもと同じ反応。小声で何か言い合い、こちらを向いて父性担当保護者が話し出すのも、いつもと同じ流れだ。

 彼は言う。

 大昔の人間が犯した過ちから身を守るためだ、と。これは罰であり、同時に加護でもあるから、疑ってはいけない。

 疑ってなどいないと、わたしは首を振る。ただ、硝子の向こうを鳥が飛んでいるのが気になっただけだ、と。

 我々にはあれが〈空〉なのだと父性担当保護者は言う。人には人の〈空〉があり、鳥には鳥の〈空〉がある。それを受け入れなくてはいけない。

 二人は早くこの話題を切り上げたいと思っている。禁忌に触れるからだ。彼らは一刻も早く、そこから立ち去ろうとする。わたしは、むしろ奥深くへ分け入りたい気持ちでいっぱいになっている。どこかおかしいのだろうか。

 歌はどうか、と母性担当保護者が訊ねてくる。それで空の話題は一掃されてしまう。

 順調ではないとわたしが言うと、焦る必要はないと父性担当保護者が優しい声で言う。まだ時間はあるのだから、と。

 わたしは頷く。だけど、気持ちは晴れない。このところ歌を上手く作れずにいる。曲も詞も、一切湧いてこないのだ。今までこんなことはなかった。井戸から水をくみ上げるように、当たり前に歌を作ることができていた。

 その井戸が、今は枯れている。

 原因はわからない。初めのうちは戸惑い、保護者たちに相談した。父性担当保護者は建築家で、母性担当保護者は詩人だ。だけど、彼らもそのような〈行き詰まり〉を経験したことはなかった。ミームづくりは個人の才能に合った形のものを行うことになっている。誰しもにとってそれは〈天職〉となっているはずであり、授けた天の采配に間違いがあるはずなどないのである。

 狂っているとするならば、わたしの方だ。そしてわたしには、おかしいと自覚する心当たりがある。

 あの夢。

 夜の湖に浮かび、満月を見上げているあの夢。

 保護者たちには話していない。誰にも話していない。どうしてだか、話してはいけない気がする。口に出さなければ、存在しないことになる。

 あの夢が、何らかの形でわたしから創作の力を奪っているような気がしてならない。

 夢のことを思うたび、音楽が聞こえなくなっていく。代わりに聞こえてくるのは、耳元でたゆたう水の音だけ。

 チャプチャプ。

 チャプチャプ。

 音楽は、聞こえない。

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