12-ⅩⅩⅡ ~「更科」の更生~

「……少々、つゆの味が薄めですな。これは自家製ですか?」

「ええ、そうです」

「ずっとこの味ですか?」


 蕎麦つゆを試飲していた先田がちらりと「更科」店主を見やると、店主はおどおどしたように視線を逸らす。


(……ははあ、なるほど)


 先田はそれで合点がいった。そして、やはりにっこりと笑みを浮かべる。


「……失礼ですが、蕎麦つくりのお手前は、どなたから?」

「え」

「やはり、先代のお父様からですか?」

「そ、それは、その……」


 もじもじしていた店主だったが、先田の柔和な笑みは、押しが強い。つ、プレッシャーを与えるのではなく、あくまでリラックスを促すものだった。サラリーマン時代から、「お前の武器は笑顔だ」と、先田龍之介は言われていたほどである。


「……実は、独学なんです」

「やはりそうでしたか。先代は――――――」

「亡くなったのは、30年も前になります。心筋梗塞しんきんこうそくで……」


 店主の父、先代「更科」店主は、頑固で生涯現役を謳っていた。それがいけなかった。突然すぎる死に、周りが全く着いていけなかったのだ。


「私の手元に残っていたのは、この店と、秘伝のつゆだけでした。レシピなんかもなくて、親父が作ったものを、注ぎ足していたんです」


 店をたたむことも考えた。だが、ずっとこの店で生きてきた自分の母に泣いて頼まれてしまった。「お父さんの遺したこの店を潰さないでほしい」と――――――。


「蕎麦つくりは、手あたり次第で。本を読んだりして、店を経営する前に何とか身につけました。幸い、道具なんかは揃っていたので、使い方さえわかればどうとでもなります。でも……」

「――――――お父様の味だけは、どうにもできなかった?」


 当初は手伝ってくれていた店主の母も、そのレシピだけは知らなかった。父は、「いつかしかるべき時に教える」とだけ言っていたそうで、その時を待たずして逝ってしまった。秘伝のつゆは、10年以上も前に失伝した――――――。


「それからは、みるみる客足が減っていきました。何とかしないといけない、でもどうしたらいいかもわからない。お袋ももう死にました。誰も、こんなジジイになった私に、道を示してくる人はいません。そんな私が、飲食店組合長として道を示さないといけない……」


 店主の抱えていた思いに、先田はうんうんと頷いた。この男は、頼るものがない中、それでも必死に生きてきたのだ。

 会社にしがみついていたころの自分を思い浮かべて、先田はその恐ろしさが良くわかった。自分も、かつて勤めていた会社に、必死にしがみついていた。それを失うことが、とても怖かった。


「……よく、わかりました。そして、よく話してくれましたね、更科さん」

「先田、さん……」

「こんな老人で良ければ、貴方に指南いたしましょう。私も、人づてに学んだ料理で、今では唐揚げ屋なんぞやっています。今後店で蕎麦を作る予定もないですし、誰かの役に立つなら、そうした方がいい」


 店主の背中をポンポンと叩いて、先田は袖をまくった。


「それに、私に料理を教えてくれた方も、きっとそうした方が喜んでくれますからな」


******


「……だってよ?」

「だから何です。……愛さん、ニヤニヤするのやめてもらっていいですか?」


「更科」にて厨房の様子を見やっていた蓮たちは、ここぞとばかりに安里修一をいじっていた。

 ここに来たのは、先田の「達人」としての指導ぶりを確かめるためであったが。


「――――――ま、問題なさそうですかね? これなら」

「そうですね。やっぱり、年上なのが良かったんでしょうか」

「年長の方に教わった方が、安心して学べる、ってことですかね」


 特に軋轢あつれきなんかもなく、先田の言う事を、店主はうんうんと頷きながら聞いていた。元々サラリーマンだったというし、人に教えを乞うこと自体は不得手ではないのかもしれない。


「……教えてくれる人が、いなかったってことか」

「そのうち年齢も重ねてポジションについてしまったことで、ますます教えを乞うことなどできなくなってしまったんですねえ」


 だが、この調子なら、彼も自身の蕎麦を作ることができるだろう。先代店主秘伝の味ではなくなってしまうだろうが。


「それは遺してなかった、先代の店主が悪いと思います」


 きっぱりと愛は言い切った。そして同時に思う。


(……お父さんに、いざって時のためにレシピをまとめておいてもらおう)


 もちろん今すぐ死ぬなんて考えはないが、用心するに越したことはないと、固く決心したのだった。


「まあ兎にも角にも、「更科」は問題なさそうで良かったですよ」


 達人は先田のほかに4人。商店街の組合長である松が、何とかかき集めてくれた。熱心に説得したうえで、それぞれお店について修行を始めてもらっている。それぞれの店でも、熱心な指導が行われていた。


「根はいい人たちって、加藤さんが言ってた通りですよね。みんな、一生懸命覚えようとしてる」

「そういやあの女の人、容体どうなったんだ?」

「依然として目を覚まさないようです」


 そうか、と蓮は呟く。商店街飲食店の復活と、加藤美恵のためにやるべきことはそれだけではない。


「……轢き逃げ犯が捕まったっていうニュースは」

「ないですね。ついでに言えば、車は「わ」ナンバーでした」


 つまりはレンタカー。車から探すのも難しいという事か。


「どこから借りたとか、お前なら探せんだろ?」

「簡単に言ってくれますねえ。一体レンタカーショップが徒歩市だけでもいくつあると思ってるんですか」

「いいからとっとと調べろ。んで、調べた後は――――――」


 蓮は、こぶしをバキボキと鳴らす。


「――――――俺の仕事だからよ」

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