5-Ⅳ ~大人げない依頼人~

「すいませーん……」


 安里探偵事務所の扉を開けた女は、思わず面食らってしまった。


 ドアを開けた途端、自分を取り巻く空気が一層重くなったのだ。まるで重力でも倍になったようだ。


 その中心にいるのは、応接用のソファに寝っ転がる一人の男。

 雑誌で顔を覆っている彼は、女の顔をちらりと見た。


「あ″?」


 その眼光は雑誌に遮られた暗がりから、赤く彼女を突き刺す。その瞬間、女の全身から鳥肌が沸き立つ。まるで凶暴な肉食獣に睨まれたか草食動物のような、肌ごと毛が逆立つような感覚。明らかに危険であるという信号が、彼女の脳を待たず脊髄から全身へと送られた。


「失礼しましたぁ!」


 開かれたドアが音を立てて閉まり、そのままビルの階段を駆け下りる音が事務所に響く。ビルから慌てて走り去っていく女を、安里が窓から見下ろしている。姿が見えなくなったところで、ため息を吐いた。


「あのね、お気持ちは察しますけど。露骨に機嫌悪くするのやめてくださいよ。せっかく来た依頼人が逃げちゃったじゃないですか」


 雑誌を顔からどかして、蓮が向くりと起き上がる。今の彼は、昨日とは比べ物にならないほど不機嫌であった。


 昨日の夜、松から持ち掛けられた話は榎田から受けた話とほぼほぼ同じ内容だった。


「グラウンドの使用権をかけての話の、後ろ盾になってほしい」

「バカじゃねえの!?」


 思わず怒鳴り散らしてしまった。手に持っていたコップを握りつぶしそうになる。


「いや、確かに大人げないとは思う。だが、この通りだ。何とか引き受けてくれないか」

「……それで困るのはガキどもだろ」

「……確かにそうだ。だが、市役所からも『そう言うのは当事者間で決めてくれ』と言われてしまってね」


 問題のグラウンドは、公園に隣接している。つまりは、市の所有地だ。どうやら、そんなところにまで相談を持ち掛けているらしい。随分なことだ。


「私がウォークマンズのグラウンドを売却する条件に提示したのが、新しいグラウンドの確保なんだ。それで、その……手近なところが、あのグラウンドしかなくてね。監督にも相談に行ったんだが、門前払いされてしまって」


 聞いている話は榎田の時と同じだ。その内容のバカバカしさに、蓮は溜息をもらす。


「できれば、大人の話し合いで決着をつけたいんだけどね。向こうの監督が話を聞いてくれないから、聞いてくれそうな人に立ち会ってほしくて」

「……大人の話し合いに、高校生巻き込んでもいいのかよ」

「そ、それは……なんかいい人いないか、って話をしていたら、麻子さんに君を紹介されてね。場数を踏んでるからって」


 蓮はじろりと麻子を睨んだ。麻子は遠巻きに首を横に振って手を合わせる。どうやら困ってるから相談に乗りはしたが、詳細がこんな話だとは聞いていなかったらしい。


「……で?」

「監督とは話し合いの場をもう一度設けるつもりだ。その時に私の後ろに着いていてほしいんだよ。もちろん日時は君に合わせて提案するから」


 そして、松は懐から茶封筒を取り出す。それをぽんと置くと、その厚みが良く分かった。


「もちろん、ただでとは言わない。バイト代も出そう。バイトしているそうじゃないか。お金は要りようだろ?」


 麻子の奴、それも話したのか。蓮はさらに険しい剣幕でじろりと睨んだ。麻子はただただ縮こまって平謝りするばかりだ。


「……あのな、松さんだっけ?」

「おお」

「……一言だけ言っとくよ」


 蓮は茶封筒を掴むと、松の前に叩きつけた。


「俺は金のためにバイトしてんじゃねえ。……よーく覚えとけ」


 叩きつけた衝撃で、食卓が真っ二つに割れる。目を丸くした松は、椅子からもすっ転んで蓮を見上げるばかりだった。


「……え、違うの?」


 呟いたのは麻子だ。


「……お前も知らなかったんかい」


 蓮は息を吐いて、スマホ片手に階段を上がる。


 壊した机を弁償しなければならない。


**************


「机、葉金さんに作ってもらったって話ですけど」

「あいつ、最近家具作りもやってるらしくてな」


 オーダーメイドで作ってもらった机は、翌日中に葉金に作ってもらった。机を壊した時は大目玉を食ったようだったが、作り直した新しい机を母はいたく気に入ったようで、それで壊したことは何とかうやむやにできている。


 麻子は、松が帰った後に、蓮にひたすら頭を下げていた。


「ほんっとゴメン! ああいう危ない話だと思わなくてさあ。てっきり荷物運びかなんかかと思って」

「……ま、商店街のじーさんが用心棒なんて頼むとは思わねえよな、普通は」


 ソファに座りながら、蓮はコーヒー牛乳のパックを口に付ける。風呂上がりにはコーヒー牛乳を一杯。これが蓮のルーティーンだ。


「それにしても、その少年野球の監督からも同じこと頼まれてたとはねえ。そりゃ怒りもするわ」

「何だってんだどいつもこいつも。人をバケモンみたいによ」

(……実際バケモンだろ、アンタは。私に勝つんだから)


 麻子は先日蓮にボコボコにやられた時のことを思い出す。

 世界征服を企む悪の組織、『ゾル・アマゾネス』の首領、ニーナ・ゾル・ギザナリアである内藤麻子は、先日怪人の姿で蓮と戦わなくてはならなくなった。その際、怪人として本気の本気で戦ったにも関わらず、一方的に叩きのめされてしまったのだ。

 だが、不思議と恐怖はない。元々蓮が赤ん坊のころからの知り合いだし、蓮は麻子の正体を知らない。自分が何かしない限り、今の関係が崩れることはないことは、37年の人生経験からなんとなくわかっていた。


「……でも、あの組合長がああまで言うとはねえ」

「あん?」

「いや、商店街じゃすっごくいい人なんだよ? 町の人の相談にも、逆に乗るくらいだし」

「そうか? 頭のおかしいジジイにしか見えなかったぞ俺には」

「……なんか、事情でもあるんかね?」


 首を傾げてみたところで、結局答えなど浮かびもしない。

 

「……何だってんだ、全くよ」


蓮はふてくされたまま、1リットルのコーヒー牛乳を一息で飲み干した。

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