1-Ⅰ ~紅羽蓮の痴漢退治~

 紅羽蓮あかばれんが家に帰ってきたのは、午後10時を回ったころだった。バイトがすっかり長引いてしまったのである。


「ただいま……」

「おかえり。ご飯あるけど?」

「朝食うわ。シャワー入ってくる」


 母親の言葉を流しながら、さっさと洗面所に向かう。そのドアは固く閉ざされていた。


「……誰かシャワー入ってんの?」

亞里亞ありあちゃんが入ってるわよ。ご飯は?」

「……食ってくるってラインしただろ?」


 蓮はぎろりと、睨むように母を見やった。


 赤く、とげとげした髪に、鋭い目つき。普通の人ならたじろいでしまいそうだが、すっかり見慣れている母はこゆるぎもしない。いつものように、細い目の奥から蓮をじっと見やる。


「……わかったよ、食うよ」

「うん。そう言うと思った」」


 母に乗せられて仕方なく居間に行くと、大皿に盛られた肉じゃがが目立つ。それは1人で食べる分には明らかに多い。


「……俺が食うこと前提で作ってないか?」

「だって蓮ちゃん、食べ盛りじゃない? いっぱい作らないとね。大きくなれないわよ」

「……身長なんざもう止まってるっつーの……」


 蓮は溜息をついた。母はこんな風に間の抜けたことをすることが多い。いつものことだ。


 観念して、肉じゃがの前に座る。


(……ラーメン食って来たばっかだけど、まあ大丈夫だろ)


 蓮は自分の17歳の胃袋を信じることにした。前を見ると、自分の向かいに母が座っている。おおよそ42歳とは思えないほど見た目の若い母が、蓮のことをじっと見ていた。


「……なんだよ」

「なんだかんだで蓮ちゃん、食べてくれるのよねぇ」


 そう言って笑う母を無視して、蓮は肉じゃがと白米、味噌汁の3つに箸を伸ばした。

 やがて妹の亞里亞が風呂から上がるころには、肉じゃがも白米も味噌汁もすべてきれいになくなっていた。

 シャワーを浴び、ジャージに着替えたころ、時刻は午後11時だった。さっさと歯を磨き、階段を上って自分の部屋に戻る。


 部屋に入ると、迷わずベッドへとダイブした。

 腹がパンパンで、ひどく眠い。


(さすがに食い過ぎたな、こりゃ……)


 朦朧とする意識の中、ポケットに入れたスマホだけでも何とか取り出して枕元に置く。

 アラームを設定しないと。起きる時刻は朝7時。

 そう考えるも力尽き、蓮は意識を手放していた。


***********************


 翌朝目を覚ました時、蓮はおったまげた。


「……なんだこれ……!?」


 部屋が異様に散らかっていた。昨日寝た時はこんなことになっていなかったはずなのに。


 筋トレ道具やらぬいぐるみやらが、乱雑に床にぶちまけられている。


「……地震でもあったのか……?」


 蓮はすぐにツイッターを見る。トレンドには「震度5」「緊急地震速報」などの文字が上がっている。


「やっぱり……」


 1階に降りると、蓮以外の家族は全員起きていた。母のみどり、妹の亞里亞、そして弟のしょうの3人だ。


「あ、蓮ちゃん」

「おはよ。……地震だって?」

「むしろあれで起きないのは兄さんくらいだよ」


 翔がかけている眼鏡の位置を調整しながら言う。蓮は周りを見回した。


「……そんなに散らかってねえな」

「そりゃすぐに片付けたもの。大変だったんだよ? 食器とか結構割れちゃって」

「マジかよ……」

「あたしも部屋に積んでたゲーム崩れちゃって、大変なんだよね……って、あれ?」


 亞里亞がチャームポイント(自称)のアホ毛を揺らしながら、蓮を怪訝な顔で見る。


「兄貴、どうしたのその足」

「足?」


 ふと見ると、右足が真っ黒に汚れていた。寝るとき履いていた赤ジャージも、右足を中心に大きな黒いシミができている。


「うわっ何だこれきったねえ!!」

「どうしたのそれ? 寝る前はそんなシミなかったよね?」

「知るかよ、寝てたんだから……!」


 足の汚れに驚いた蓮だったが、ふとテレビの画面に目が行った。


『日本時間の本日午前2時、ブラジルで世界的に指名手配されていたテロ組織メンバーが死亡したとの情報が入りました。彼らは宗教団体で、何か儀式のようなものを行っていたところを特殊部隊が突入し、自決したとのことです』


「テロ組織?」


「かなり危険で、生贄のために人を殺したりもしてたんだって」


「おっかねえなあ」


 蓮はそう言うと、欠伸を一つした。これから出かけるにしても、まずは風呂で足を洗わないといけない。


「ジャージ、洗濯物に入れといてね?」


「わかった」


 母の声に振り返らず、蓮は足を洗いに居間から出て行った。


******************


 足の汚れは何だったのかはさっぱりだったものの、シャワーで洗い流すことできれいさっぱりなくなった。


 風呂から上がり、朝食のトーストをさっさと口に放り込むと、そのまま着替えを始める。着替えと言っても、ズボンを履いた後は学ランを羽織るだけだが。


「行ってきます」


 ほとんど何も入っていないカバンを持って、蓮は家を出る。現在時刻は朝の8時。家を出る前に、玄関横の犬小屋に立ち寄る。


 日課の犬起こしだ。犬小屋には紅羽家で飼っている大型犬がすやすやと眠っている。名前はジョン。小さいときに蓮が拾ってきてしまった子犬が、今では近所の子供の人気者になっている。


「おら、起きろ。お前もねぼすけか?」


 首のあたりを撫でてやると、頭を振りながらジョンが目を覚ました。軽く撫でて、フワフワの毛並みを堪能する。


「うし、じゃ、学校行ってくるわ」


 蓮はひとしきりジョンの頭を撫でまわすと、家の敷地を後にした。


 蓮が通う高校は、電車で2駅ほど離れたところにある。駅に着いて電車を待つ間のわずか5分で、あっという間にホームには人が並んでいた。


 朝の満員電車で立つのが嫌なので、蓮は前の電車が発車したタイミングでホームに着くようにしていた。そうすれば、到着してすぐに乗ることができ、席が埋まっている可能性が低くなる。


(それにしても、あの汚れは何だったんだろうな……)


 蓮は電車を待ちながら、今朝の黒い汚れについて考えていた。ジャージの汚れはともかく、足についていた物はすっかり洗い流してしまった。逆に言えば、洗い流せる程度の物であったとも取れる。


「あんな風に汚れるもの、部屋に置いてたっけなあ」


 思い返してみるも、逆にどうすればあんな汚れ方をするのか。蓮にはさっぱりであった。


 ぼんやり考えているうちに、電車は蓮の目の前に着き、扉が開く。人が下りた後、蓮は乗り込んだ。


 幸い、蓮の乗る駅までは始発から劇的に混むことは少ない。そのため、すぐに乗ればちらほらと空席があるのが常であった。蓮はいつものように、空いている席に座ると、すぐさまスマホに目をやる。


 後に続いてどかどかと人が入ってきて、あっという間に電車は満杯だ。少しでもタイミングを間違えると、立ってすし詰めになるので嫌になってしまう。


 容量ギリギリの人を乗せながら、電車は走り出した。


 漫画アプリをざっと眺め、めぼしいものがなかった蓮が顔を上げると、目の前には尻があった。それも、かなりデカい、野郎のケツである。蓮は顔をしかめた。


 満員電車の中、おしくらまんじゅうのようになっている車内で、空いている空間はすぐに埋まろうとする。それは座っている面々の眼前でも変わらない。いくら座ることができていても、ゆとりがあるかどうかはまた別の話だ。おっさんやらおばちゃんの出っ張った腹が目の前にあることもざらである。それが今日は脂ぎったおっさんのケツであるだけだ。


 だが、蓮の視界に入ったのは、その向こう側であった。


(ん?)


 おっさんのケツの右側。つまりは右手だが、それが若干前に伸びている。その手は、灰色の何かを触っているのが見えた。


 少し姿勢を変えておっさんの奥を見やると、手で触られている部分の上はえんじ色のブレザー。それに、触っているなにかはスカートであることが分かる。


(……このオヤジ……!)


 痴漢だ。他の面々は気づいていないのか、気づいていて放っておいているのか、視線を向けようともしない。あるいは皆自分のスマホに夢中で、同じようにうつむいていた。触っているおっさんも、何食わぬ顔でスマホを眺めている。だが、一切操作はしていなかった。


(……誰も気づかないのかよ……)


 その時、ちらりと触られている女性と目が合った。


 後ろを不快そうに見返った時、彼女と蓮は少し見つめあった。潤む瞳が「助けてほしい」と、言葉もなく訴えかけている。


 彼女のメッセージは、他の人にも放たれていたが、誰も自分のスマホの画面ばかりで、彼女と視線を合わせる者はいない。


 彼女が訴えている間に、蓮の降りる駅に着いてしまった。電車がゆっくりと動きを止め、慣性で全員の身体が揺れる。


(……ちっ)


 蓮は心の中で舌打ちすると立ち上がり、出口に向かって歩き出す。


 そのついでに、目の前のおっさんのベルトを掴んだ。


「!?」


 そして、それをすれ違いざまに引っ張る。


 ベルトに引っ張られたおっさんはのけぞるように蓮の座っていた椅子へと座り込んだ。当の本人も一瞬何が起こったのかわからない。


 そして、女の子の尻を撫でまわすことに集中していたおっさんは、首がお留守だった。


 引っ張られた勢いのまま後頭部を窓に激突させる。


「ふごっ!?」


 おっさんの悲鳴に、一瞬周りの視線が集まる。おっさんは一瞬で顔を真っ赤にすると、あわててスマホの画面を覗き込み始めた。他の人は気にもとどめず、すぐに自分のスマホへと視線を戻していく。


 電車から出て行く人ごみの中に、赤いとげとげ髪の男がいたことなど、誰も気になどしていなかった。

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