第六話 喧嘩沙汰
家を出て数分、徒歩で通勤している僕は体に違和感を覚えて居た。
思考がスッキリとしていて気分がいい、今にも飛べそうなくらい身体の調子がいいのだ。
それは昨日の暴飲暴食によって引き起こされるであろう二日酔いなどの倦怠感も感じられない。
朝起きたときに感じた気だるさも気のせいだったかのように、仕事へと向かう足取りは軽快さを見せた。
「何か凄く調子がいいような……」
その時、ポケットに仕舞っていたスマホに、メッセージの通知を知らせるバイブを感じた。
急いで取り出して僕は内容を確認する。メッセージ相手はイケ男のよっちのみ、グループチャットに送ったメッセージの既読は1なので、他の二人はまだ寝ているらしい。
『なぁ、僕昨日どうやって帰った?』
先ほど送信したこの質問に返事が返ってきたようだ。
『俺もあんまり覚えてないけど、居酒屋で割り勘して解散したよな。で、一人で帰ってた気がするけど。あ、もしかして路上で寝て迷子とか?』
収穫無し。文章最後にからかってきたのでちゃんと弁明しておくことにする。
そうでもしないと二人にも揶揄われる未来が想像できるからだ。
『いやいや、違う。ちゃんと帰れたから! 迷子でもない!』
『記憶が無いから変なことしてなかったかなーって思っただけ』
この分だとタックーとマコトも収穫無さそうだ。
僕はそう判断してスマホをポケットに仕舞うと歩みを進めた。
ホームルーム開始は8時45分だが、その一時間前でも通学している生徒たちは何人かいる。
白い制服なので、自身の勤める学校の生徒であることは一目瞭然、ただし生徒は僕のことを知らない場合が多い。
その場合、挨拶できる大人になるようにと、僕から自発的に挨拶をかけることが多くなる。返事を返してくれる生徒は多いが、たどたどしいのでこちらも少し恥ずかしさを感じる。返してくれない生徒も無論いるが、その場合は少し悲しかったりもする。
そうして到着したのが僕の勤める学校、『私立
何でも学園長が好きな花が学校名の由来であり、白蘭の花言葉「楽しい語らい」をモットーに割と自由な校風を掲げている。生徒数も確か中高合わせて2000人を超える五久市きってのマンモス校だ。
人気の理由は高等部の科が各地の学校よりも多く、将来に向けての選択肢が広がりやすいといったことが挙げられる。また、部活動も幅広くあり、県大会に出場する部も多くあるのだ。そんなわけで、各地方からこの学校を希望する生徒も多い。
校舎は中等部、高等部と分かれており、僕が勤めているのは中等部、教えている科目は数学。ついでに理科も少しなら教えられる。
「おはようございまーーす!!」
校門の前には中高混ざった生徒会と風紀委員の数名が既に挨拶活動をしており、その印である腕章が目についた。
生徒たちに混じりながら僕も校門から出勤する。そんな僕に気付いたのか、一人の女生徒が近づいて来た。
「みーつーるーぎー、せんせ、服がしわくちゃだね~」
彼女のことは知っている。
僕の受け持つ、二年A組の生徒
肩までかかった地毛の茶髪に、首元に見えるアクセサリーが特徴的、少し前まで口調と明るい性格から考えてギャルかと思っていた。ただ根が真面目なこともあるからか、風紀委員に所属しているクラスの人気者だ。
この挨拶運動には挨拶の他に、服装チェックも兼ねているらしい。乱れた服装を正すのも風紀委員の仕事なのだと彼女から何度も聞かされていたことを思い出す。
「アイロンしてないの? それに寝ぐせも治ってないし~、だらしなくな~い?」
朝のイレギュラーのせいで昨日から着替えていないこと、寝ぐせを治していないことを指摘され僕は反論できなかった。
イレギュラーの事なんて、誰にも言えないし……。言った所で犯罪者か頭が可笑しくなったかとしか思えないだろう。
「だらしない先生でスマンね。行っていいか?」
「あ、逃げるの~?」
「いやいや、朝礼があるんだよ。早く行かないと怒られる」
「ちょっと待って」
そう言って彼女は僕の首元に手を伸ばす。首に巻かれたネクタイの緩みを整えてくれた。
「これで良し。この行動、新婚さんみたいじゃない?」
「何言ってんだか。独身年齢イコール彼女歴無しの僕を揶揄うんじゃない。まぁ、ありがとう」
素直に礼を言いながら僕は敷地内に入る。
勤めて3年になるから大分地形は覚えたけど、新入生は苦労するだろうなと思う。それくらいここの敷地は広いのだ。
そのまま校舎に向かおうとした時、生徒の悲鳴が聞こえた。
何事かと僕は視線を向ける。校門を抜けた広い広場で、何かが起こっているようだった。
生徒たちが取り囲むようにまばらに立ち止まっており、どんな状況なのかよく分からない。そんな中で男子生徒の怒りの咆哮が轟く。
「どーしてくれるんだよ!! この制服ゥ!!」
挨拶活動をしていた生徒会の生徒が何事かと立ち止まる生徒を掻き分けて入っていくのが見えた。沈静化を図ろうとしているのだろう。
「おい、待て!!」
大声をあげて制止するよう叫んだが気付いていないようだ。
間に入った生徒は数秒もしない内に、何人かの生徒を巻き添えにしながら吹っ飛ばされていた。
その光景に、流石にヤバいと感じたのか立ち止まった生徒たちが悲鳴を上げながらその場から離れていく。
現場の状況が見えた。
弾けんばかりに盛り上がる筋肉の男子生徒の制服、それが青色に染まっていた。
片手でひょろっとした男子生徒の胸ぐらを掴んで持ち上げている……傍にはペンキ缶が落ちていて零れたペンキが芝生を青く染める。
ペンキが制服にかかったのにキレた生徒が暴走しているのか、全貌は見えないがそれにしたってこんな大勢の前でキレ過ぎだ。冷静さが欠けているのか周囲からの制止にも耳を傾けようとしていない。
「お前らうるせぇ! 俺はコイツに話があるんだよ!! 邪魔をする奴はただじゃおかねぇ!!」
制止の声は逆に彼を興奮状態にした。
そう言われてしまえば周囲も黙って見守るしかない。
ふと暴走状態の男子生徒のことを思い出す。確か彼はボディレスリング部で全国大会に行ったと表彰を受けている実力者だったと思う。
名前は皆藤だったか。高等部の生徒なので名前が正しいのか曖昧だけれど、確かそんな名前だった。
「おい!! テメェ、どうしてくれんだ? ええ!?」
「ヒィ、ごめんなさい、ごめんなさい」
謝罪の言葉も耳に入っていないのか、興奮状態の皆藤は胸ぐらを掴んでいる男子生徒を今にも叩きつぶしそうな勢いだった。
誰も止める気配は無い、否、生徒では止める行動に移せない。
しかし、このままだと怪我人の数が増える……最悪死者も出るかも知れない。
「み、御剣先生」
いつの間にか橘が隣に居て、僕の裾を掴んでいた。そうだ、今ここに大人は僕しか居ない。
僕が何とかしなければならない。
「橘、他の先生と保健室の先生を呼べ。おい、そこの君は警備員を呼んで。君たちは倒れている人の救護か、周りの人にこの場から離れるように伝えて!」
生徒に向けて指示を出す。
「せ、先生は……?」
「僕が何とかする。だから早く頼む」
何とかする、と啖呵を切ったはいいが何をすればいいのだろう。
暴力沙汰は苦手だ。僕は産まれて一度も喧嘩なんてしたことが無いんだ。
震える腕を抑え込み、意を決して皆藤の元に走って近づく。
取りあえず、僕の役割はこれ以上怪我人を出さないことだろう。それと警備員が来るまでの時間稼ぎか。頭を回転させてどう行動するべきかを判断する。
幸い、彼は興奮状態で僕が近くに来ても気付いていない様子だった。
ならこの状況を利用して体勢を崩そう。そう決めた僕は素早く彼の後ろに位置取る。
狙いは直立している膝の部分。そこに目がけて軽い一撃を与える!
膝カックンの要領が想像よりもうまくいったのか、バランスを崩した皆藤の姿を捉えた。掴んでいた胸ぐらから手を離して男子生徒を落とす。彼がもう一度胸ぐらを掴もうと行動に移す寸前、視界の前に立つ。
「暴力はやめろ! 怪我人が出てるんだぞ!」
「そこをどけ! 先公!! 邪魔すんな!! ぶっ飛ばすぞ!!」
「この子も謝ってる。謝っている子に向かって暴力はダメだ。それに周りを巻き込むなよ!暴力を振るったっていいことは無いぞ!」
「うるせぇ! ソイツの事は許せねえ! 死にたくなければそこをどけろ!! うおおおおおおおおおおおおお!!」
想定通りか、皆藤は僕の制止に耳を傾けることなく掴みかかろうと、襲い掛かってきた。
その動きはまるで崖から落ちてくる岩の様に巨大に見える迫力で、僕を排除しようと近づいてくる。
時間稼ぎもそんなに出来なかった。
あ、殴られる。死ぬかもな。そう感じた刹那――僕の中で彼の拳がゆっくりに見えるのが分かった。文字通り、
大学生の時、バイクに乗っていた僕は道中に現れた猫に驚いて事故を起こしたことがあった。
バイクから投げ出された際、周りの景色がゆっくり見えたことを今でも覚えて居る。
幸いにして軽いけがで済んだわけだが、あの時の経験に似ていた。僕自身、心理学的なことはよく分からないけれど脳の処理速度が早まった状態なのだろうか。
思考はクリア。だけど、身体が動かない。で、気が付けば終わりだ。
今の状況はその状況に合致していた。
ただ一つ、
軌道から外れるように身体を逸らし、懐に入る。彼の勢いを利用しその腕を掴んだ。
肩に腕を乗せると体の全筋肉を用いて彼を持ち上げた。そう、背負い投げだ。僕の小さな体を軸に彼が浮き上がったのが分かった。
そうして、空いた場所に彼の身体を降ろす。ドスンと鈍い音がしたような気がしたが、床は芝、背中で着地したこともあり目立った大きな外傷は見られない。
意識せずに体が動いていた。
そうしたらいいと、いつの間にか判断していたかのように。
余りの出来事に、呆然とする。僕が彼を倒したらしい。
「あいたたたたたた。な、何が起こった?」
腰を打った彼の言葉にハッとする。
彼自身、何が起きたのか理解していないようで地面にぶつけた腰を擦っている。
僕は慌てて彼に近づくと手を差し伸べた。
「お、おい、怪我はないか?」
「へ? あ、あぁ……大丈夫だ」
「無事ならいい。が、周りを見ろ。お前を止めようとした生徒が吹っ飛んだぞ。怪我をしたかも知れない。お前の力は人を傷つける事でなく、守ることに使うべきだ」
そう、僕が妹によく言っている言葉をそのまま言い聞かせた。
こんな世の中だ。人に暴力を振るったことで何も産まれない。だが、守るために使うことが出来れば、正しい道からは外れないのだと教育者だった父親がよく言っていたのを思い出していた。
僕もその通りだと考えている。
「……悪かった。あんなことを言われて堪忍袋の緒が切れたんだ」
「あんなこと?」
「いや、言い訳にしかならないよな。俺が悪い。先公、強かったんだな……。この俺が倒されるとは……。そのおかげで頭が冷えた。ありがとうございます」
「偶然だ。僕も何が何だかよくわかってないんだ。身体が勝手に動いたと言うか……まぁ、君に怪我が無いならいい。起き上がれるか?」
彼の興奮状態は収まったようだ。先ほどとは打って変わり冷静に僕の言葉に返事が出来ている。根は良い奴なのだろう。
僕の伸ばした手に捕まると、彼はその身を起こして立ち上がった。
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