第11話

「坂木さんって、高校生の頃から、暗いことしていたんですね」

「そうさせたのは、君のお姉さんであり、見知らぬ誰かだよ」

 解りやすく嫌そうな顔をする呉紫織。ぎゅっと、さくらを抱き寄せる。

「お姉ちゃんも、なんで、こんなのが良かったんだか」

「それは、永遠の謎だね」

 口角を上げ、視線を落とす。


「私、わがままかしら」

 屋上で、体育座りをする呉碧。右手は足首に、顔は脚につけて、伸ばした左手を目で追っている。その先には、数本のチューリップがある。

「だって、私と妹とでは違うのよ。あの子は、お母さんって、この花のことだと思っている。だって、そう教えられたのだもの。口で言わなくたって、解るの。たまに帰ってくるお父さんは、いつまでもこの花を見ているし、毎年、私と妹と母とで写真を撮るんだもの。大事なのよ」

「そんな大事な花を勝手に刈ってくるなんて、それこれ君はわがままだよ」

 呉碧は、不快感を隠そうともしない。

「どうして。学校の無い妹は、ずっとお母さんといられる。でも、学校のある私はそうもいかない。何が悪いと言うの。この花だって、妹に見つからないように、うまくやっているもの。お姉ちゃんは、妹からお母さんを奪ったりしないもの」

 いらだちは、伝染する。舌打ちし、小突く。

「君は、画家だろう。画を描きなよ」

 呉碧の指先に触れる。手の自由は、奪われていない。

「僕は君だけの小説家になる。君は、呉家の人のために、画を描けばいい。違うかな」

「違わない。そうしたら、いつでもあの子は、お母さんに逢えるものね」

 一体、何なのだろう。

 この人の危うさは、人を惹きつける。すでに、顔面の神経は、麻痺している。それでも、こんなに美しい笑顔を僕は終ぞ見たことがない。

「ねえ、約束してね。私の妹に、お母さんの画を見せてね」

 指先を絡ませる。高揚した気分が染みわたるようだ。

「自分で、見せなよ」

「どうかな」たまらず、ふふと声を漏らす。「私、わがままだから、画が完成するかどうか解らないわ。他に、描きたいものができてしまうかもしれない」

「本当、仕方のない人だな」

「そうなの、それが私、呉碧よ」

 屋上に寝転がり、両腕を伸ばした。


「それで、お母さんの画は、完成したのですか」

 何も言わず、微笑み、首を傾げてみせる。

「やはり、姉は姉ですね。仕方のない人です」

「だから、美術準備室まで、君を呼び出そうとした」

 バナナパフェを食べ終えたさくらは、暇を持て余している。坂木が立ち上がり、さくらの隣にしゃがみこむ。

「さくら、一緒に画を見に行こうか」

「ううん、いい。おなかいっぱいになったら眠くなっちゃった」

 店を出た。

 さくらを寝かしつけ、縁側に腰掛ける。ふたりで、桜の木を見る。

「さくらの母親とはどこで知り合ったのですか」

「大学の後輩だよ」

「ふうん」

 庭先から脚を引き上げ、三角座りをする。顔をうずめる。

「姉のいない大学生活など、さぞつまらなかったことでしょう」

「それはね。でも、重要なことは、終わってしまったことではない。確かに、そこにあったことだと、偉い学者が言っていたよ。まあ、つまりは、大学などどうでもよかったんだね。私はまさしく過去の中でしか生きていなかった。それは、今もだよ。君のお姉さんを思って、小説ばかり書いて過ごしていた。だから、本当に、さくらの母親とは、大学が同じであるというだけなんだ」

 本当かしら。視線を送る。小説家は、微笑む。

「まあ、恋する乙女の純情をむやみに汚すようなことはなかったよ。その代わり、気持ちを受け取るようなこともなかったけれどね」

 納得した。まあ、でも、さくらの父親が、小説家ではないということは、そういうことなのだろう。前を向く。

「さくらの母親も、なかなか賢い人だった。まず、いつまでも、過去の恋愛をひきずらなかったこと。それだから、あんなに愛らしい娘と出会うことができた。自分の母親は、どうやら難しい病気らしい。自分の前では、元気だと笑う。それでも、解るんだ。親子だからね。さくらは、私へお願いしたんだ。お母さんを楽にしてください。さくらは、ひとりでも大丈夫だよ。お母さんがお父さんと同じところからさくらを見ていてくれるなら、さくらはとってもうれしい。お願いします。お願いします。私は、その気持ちを母親へ伝えた」

 小説家は、静かに涙を流していた。

「さくらは、それでも怒っていましたけれどね。お母さんを楽にしてとは言ったけれど、帰ってきたお母さんまでとは頼んでいませんから。それに、さくら自身のことだって、さくらもさくらの母親も頼んではいないはずです。自意識過剰なんですよ。小説家の悪い癖ですね」

「そろそろ、出ようか」

 立ち上がり、門扉のところで振り返る。


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