第10話
それは、聴力を奪う。正しい発音が出来ない。表情筋を司る神経が侵されるのだから、道理である。
呉碧は、少女だった。
ちょうど自尊心そのものみたいな時期である。母を亡くしたばかりの幼い妹。これから、ようよう言葉を覚えていく大切な時期である。一方、姉は言葉を失っていく。家政婦は居る。哀れみなど、要るものか。離れて暮らす父に代わり、私が妹を育ててやる。
呉碧は、命令した。
姉妹の前で、言葉を使うな。約束を破る者には、罰を与えた。あの娘は、病気である。それだけの理由で理不尽な暴力は正当化された。何人か辞めた。それからは、絶対服従となった。
呉碧は、孤独だった。
研究ばかりの父親。死に別れた母親。分別のつかない妹。他人でしかない家政婦。環境が、彼女を揺さぶった。
呉碧は、画家だった。
彼女の絵を見たのは、偶然に他ならない。友人が忘れ物をした。そして、出逢った。それは、言葉の洪水だった。直接、文字を記している訳ではない。それでも、ありとあらゆる感情が、脳髄を揺さぶる。
私は、小説家となる。
脳内の混沌を文字にして整理しないと、いつまでもその場から逃げ得られなかった。書くことは、吐き出すことに他ならない。
「あんた、気持ち悪い」
勝手に、ノートを取り上げた人物の台詞だ。
「なんで、私の言いたいことが全部解るわけ。私、文字じゃなくて、絵で描いたんだけど」
仁王立ちして、怪訝そうな視線を寄こす。すぐに下を向き、両手をもてあそぶ。
「だって、全部、描いてあったから、ぼ、僕はそれを字に起こしただけだし」
「あんた、気持ち悪いね」
ひっ。声を出し、肩をはね上げていた。その肩に手を置き、あごを持ち上げられる。息が苦しい。一体、何が起こったのだろう。
「私とつきあいなさいよ」
意味も解らず、僕は頷いていた。
間抜けなことに、僕が彼女を呉碧だと認識したのは、翌日のことだった。
言うまでもなく、呉碧は天才少女で有名人で、それは校内に限らなかった。
それは、呉碧の父親が高名な博士であったことや、呉碧自身の美貌、知能、芸術の才能、そして何よりも呉碧の奔放さに起因していた。世間は、天才少女の野蛮な行為をこそ一方的にありがたがった。当時、世間は、僕も含めて、彼女の病気など知りもしなかったのだ。だから、他人を突き放す態度を、行動を、芸術家特有のものとして理解したのだ。
呉碧は、人目も気にせず、僕の手を取り、時には腕を組み、肩を借りて歩いた。徐々に、病気が進行して、独力では歩行が難しくなっていたのだ。さすがに、間抜けめいた僕でも、何かあることは見抜けた。息を切らす具合の悪そうな顔がすぐ隣にあったのだから。
「坂木、猫、みつけたんだけど」
「猫」
学校としては公式には非公認の、勝手に入り込んだ屋上で、呉碧は言った。陽の光で温まった屋上に、べたっとふとももをつけて、どうにか腕の力で身体を支えていた。
「猫を飼うの」
「うちは私の他にちびしかいないし、家政婦は家事するだけ。飼うんなら、私が世話するしかないけど、無理でしょ」
逸らした視線の意味は、即座に理解できた。
「妹さんに、教えればいいよ」
「あいつ、動物なんかろくろく見たことないし、恐がるかもしれない」
息を吐き出し、僕は笑っていた。
「君は、優しいよね」
「馬鹿」
呉碧は、僕に身体を預ける。頭をなでてやる。
「君は君の勝手で、妹さんから言葉を奪った。人間以外の友達くらい、許してやってもいいんじゃないかな」
ううん。呉碧は唸る。僕には解っていた。妹は彼女の全てなんだ。
「猫、死にかけなんだけど、それでもいいのかな」
「それは」僕は空を見上げる。「駄目なんじゃないかな」
「なんで」
「だって、はじめての友達がすぐにいなくなってしまったら、妹さん、哀しむだろう」
「そうだね」
気のせいか、呉碧は、鼻をならした。
帰り道、ふたりで猫を見に行った。そこは、呉家の別荘に向かう道すがらで、つまりはほとんど山の中だった。段ボールの中、二匹の仔猫がいて、一方は明らかにひと回りも身体が小さかった。地面に正座して覗き込む呉碧。
「駄目かな」
「こっちの、小さいのは駄目だろう」
片膝から立ち上がり、小さいのを持ち上げた。
「あ」
「何」
呉碧は、形容しがたい表情をした。
「埋めてくる」
「坂木、大きいのは、責任持って育てなさいよ」
背中越しに聞こえてくる声は震えていた。僕はその意味に、戦慄し、同時に嬉しくもあった。
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