第9話

 美しいものを見た。

 小ぶりな桜の木。子猫の埋まる墓。しゃがみ、祈る幼子。姉が亡くなった時、こうはいかなかった。きっと母が亡くなった時も。

「さくら」

「なあに」

 さくらは案外、すっきりとした顔をしていた。

「もう気は済んだようだね」

 さくらは、笑った。

「だって、慣れっこだもの。お別れは二回目よ」

 ふむ。私は頷く。

「さくらは、健気だね」

 怪訝そうな顔をする。人差し指をあごに当て、理解できそうな言葉に直す。

「いい子だから、甘いものでもごちそうしよう」

 さくらの顔が、ぱあっと明るくなる。

「おっと、その前に」

 期待のこもった握りこぶしに触れる。

「あいつは、どこかな」

「お手紙をもらったの。お店で、渡すね」

 拍子抜けする。まあ、いいか。息を吐き出す。

「少しくらい待たせても、いいだろう」


「酷いことを言うな、君は」

 なんということはない。

 小説家は、約束を待ち切れず、喫茶店まで出向いてきていたのだった。ちょうど、コーヒーのおかわりを差し出されたところだった。短気は損気という言葉を、知らないのだろう、小説家のくせに。翻って、さくらは健気である。先刻まで、ストローでちゅうちゅうと吸い続けていたくらいだ。オレンジジュースの氷は、もうとけてしまった。

「そちらこそ、人聞きの悪いことをおっしゃるではないですか。まるで、私がさくらに、あんなやつ、一生待たせておけばよいとでも言い聞かせたみたいではないですか。いえいえ、もちろん、事実無根ですよ」

「君はまだ、日本語を覚えて十年かそこらだろう。一体、誰に習ったのか。中身のないことばかりを言う」

 それは、お前のことだろう。席に着く。出迎えたさくらを椅子に乗せる。すると、水と本が運ばれてくる。

「さくら、バナナチョコのパフェ食べたい。お姉ちゃんは?」

「ええと」

 信じられない。世の中に、ケーキ以外に、こんなにも魅惑的な食べ物があったのか。私の姉も、日本語を教えないのはいいとしても、ぱふぇとやらの存在くらい匂わせてくれたっていいではないか。ああ、しかし、写真とは本当にありがたいものだ。

「いつまで、メニューとにらめっこしているんだい。あ、それとも、ケーキ以外の甘味を知らないで生きてきたのか」

「私、山のお屋敷で暮らしていたのです」

「それじゃあ、パフェも知らないか」

 納得のご様子である。

「え、お姉ちゃん、パフェ食べたことないの?」

 衝撃のさくら。それに、驚く私。

「そんなに、よく食べるものなの。え、何。さくらは、姫ですか。お姫さまなの」

「その発言は馬鹿っぽいから、よしなさい」

 本当に、恥ずかしそうである。

「山の次は、月岡学園ですよ。家政婦さんが焼いてくれたケーキも食べられないの。おまけに、姉との言葉は取り上げられるし、散々ですよ。それもこれも、全部、あなたのせい。私の姉を殺したのは、あなたでしょう」

 目尻に涙が浮かぶ。もはや、何の涙か判然としない。小説家が、自分のハンカチをぐいと押しあてる。店員を呼び、さくらのパフェとともに、聞き慣れない単語をすらすらと告げる。

「うん、まあ、否定はしない」

「やはり、そうですか」

 ハンカチをテーブルに置く。焦げ茶色の年輪に浮かぶ、白。さくらが、気づく。

「あ、お手紙読む?」

 肩から掛けたポシェットに、手を突っ込む。

「ああ、もういらないかもしれないなあ」

 気が抜けたように言う。困り顔のさくらから、小説家に目を遣る。静かな表情だ。

「美術準備室で待っている。そう書いてある」

「早口言葉ですか」

 とても言えそうにない。小説家は、表情を緩める。

「君、実は、さ行の発音も苦手だしな。いちいち、さくらと言うのに、苦心しているように聞こえる」

「さくらも、ちいちゃい頃、さくらって言えなかったなあ」

、難しいよね」

 親指を立てる。うんうんと、頷く。

「うわ、ちびっこの会話だ」

「ちびっことは、失礼な。私は、もう高校生ですよ」

「はいはい、そうでしたね」

 ふっと気を抜く。私は、気づく。こいつは、私の中に、姉を見ている。

「似ていない、似ていないと思い込もうとしていた。でもね、髪を切っただろう。それから、舌っ足らずのしゃべり方。こう、思い出すんだ」

 脚を組み、手を組む。片脚で椅子を押しやり、背もたれを壁につける。天井を仰ぐ小説家もまた涙を流していた。

「認めよう。君は、お姉さんによく似ているよ」



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