第8話
父は終始無言を貫く。もともと寡黙な人だった。だけど、何かあったのだと、すぐに理解する。手が痛い。父の大きな手が、私の小さな手をぎりぎりと握り締める。ただ、痛い。気が動転していたのだろう。白衣を着たままの父。血の気が引いた顔。廊下を歩く。歩く。荒い息遣いと足音だけが響く。大股で歩く父について行くのが精一杯だった。
ほどなくして、個室に辿り着く。父はどこからか、踏み台を持ってくる。私は、昇る。目の前には、見慣れたはずのチューリップ。
「あ」
「アオイハ、シンダヨ」
父の発する言葉など、理解できるはずもない。それなのに、私はその意味するところを知覚してしまっていた。
物言わぬ姉が、そこには居た。
触れる前に、理解してしまっていた。
姉は、妹の私を置いて、さっさと母のところへ逝ってしまったのだと。後退り、台からずり落ちる。父は、私を支えるでもなく、棒立ちになっていた。そして、何か意味の解らない呪文を繰り返していた。白衣を引っ張る。それでも、反応が無い。
お父さん、お父さん。ねえ、私、ここに居るよ。
必死に伝える。
通じない。
不安が押し寄せ、目を細める。口が開かない。
同じだ。
父は、姉と同じ目をしている。私が、見えていない。いや、見ようともしない。たたく。父を叩く。こんなの、誰も住んでいない家のドアをノックしているのと同じだ。どうして、動かないの。反応しないの。私を置いて行かないで。
それから、私は月岡学園へ連れて行かれた。
数年後には、学齢期に達する。
しかしながら、どう考えてみても、小学校教育を享受することは困難であろう。
何しろ、私は、言葉という概念を知らなかったのだから。
医師である父は娘にあらゆる検査をする。耳に異常はない。ただ言語に関する能力だけがすっぽりと抜け落ちていた。無表情で記録する。
全ての検査が終わり、私は「言葉」を取り上げられた。
それは、姉と私だけの言葉だった。手話とも異なる、ハンドサインや表情筋、身体全体を動かすものの集合体だった。もちろん、声を使うことはない。
当時の父は、相当苦心したであろう。声を発さない娘を事あるごとに叩いた。痛さからくる悲鳴すら利用せざるを得なかったのだ。
のどという器官が食べ物を運び、息をするだけの機能しか持ちえない世界を生きてきた私のことだ。仕方のないことだった。
のどから任意に声というものを出せるのだと気づいた後。父は私の口に手を突っ込む。同じように、私の手を父の口の中へと入れ込む。そうして、発声を教わった。二人して、げえげえ吐きながら、学んだのだ。
何年かして、私と同じように言葉を学んだ偉人のことを知った。単純に、父はこの子の先生の真似をしたのだと知った。私は、耳が聞こえるのだから、ここまでしなくてもよかったのではとも思った。それでも、私は、音は聞こえても、言葉を知らなかったのだから、やはり、こうするしかなかったのだとも思い知った。懐かしさとともに少しの吐き気をもよおした。
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