第6話

 六時間目が終了し、チャイムが鳴る。

 いつもなら、「今日は、六時間授業だから、七時間授業の日より一時間も早く帰ってぼうっとできる」と喜ぶところである。しかし、今日ばかりは、七時間授業の日が恋しくてならない。

 掃除の係もなく、友人もない私には、いつまでも教室に居座る理由がない。大勢の生徒を避け、部室に向かう。我らが文芸部は、会議室を部室として利用している。ドアノブを手にした瞬間、嫌な予感がする。

「お前、暇なのか」

「その台詞、そのまま君に返そう」怒りに顔がゆがむ。「ところで、君は掃除しないのか?」

「今週は、掃除当番が休み」

 どんどん歩く。普通教室に換算すると会議室は、ちょうどふたつぶんほどの広さだ。とりあえず、物理的に距離を置き、心に平静を保とうと試みる。部屋の後方には、折り畳まれた机と椅子がまとまってある。これは、武器になりそうだ。頷き、席に着く。

「君、本は読む人かな」声が響く。

「読まない」遠くで、小説家が首を捻る。聞こえなかったのか。

「どうして」声こそ聞こえはしなかったが、目がそう語っていた。膝の上にある両こぶしに力を込める。

「私、こちらの世界で生きておりませんので」

 心臓が早鐘を打つ。自分で秘密を暴露しておいて、一体、なんだというのだろう。度し難い。姉が亡くなったとき、幼い私も一緒にいなくなった。だから、こちらの世界で友人などできるはずもない。当然の話だ。

 ただ、さくらは気になった。だから、会いに行く。それでも、さくらの面倒を見ているのが、目の前の小説家風情であるということが気に食わない。

「君、あの月岡つきおか学園に居たのだろう」

 派手な音がする。跳ね上がった拳が、机の裏を叩いたのだ。「痛い」涙目で呟き、紅くなった手をさする。

「あのとはどういう意味ですか」眉間にしわを寄せる。大体、どうして私の出身校など知っている。腹が立つ。小説家は、黒板に寄りかかった。

「世間に名高い月岡学園という意味だよ」私を見下ろし、笑う。「正直、月岡学園からの『つぐみの会』入会率は異常だ。だってさ、偏差値がトップクラスの学校からでさえ、数年に一人レベルだよ。世間は、何かあると思うさ」

「あそこは、ただの療育施設です。それ以上でも、以下でもありません」

 泣きたくなった。顔を真っ赤に染め、唇を真一文字にする。そうしないと、嗚咽が漏れ出す。あそこに居た頃のように、大声で泣き出してしまう。なんだってあんなところをそんな良いところみたいに言われなくてはならないのか。わざわざ外の学校に出てきた私は馬鹿みたいではないか。足音が近づく。顔を下げ、見られまいとする。息が荒くなる。机の上に、手が現れる。しゃっくりが出る。その拍子に、目が合う。

「月岡学園には、呉医師という人が居たからね。本で見た顔写真と君の雰囲気が似ていたもので、勘ぐってみた。それだけのことだよ」

 精一杯、のけぞり背中を椅子の背もたれに押し付ける。冷や汗で濡れる手で、座面を握る。そして、小説家は懐かしい名前を口にした。

「呉碧」

 くれあおい。姉の名前だ。同じくして、横隔膜がけいれんする。はずみに、座面から手が滑り落ちる。結果、後頭部から転がる。

「大丈夫?」

 女子生徒の甲高い声。クラスメイトのひとりだった。後頭部を強かに打った私は、小さな子供みたいに大きな声を出して泣いていた。

「ああ、もう。具合悪かったのなら、部活だって休んでもいいんだよ。ね、坂木さかき先生?」

 放心したさまの、小説家が頷く。

 後から掃除や用事の済んだ部員がやってくる。私は、ひとまず保健室に連れていかれ、怪我の手当てをしてもらう。その間も、しゃっくりはなかなか止まらない。

「椅子ごと転んだの? 坂木先生、呉さんに何したんだろう」

「あいつ、嫌だ。嫌い」

 どんどん塩辛い涙が溢れ出てくる。しゃっくりと同じリズムでこぼれる涙を眺めるクラスメイト。背の高い彼女は、小さく含み笑いをした。

「有名小説家の坂木先生は、呉さんみたいなクールガールがお好きなのね」

 むっとする。

「違うと思う。さっきだって、私の話でなくて、学校とか、他の子の名前を言っていた」

 徐々に、頭が整理されてくる。いつの間にか、しゃっくりは止まっていた。

「それって、呉さんと関係のあることなのでしょう。だとしたら、どうして坂木先生はそんな情報を知り得ていたのかしらね」

 目の前が、ぱあっと明るくなる。

「あなた、賢い」素直に口に出していた。「ロリコンノベリストの正体、ついに知り得たり」


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