第5話
チューリップは、母が植えた花だ。
春になると、決まって記念撮影をする。毎年、同じ色の花を咲かす球根。成長していく姉妹。父は切り取る。穏やかな母と子の記録だ。
その日、姉は言った。
「庭で咲いているチューリップ。全部、取ってきて」「駄目」考えるよりも先に、抵抗していた。一心不乱に首を振る私。姉は床に伏したまま、目玉をねるりと動かす。怒られる。身体が跳ね上がる。
「私は、お母さんに会いたいの」
脳裏に父の顔が浮かぶ。父は仕事で家を空けることが多い。
「お父さんは出張中だからしばらく帰ってこないよ」
幼い妹の考えを見透かしたように付け足す。全て聞き終わる前に、駆けだしていた。はさみを手にしただけで、息が乱れる。茎にはさみをあてがった時、私は泣いていた。それでも、一輪ずつ摘み取って行く。地面に敷いていたハンカチごと、花束を抱える。身体の奥底から感情が溢れ出る。声涙倶に下る。嗚咽しながら、部屋の中に戻る。
見上げると、危なっかしい歩き方をする姉が居た。母ごと私を抱きしめる。涙で判然としない視界。姉の唇が耳元に触れる。
「ばいばい。紫織」
確かにそう聞こえた。
幼い妹を突き放し、花束を強引に奪い取る。当然、尻もちをつき、呆然とする。姉が転びそうになりながらも、なんとか廊下に出る。ドアが閉まると、鈍い音がした。たった一つの出口を封じられたのだ。部屋は二階で、窓からは出られない。
状況を理解すると、密室で泣き叫んでいても疲れるだけで良いことは何もないと気づく。まあ、初めから計画されたことならば、きっと脱出もしくは救出の方法も提示されているのだろう。
腕をさする。春とはいえ、山の中にある家だ。夕方にもなると、空気が冷たい。身体を冷やさぬよう、ベッドの中で助けを待つことにした。布団の中に入る。足元に、何かある。姉のスケッチブック。食べ物の隠し場所が記されていた。このことは、すぐに理解できた。そして、食べ物の量からして数日間はこの部屋に缶詰かもしれないと肩を落とす。どうにか、外部の人間と連絡を取れないものか。もう一度、スケッチブックを見る。もしかして、これは遠い所に居る父と話をする方法を示しているのではないか。まず、この四角。掛け布団をめくる。確かに、あった。さっきは、スケッチブックに隠れて、見落としていたのだ。四角いものを手に取る。何か意味不明な模様がついている。とにかく、姉の絵のとおりにする。それしか助かる方法はないのだ。模様を指定されたとおりに押すのに手間取る。音が鳴る。予想外の展開に、四角は床に落ちた。なおも、音がする。
この時、幼い私がそれまで生きてきた世界は瓦解した。
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