第3話
ベンチに座り、私はしかめ面をしていた。ようやく騒がしい学校から出てきたのに、今日は、クラスの女子生徒ばかりでなく、風音すらも耳障りだ。息を吐く。腰まである髪の毛をばっさり切った。それだけのことで、奇異の目で見られる。私のことなど、興味ないだろうに、こんな時ばかり話題に上げる。膝の上に置いていた拳に力が入る。
「こんにちは」「あ、どうも」
昨日の女の子だ。今日は肌寒いからか、首に巻き物をしている。薄紅色のストール。風で飛ばされないように、首の後ろで結んでいる。
「かわいいね、それ」
女の子は素直に喜ぶ。可愛らしく小首を傾げ、微笑む。どこかの誰かさんとは、大違いである。そして、発見してしまった。ストールの隙間には、痛々しいあざが浮かんでいた。
女の子の家へ向かう。背後からついていく。ストール以外には、変わった様子はない。あれは、どう見てもつめで押した痕だった。嫌な感じだ。下を向き、このまま逃げ出そうかと考えているうちに、目的地に着いてしまった。
「ただいま。今日もお姉ちゃん、来てくれたよ」
「ほう、また会いましたね」
男が、玄関の柵を開ける。こちらは、昨日と違って余裕が感じられる。なんなのだ。
「奇遇ですね」目をそらす。
「お茶でも、飲んでいって下さい」
部屋に通される。
「あの」名前、なんだっけ。隣に座る女の子に目を遣る。
「さくらだよ。お姉ちゃんは?」
「
テストの時など、非常に面倒だ。本当に、煩わしいことだ。
「へえ、大変だね?」「解っていないようだね」しかし、さくらという名前も、もしかしたら、私以上に面倒な漢字を使うのかもしれない。そんなことを考えているうちに、男がお茶を持ってきた。
「失礼します」
自然と口角が上がる。もちろん、私の口角が、だ。
「ああ、良かった。どうやら、甘い物がお好きなようで」
テーブルに、皿を置くなり手を伸ばす。
「それでは、遠慮なく」
ケーキは良い。あれこれ詮索しない代わりに、その甘さでもってどうでもいいことを霧散させてしまう。紅茶を飲む時、男の顔を見た。薄い笑みを浮かべている。
「本当に愛らしいお嬢さんだ」
「ロリコンですか」
砂糖の力を借りて、即座に言い返す。
「失礼な。君と私とでは、それほど年が離れてはいないよ」
「あ、すみません。本命は、彼女でしたね」
手で、さくらを指す。
「さくら?」
口元についたクリームを男が拭う。
「まあ、確かにこの子とは血の繋がりがありませんから、いずれ私の細君にということも考えられないではないけれどね」
冗談をさらりと言う。変な男だ。
「狙っているんじゃないですか」
軽やかな笑い声を立てる。席を立ったかと思えば、本を手渡す。
「こう見えて、私は小説家でね。だからこそ、二人の世話を焼けた」
手の中のハードカバーを開く。なるほど。平成の世らしからない古風な世界が広がっているようだ。本を閉じ、口を開く。
「小説家って暇なんですか。あ、暇なのはあなただけですよね」
そもそも本当に目の前の男が、この本を書いたとは限らないではないか。男が間近に座り、耳打ちをする。
「そういう君こそ、部活はどうしたんだい」顔を手で押しやる。
まさか、学校の外で、学校の内のことを非難されるとは思ってもみなかった。右手の手首を拘束され、セーラーカラー越しに肩を掴まれる。
「この制服。確か、ここの学校は、全生徒に部活加入の義務があったと記憶しているけれど?」
「簡単なことです」男を睨みつける。「部活動には加入していますが、実際には活動していないだけのことです」男の手を振り払おうとするが、失敗に終わる。
「それは、それは。文武両道のモットーが泣きますね」
握られた手首と肩に力が入るのを感じる。このまま、押し倒すつもりだ。
「ねえ、お姉ちゃん。さくらとも遊んで」
男が気を抜き、力が緩んだ隙に、逃げ出す。
「うん。遊ぼう。遊ぼう」
人生初かもしれない。こんなに遊びの誘いが嬉しかったことは。男が諦めて、部屋を退出する。再び、さくらの首元を確認する。ストールを指でつまむと、さくらはくすぐったそうにした。実際に、手をあてがってみる。少なくとも、この爪痕は、私より大きな手を持った人がつけたのだ。考え事をしているうちに、さくらが背後に回り込む。
「これ、お兄ちゃんに切ってもらったんだよね」小さなてのひらで、頭をなでる。
「そうだよ」
「いいなあ。あ、床屋さんごっこしよう」思い立ち、すぐに手鏡と工作用のはさみを持ってくる。「はい、鏡持って」
手鏡を受け取る。姉が居る。そうではない。これは、髪を切った私。どうしようもなく、涙が流れる。
「お姉ちゃん」
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