第10話 焼肉臭とハグ(性描写有り対象:ハグ)

「ただいま」

「お!」


 帰ってきた吉田さんの声を聞いて、私は居室から飛ぶように玄関へと向かった。

 もちろん吉報を期待してのことだった。

 ところが、私が顔を見せても吉田さんは無反応で、落ち込んでいるというか、考えごとをしているというか、どうも様子がおかしい。


「おかえり……どうしたのその顔」

「え?」

「楽しくなかったの?」


 俯き気味の吉田さんの顔を覗き込むようにして、私は言った。

 吉田さんはどこかキツそうで、精神的に疲弊している感じの表情をしていた。


「いや、楽しかったけど」

「えー、そういう顔してない。なんかイヤなこと言われた?」


 吉田さんは「別に……」とだけ言って私の横を通り抜けると、居室でスーツのジャケットを脱ぎ始めた。

 吉田さんが私の顔を見ずに言う。


「そう言えば、お前の予想は外れてたぞ。後藤さんはIカップだった」

「そうなんだ……」


 そっちの予想は別にどうでもいい話だ。

 あからさまに話を逸らされ話したくないんだろうなと思ったけれど、それでも私は吉田さんが心配で、少し間隔をとって横顔を見つめ続けた。

 とりあえず、後藤さんに嫌われたわけではなさそうでよかったと思う。好きでもない男性に、バストサイズなんて教えるはずがないから。もっと言えば、性的関心を自分に向けさせるために、胸の大きさは教えたはずだ。


 だったら、なんで吉田さんは悩んでいるんだろう?


 意外に肉食系で引いてしまったとか、性格がイメージと違っていて戸惑っているとか、そういう感じの悩みかもしれない。

 私がしてあげられることって何かないかなって思う。

 お昼に調べた「男の人の励まし方」について思い出したところで、吉田さんが観念したように鼻から息を吐き、頭を掻いた。


「よく分からねぇけど、三島と付き合ってるのかって執拗に訊かれた」

「三島さんって?」

「おととい飲みに行った後輩だよ」

「でも、気は無いって言ったんでしょ?」

「ああ」


 吉田さんの視線は、クローゼットに向けられたままだった。

 色んなことが心の奥で渦巻いているんだと思う。

 下手に励まそうとすると見当違いなことを言ってしまいそうで、やっぱり調べた記事のとおりだなと思った。


「ねえ、吉田さん」

「なんだ」


 ネクタイを外し終えた吉田さんが、私の方へと身体を向き直す。 

 私は吉田さんに向けて、両手を伸ばした。


「ハグしてあげよっか」

「はぁ?」


 吉田さんが顔をしかめる。これは予想どおりの反応だ。

 調べた情報サイトには、男性はプライドが高いので共感の言葉は逆ギレされるだけだと書かれてあった。

 聞き出すのは鬱陶しく思われるし、雰囲気を盛り上げようと明るく振舞うのもダメらしい。それこそ「おっぱい揉む?」と伝えたほうが、まだ元気になるとのことだった。


 確かに。吉田さんは巨乳好きだ。

 でも吉田さんにそんなことを言えば拒まれるか叱られるかのどちらかなので、私は「ハグ」という方法なら自然に胸が当たることを思いついたのだった。


「なんかよく分からないけどさ、JKがハグすればいい気分になるんじゃないかな」

「ならねえよ、バカか」

「いいからっ。えいっ!」


 反論を無視して、私は吉田さんの胸に飛び込んだ。

 背中に両手を回して上半身を密着させる。そして吉田さんの厚い胸板に、むにっ、むにっと豊かなバストを何度も押しつけた。


「えい、えい、えいっ」


 息を吸い込むと、タバコと焼肉臭が鼻に付いた。

 それと、男の人って筋肉質で逞しいんだなって感じて、同じように吉田さんも私から女を感じているのかなって思った。

 思えば、吉田さんにハグするのは初めてだ。今までに二度、抱き付くような素振りはしたことがあるけれど、胸の膨らみは当たらないように気を付けていた。


「もういいから」


 頭の上から吉田さんの苦笑が漏れ聞こえた。そして背中をぽんぽんと叩かれた。

 私は顔を上げ、上目遣いに吉田さんを見る。

 ブラをしているとはいえ、密着具合から大きさとか柔らかさとか、色々と伝わっているはずだ。

 効果はあっただろうか? 吉田さんの顔色は少しばかり良くなっている気がした。


「元気出た?」

「出た出た」

「まじかー、単純だなー、吉田さん」

「うるせぇな」

「えへへ」


 吉田さんは私の両肩を抱いて引き剥がすと、クローゼットにあるキャビネットから寝間着を取り出した。

 もしかして、今日はお風呂に入らずそのまま寝るつもりだろうか? 明日も仕事なのにそれはどうかと思う。


「あ、ちょい、ちょい、待って」

「ん?」


 私は風呂場の方向を指差した。


「焼肉臭やばいから、そのままお風呂!」

「え、汲んであんのか?」

「何となくそろそろ帰ってくる気がしてたからさ、汲んどいた。身体洗って、浴槽浸かって、つまんないことは忘れちゃいなよ」


 手を振るように指差しポーズで言うと、吉田さんがようやく穏やかな笑顔を見せた。


「お前、すげえな……そうするわ」


 吉田さんが下着と寝間着を持って脱衣室へと向かう。

 私は床にぺたりと座り込んで、大きく息を吐いた。

 吉田さんの帰宅時間は、おとといと同じぐらいだろうと予想できた。翌日が仕事なら、酔っぱらうほど飲まないと聞いていたから。

 でも「先に風呂に入らなかったのか?」と訊かれなくてよかったと思う。

 今回ばかりは吉田さんが鈍感でよかった。


「私はまだ吉田さんと暮らせるんだ……」


 そう安堵したのは、今日の昼間のことだった。

 吉田さんは私を匿っている以上、ほんとは気にしていないとダメなんだろうけれど、私は、吉田さんにだけは生理が来ているかとか考えてもらいたくなかった。

 男の人たちの家を転々としてきた半年間は、できることなら消してしまいたい過去だから――。


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