第3章 始まった日常
第8話 手のかかる新入社員 前編
「三島ぁ!」
吉田先輩の怒鳴り声が響き渡り、オフィスがシンと静まり返った。何人かの社員が、私を心配そうに見ている。
当の私はというと、怒られる心当たりがあったものの、小首を傾げてきょとんとした顔を隣の男性社員に向けた。何も分かっていない可愛らしい新人、そう演じることが私の処世術だ。
「
「はい。ありがとうございます♡」
この会社は、仕事がバリバリできる女性よりも、可愛く甘える女性の方が、男性社員からのウケがいい。これは一般論でもあると思う。
自分よりも仕事ができる女性、自分より高収入の女性、自分より高身長の女性は、男性からするとおもしろくない。面子が潰されるからだろう。幸いにして私は小柄でスレンダータイプ。後は仕事ができない社員を演じればいいだけだった。世の中、自分を持っている人ばかりじゃないのだから、割りきりは必要だ。
「何ですかー?」
私はのんきな声で返事をすると、ゆっくりと吉田先輩のデスクへと向かった。
吉田先輩はイラついた顔をしており、火に油を注ぐような返事だったと我ながら思う。
「何ですかじゃねぇんだよ。お前! 何べんも言っただろうが。提出前にちゃんと確認しろって」
「確認しましたよ?」
「確認して、きちんとシステムが機能していて初めて納品できるんだからな?」
直立不動で、私は吉田先輩の話を聞く。
吉田先輩はシステムの確認ができていれば間違いに気付くはずと言っているのだけど、私は「確認はした」という意味で返事をしているのだから、会話は噛み合うはずがない。
「そうですね」
「そうですねじゃねぇ! お前の書いたコードが思い切りミスってて、こんなんじゃ商品になんねぇんだよ!」
「え、ほんとですか。やばいじゃないですか」
私は手を口元に持っていき、今気づいたかのような演技をした。
ウソは得意だと思う。大学時代の映画同好会メンバー相手に、話を合わせたり、共感している振りをしたりと、さんざん行ってきたから。
ただ、どこか他人事のような返事になってしまったとは思う。いや、実際問題、私は吉田先輩に甘えるだけなので他人事で合ってるんだろうけど。
「他人事じゃねえんだ、他人事じゃ!」
「どうしましょう」
「直せ、今日中に」
「今日中は無理ですよぉ」
「納期は明日なんだから今日やるしかねえだろ。お前のケツ持つのは俺なんだぞ」
吉田先輩のイライラは益々激しくなり、机を指でトントンと叩いた。
私の公にしているスキルでは、徹夜しても仕事は終わらないだろう。でも、吉田先輩が代わりに作業をすれば、数時間の残業で二人分の仕事を終わらせることができるはずだ。
吉田先輩はそれを理解してなお、私に手直しさせたいらしい。しかもケツを持つって責任まで負うつもりってこと?
私のミスで吉田さんの責任問題になるのは自分がやっておいて何だが、理不尽だと思った。
「あの……今日中に終わらないと、吉田先輩がクビになっちゃったりします?」
「あ? さすがにクビにはなんねぇよ。ただ、このプロジェクトからは外されるかもな。同時に、お前の教育係も変更になるんじゃないか?」
「え? 私の教育係、吉田先輩じゃなくなっちゃうんですか?」
「お前が今日中に修正できなかったら、そういうこともあるかもしれないな」
「じゃあ、すぐに直します」
私は踵を返し、シャキシャキと自分の席へと戻った。
「あ、おい……」と、吉田先輩の声が背中から聞こえた。
私は入社して一週間足らずで、吉田先輩のプロジェクトに配置換えとなっている。
もともと人手不足のところに、新たなプロジェクトの立ち上げということで、私は猫の手的な意味合いで異動となったのだ。
「相変わらずだよね、吉田くんってさ。……柚葉ちゃん、少しは手伝えるけど、今夜どうかな? 終わったら飲みにでも行かない?」
「ありがとうございます。でも、今日は自分で頑張ってみます」
私は席に戻ると、隣の席に座る先輩に愛想笑いを浮かべた。
そしてシステムを立ち上げ、あえて間違えたプログラムを指示書どおりに修正する。
そう、私は吉田先輩の部署でも当初からの姿勢を崩さず、使えない新人を演じ続けていた。
でも、吉田先輩は仕事のできない部下に優越感を覚えることもなく、分からないことがあれば俺に訊け、残業するかどうかは自分で決めろと言い、私に自主性と仕事の完遂のみを求めてきた。そして私が残業をすれば当然のように彼もまた残業をし、頑張ったことについては素直に褒めてくれるのだ。
「新入社員じゃ、そもそもプログラミング言語から理解できないでしょ。分からないことがあったら、僕に訊くんだよ」
「先輩、ありがとうございます♡」
私の仕事ぶりをしばらく眺めていた先輩は、一見優しそうな「新入社員はこういうものだ」という勝手な評価を押し付けてきた。
そう、これだ。
休日に参考書を読んででも言語を覚えていかないと、この会社の仕事はできない。
押し付けられる価値観にいちいち憤りを感じるよりは、最初から期待されていないのなら、ヘラヘラと従ったほうが楽だった。
でも吉田先輩は違う。常に相手の要求に合わせてきた私にとって、それは不思議な感覚だった。
吉田先輩も人間なんだからいつか私を見限るはずだという思いから、私は徹底して手を抜く新人を演じ続けたけれど、もういいだろう。私は、吉田先輩を追い詰めたいわけじゃないのだから。
それに、私には吉田先輩が上司から外れると困る理由もあった。
*
「へへ。おつでーす」
「おう……」
居酒屋の個室で、私は吉田先輩のジョッキに、自分が持つグラスをぶつけた。
料金均一の安上がりな居酒屋だけれど、私が吉田先輩と二人きりで飲みに行くのは初めてのことだった。
「いやー、よかったですねぇ、納品できて」
「そうだな」
吉田先輩が苦笑して、ビールをグイと呷る。
数時間前。吉田先輩は全く修正箇所のないデータに目を丸くし、「これ、お前がやったんだよな?」と何度も訊いてきた。
吉田先輩は私の陰の努力を全く知らず、演技にも騙され続けていたのだから当然の反応だと思う。
「そうですよ」と笑顔で返す中、私は思い切って飲みに誘ってみたわけだ。今日は人生の転換点だと考えたから。
「それにしても、お前、集中すりゃあんだけできるなら、普段からやってくれよ」
「ふぇ? ふぁんへぇすか」
「いや、呑み込んでから喋れよ」
つい気が急いて、鳥肉を頬張っているところで返事をしてしまった。
私は急いで咀嚼すると、カシスオレンジで胃の中に流し込む。
「な、何ですか? さっきから私の顔、じっと見てますけど?」
「あ、いや、食べてるとこ見てたわけじゃなくてだな……」
「え? 見てたんですか?」
「だから、違うって……」
口元を注視されていたことを思い出して、体温が上昇するのを感じた。
いやいや、吉田先輩が唇フェチってことは……。
吉田先輩が巨乳好きなのは、社内でも有名な話だ。
どうも同僚の橋本先輩相手に「俺は巨乳のお姉さんが好きなんだ」と叫んだとか何かで知れ渡っている。
もし巨乳が吉田先輩にとって譲れないラインってことなら、私に芽はないけれど、もし唇フェチでもあるなら脈が出てくるかもしれない。
私は、吉田先輩って可愛い系が好きなのかな? と勝手に想像してみた。
栗色のミディアムボムの髪に、毛先を内側にカールさせた髪型は、やや卵型の私の顔に絶対に似合っていると思う。目はぱっちりと大きく、唇は小さい。そんな可愛い系の私に見とれていたとしても、おかしくないだろう。
私は視線をうろうろさせながら口を開く。
「わ、私、見られても平気ですよ……恥ずかしいですけど、吉田先輩ならどんな趣味でも……」
「趣味じゃねぇって……いや、お前、もっと仕事できればモテるんだろうなと、思ってだな」
「……そ、それって、吉田先輩の好みのタイプって意味ですか?」
「はぁ……?」
吉田先輩は眉を寄せ、怪訝な表情を浮かべた。
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