第7話 ありのままの自分 後編

「はぁぁぁ、重かったぁ……死ぬかと思ったぁ」


 私は汗だくになりながら運んだレジ袋を、ドスッと床に置いた。

 吉田さんは玄関先で待っていたけれど、私は構わず、スカートの中が見えないようお尻の近くに手を置いて座る。

 今まで当たり前のようにしてきたことだけど、吉田さんに弄られてからは、より一層気を抜かないようにしていた。下着も脱ぎっぱなしにはせず目に付かないところに片付けているし、着替えもなるべく洗面所兼用脱衣室で行うようにしている。

 今までの男の人のところでは、正直そこまで配慮はしていなかった。

 誘っているとかじゃなくて、女の部分をどう思われようと関係ないというか、一種の投げ遣りな気分だったと思う。

 それが今では、明らかに私は吉田さんからの目を気にして、だらしない女と思われないよう心掛けていた。


「そんなんで死なないでくれ……というか早く部屋の中入れよ。俺だって重いんだよ」

「自業自得じゃん、それはさ。よいしょっと」


 私はもう一度ビニール袋を持ち上げて冷蔵庫の前に置くと、吉田さんに通路を譲った。

 吉田さんが靴を脱ぎ、居室へと向かう。

 それぞれの手に持った大き目の紙袋には、漫画本やら文庫本やらでパンパンに膨れ上がっている。もちろんその中には参考書も入っているし、ほんとに読むのか知らないけれど「私が家出をした理由」というタイトルのエッセイまである。


「はぁ……肩もげるかと思った」

「そんなんで、もげないって。それよりさ、そんなに買って読む時間あるわけ? 平日はご飯とお風呂したら直ぐ寝ちゃうじゃん」

「休日にでもゆっくり読むさ」

「……あ」


 私は吉田さんと喋りながら食材を冷蔵庫に詰め込んでいたけれど、単身用2ドアサイズでは全部は入りきれないことに気付いた。

 吉田さんが食べてみたいと言った料理が作れるよう、どんどん買い物カゴに入れていくうちに、とんでもない量になっていたようだ。


「どうした?」

「冷蔵庫に全部入るかなって思ってね」

「……まぁ、押し込めば、いけるな」


 心配してやってきた吉田さんが、開けっ放しの冷蔵庫を覗き込むようにして言った。


「アハハ、じゃあ押しこもっか」


 私は空気を読んで笑うと、てきぱきと袋の中身を冷蔵庫に入れていく。

 でも、背後から感じる吉田さんの雰囲気は重たくて、どうしたのかなって不思議に思った。吉田さんは後ろに立ったままだ。私、何か気に障ること言ったかな? とりあえず、私は楽しげに吉田さんに話しかける。


「で、作り置きできるものは今日作っちゃおうかな。ほら、ゴーヤチャンプルーとかさ。そしたらタッパにまとめられてスペース空くし」

「……お前もさ」

「ん?」

「漫画とか本とか、暇になったら勝手に読んでいいからな」


 私は手を止め吉田さんを見た。吉田さんは怒ってはいない。でも笑顔もなかった。

 私は開けっ放しのままの冷蔵庫を、再び見つめる。


 やっぱり、そういうことなんだ……。


 吉田さんが読みたいと言って買った漫画本だったけれど、あれは私に読ませようと思って買ったんだ。

 今日は本と化粧水、この前は部屋着にお布団。なんで、そこまでして私を気遣おうとするのだろうか。

 実家では漫画本は買えなかった。買えば「また無駄遣いして!」と怒られ没収されたから。どこを探しても見つからないし、戻ってくることはなかったから、捨てられたんだと思う。

 遊びにも出かけられない。本も日常品も自由に買えない。服がボロボロになっても気にしてもらえず、お願いしたら怒られて、クラスメイトの楽しげな話し声が聞こえてくる度に、私は恥ずかしくて惨めな気持ちになった。


「うん。暇になったら読ませてもらうね」

「おう。あ、でも俺が読んでないところのネタバレは、やめてくれよ」

「しないって」


 ようやく吉田さんが居室に戻ろうとする。

 反射的に返事はしたものの、私はそのまま動けずにいた。

 吉田さんは優しい性格だから、誰に対しても優しい。そう一人納得したはずなのに、母さん以上に大切にされていることが、やっぱり不思議でならなかった。


「ん? どうした?」

「吉田さんってさ……なんでそんなに」

「そんなに?」

「やっぱり、なんでもない」


 私はもやもやした気持ちを吹き飛ばそうと、笑顔を作った。

 吉田さんは母さんより私の親みたいなんて言ったら、きっと笑われる。

 それに、母さんは私のことを思って教育してくれているはずで、赤の他人に不満を言うなんて、最低な人間がすることだ。


「おいおい、なんだよ。気になるだろ」

「ううん。何でもない。気にしないで」

「お前な……」

「ほんとに何でもないから、アハハハ」


 私は笑って誤魔化すしかなかった。

 私がいじいじしていたら、部屋の空気が悪くなってしまう。私と吉田さんの二人しかいないのに、吉田さんは毎日の仕事で疲れているのに、ゆっくり休むことも、楽しく過ごすこともできなくなってしまう。

 恩を返せないのなら、せめて気分は悪くしたくなかった。


「……いい加減、無理に笑うのやめろよ」

「え?」


 吉田さんは私の方を向き、咎めるようなキツイ口調で言った。

 私は見透かされた気分になって、冷蔵庫にしまう手が止まる。同時に張り付けていた笑顔も消えていた。


「笑いたいときだけ笑えよ。俺はお前に、常にニコニコして欲しいなんて思ってねぇ」


 だから機嫌が悪かったのかな?

 ちょっと考えてみれば、吉田さんが愛想笑いを望むような人じゃないことぐらい分かっていたはずだ。でも、私は今までずっと人の顔色を窺って生きてきたし、男性は女の人に笑顔を求めているものだと思っていた。実際に今までそうだったと思う。

 私はゆっくりと顔を上げ、吉田さんを見た。


「ここはお前の家ではないかもしれねぇけど、素のお前でいていい場所なんだ。俺との約束さえ守ってくれれば、好きに過ごしていいんだ。だから、変に気を遣うのはやめろ。誤魔化すみたいな笑い方は、やめろ」


 私は吉田さんの言葉にハッとするものがあった。

 ああ、吉田さんは、作り笑いをするなと言ってるんじゃないんだ――


「うん……うん。ごめんなさい」


 私が返事をすると、吉田さんは深く溜め息をついて居室へと消えた。

 私から自然と漏れる言葉は、やっぱり「ごめんなさい」だった。本当に伝えたい気持ちは違うのに、吉田さんに対してまで本心を隠すような言葉がつい出てしまう。

 私はちゃんと吉田さんの気持ちに応えないといけない。そう思った。


 食材を冷蔵庫に入れ終わると居室へと向かい、私はベッドに腰かけている吉田さんをじっと見つめる。吉田さんは俯き、考えごとをしているようだった。


「吉田さん」

「なんだ」

「さっき、私ね……『なんでそんなに優しいの?』って言おうとしたの」

「はあ?」

「でも、そんな質問意味ないなって思って、やめたの」

「意味ないって?」

「吉田さん、もし今の質問されて、答えられる?」


 質問を質問で返された吉田さんは、困ったような表情を浮かべた。

 でも、外した視線を直ぐに私に戻して、言葉を選ぶように語ってくれた。


「俺は……そもそも自分が優しいと思ったことはない……でもな、沙優が生きてきた人生の中では、優しい人間の部類なんだなってことぐらいは、わかるぞ」

「うん。ほんとに優しい、吉田さんは……私ね、母さんとは子供の頃から上手く行ってなくて、ずっと母さんの顔色を伺って、毎日、怒られないように、怒られないようにって、怯えながら生きてきたの」


 初めて告げる母の様子に、吉田さんは口を開けたまま唖然としていた。

 私は吉田さんの傍に寄り、隣にそっと腰かける。


「それでも、やっぱり怒られてさ、ごめんさい、ごめんなさい、って謝って、私は本当に悪い子なんだって思ってた」


 吉田さんの息の呑む音が聞こえた気がした。表情は辛そうで、必死に怒りか何かをこらえているようだった。私は直ぐに視線を落とした。


「吉田さんが言ってくれたでしょ。素の自分でいいんだって。そのとき気付いたんだ。私って、周りのことばっかり気にして、自分が無かったんだって……」

「悪かったな……」

「え?」

「俺、お前に会ったとき、決めつけるようなこと言ったろ? 長い家出の中で酷い大人たちと出会い続けたんだなって思ってた。いや、実際そうだったんだろうが、ずっと前から辛い日常があったんだな……」

「うん……だからね、やめようと思う」


 吉田さんの顔が揺らいで見える。涙が溢れて、止まらなかった。


「……やめるって?」

「吉田さんが言ったんでしょ。変に気を遣うな、誤魔化すみたいな笑い方はやめろって」

「ああ……」

「気を遣いすぎるのも極力やめるし、誤魔化し笑いもやめる。そして、できれば、本当の自分を取り戻したいんだ。……迷惑かな?」


 私は涙でくしゃくしゃになった顔のまま、上目遣いに吉田さんを見つめた。

 吉田さんは私のことを大切にしてくれている。理由は分からないけれど……だから、本当の自分を探す勇気が持てる気がした。

 吉田さんはティッシュを私に渡すと微笑み、優しい声色で言う。


「迷惑なわけないだろ。とことん付き合ってやるから、少しずつ自分を曝け出せばいい」

「ありがとう。でも……半分性格みたいになってるからさ、簡単には直らないよ?」


 ああ、どこまで行っても、私から出てくる言葉は必要以上の気遣いだ。

 吉田さんは傷つけるような言葉を吐かないと分かっていても、不安で、私は顔色を窺ってしまう。


「いいよ。分かってる。ゆっくりでいい」

「……やっぱり、優しんだ」

「あのな、この前も言ったけど、基準を低く持つなって……」

「違うよ。これに関しては自信あるよ」


 言葉を遮った私は、ベッドに置かれた吉田さんの手に、恐る恐る自分の手を重ねた。

 吉田さんは気付いた様子だったけれど、拒むことはなかった。

 自分の弱い部分を曝け出すのは、やっぱり怖い。だから、温もりを感じたかった。


「人を受け入れるのって、そんなに簡単なことじゃない。私、今までこんなに受け入れられたことってないと思う。……吉田さんだけだよ、本気で向かい合ってくれるの」


 吉田さんは何も返さず、黙って聴いてくれていた。私は手を重ねたまま言葉を続ける。


「上手く言えないけど、私、ずっと吉田さんに迷惑かけないようにって思って過ごしてきた。でも、ここに泊めてもらってる時点でもう大迷惑だよね」

「そうだな……」

「だから、その考え方もやめる。これからは、こいつが来てよかったなって思ってもらえるのを、目指そっかな」


 私は自分の気持ちを表現することが、苦手なのかもしれない。

 吉田さんのところに泊めてもらうようになってから、私は吉田さんに対して必要以上の気遣いと遠慮があったと思う。吉田さんがどんな人かということよりも、知らないうちに母さんと重ねて、「迷惑かけない」ようにって思って過ごしてきた。それが今まで自分の身を守る、唯一の手段だったから。

 でもそれは、今日でおしまい。これからは、吉田さんに喜んでもらうことを考えて暮らしていきたい。

 私が微笑んで気持ちを伝えると、吉田さんは何故か吹き出し、声を上げて笑った。


「私、なんか変なこと言った?」

「いや、変っつーか、お前も大概優しいよなって」

「え? ど、どこが……」

「教えねぇ」

「な、なによそれぇ」


 私が思いっきりむくれ顔をすると、吉田さんは愉快そうにまた笑った。そして、私の肩をポンと叩く。


「ま、だったら今後も一層、家事に励むように……美味い飯を期待してる」


 吉田さんのその言葉に、私は初めて吉田さんから必要とされた気がして、すごく嬉しかった。

 私も吉田さんの喜ぶ顔は見たいし、美味しいと言ってくれる料理を振舞いたいと思う。


「うん、期待しといて」


 私の溢れた笑みに、吉田さんもまたにこりと笑った。



 <第2章 完>

 いつも応援ありがとうございます。

 これからも第二次「ひげひろ」ブームを起こすべく頑張って参りますので、

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 なお、第3章からは三島視点も加えます。

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