第2章 優しさの理由

第4話 煙草と気遣い

「あ、吉田さんだ」


 私がようやく味噌汁を作り終えたところで、玄関の鍵が回る音が聞こえた。

 時間は夜の9時を回っていた。吉田さんに任された家事は初日ということもあって、なかなかのボリュームで、夜遅くまでかかってしまった。

 私は火を止め、宿主を出迎えに行く。


「お帰り、パパ」

「やめろ、反吐が出る」

「にひひひひ」


 わざとらしく笑うと、吉田さんが何故か少しホッとしたような表情を浮かべた。

 もしかして、私のことを心配してくれていたのだろうか? だとしたら、軽口が元気のアピールになってよかったと思う。


「いつもこんな時間まで仕事なの?」


 私は吉田さんのことをあまり知らない。食事を一緒に取っているときに、二十六歳でIT企業務めというのを教えてもらったぐらいだ。今日は逆に助かったけれど、まさかこんなに遅くまで仕事だなんて思ってもみなかった。


「いや、今日は二時間残業だった」

「たまに残業があるんだ」

「いや、毎日残業はある」

「じゃあいつもじゃん」


 私はクスクス笑ってキッチンに戻る。

 おもしろいとは思うけど、やっぱり吉田さんとの会話は噛み合わない。歳の差だけが原因じゃないと思う。

 吉田さんは絶対に鈍感系だ。はっきり口に出しても下手すると気付いてくれないタイプかも。私が帰宅に合わせて料理を振舞いたいと思って訊いているのに、全く理解してなさそうだし――。

 合いの手を入れながら靴を脱いだ吉田さんが、私の横に立ち、鍋の中を覗いた。


「また味噌汁か」

「だって、好きなんでしょ?」

「そんなこと言ったか?」

「うん。意識を失う寸前に『味噌汁が飲みたい……』って言うぐらいだからねぇ。でもごめん、味噌汁しか作ってないや」


 冷蔵庫の中が空っぽだったから、味噌汁しか作れなかったというのが正直なところだったけれど、私はまた謝っていた。

 いや、その味噌汁も作れそうになかったから、吉田さんが昼食代にと渡してくれた千円の余ったお金で、具材を買いに行ったぐらいだ。だから満足に料理ができなかったことに申し訳なさなんて感じる必要はないのだろうけど、それでも胸は締め付けられてしまう。


「弁当買ってきたからいい。お前も食うだろ」

「おお……」


 吉田さんは片手に持ったビニール袋を持ち上げて、私はそれを受け取った。

 感嘆の息が漏れたのは、夕食を買ってきてもらった嬉しさからだけじゃない。

 吉田さんは冷蔵庫に何も入っていないことを、最初から気付いていたんじゃないだろうか。私は少し救われた気分になった。


 吉田さんがクローゼットの扉を開け、スーツを脱ぐ。

 私が配膳していると、吉田さんはシワの伸びたカッターシャツを見つめていた。次にフローリング、折り畳まれた洗濯物と視線を移し替えていく。

 吉田さんは少し驚いている様子だった。


「ちゃんと家事やったのか」

「私、案外器用なんだ」


 別に威張るようなことではないけれど、ちゃんと気付いてくれたのが嬉しい。吉田さんのことだ、何も気付くことなく一日が終わってしまう可能性も考えていた。

 家事に慣れているのは、実家に住んでいた頃は何でも自分でする必要があったから。でも、誰かのために家事をするというのは、同じ家事でも遣り甲斐が違った。


   *


「あー、美味しかった。ごちそうさまでした」


 私が両手を合わせて言うと、吉田さんと目が合った。


「ん? どうしたの、吉田さん?」

「あ、いや、一口でいったのにちょっとびっくりしてな」


 私が最後に食べたのは半熟の目玉焼きだった。先に白身だけ切り分けて食べて、最後に残った丸い黄身を食べたのだけど、おかしかっただろうか?


「え、変かな……」

「いや、変ってわけじゃないけどな」


 私が不安気に言ったものだから、吉田さんは慌てて首を横に振った。


「……ほら、お前、今朝もあんまり大きな口開けてメシ食わなかったろ? だからちょっと驚いただけだよ」

「そ、そう……?」


 それって、いつも食べてるとこ見てるってこと?

 意味深な告白に、私はどう反応したらいいのか分からなくて、視線をうろうろと動かした。恥ずかしすぎて、吉田さんを直視できない。私はいったん、ちゃぶ台に視線を落とした。


「吉田さんってさ……」


 吉田さんをチラチラ見ながら言うか言わないか迷ったけれど、伝えたいこともあったので口にすることにした。頬がどんどん熱っぽくなっていくのがわかる。


「お弁当買ってきてくれたり、帰ってきたときもホッしたような顔したり、私のこと気にかけてくれてるよね? いろいろとさ。さっきも口に開け方とか見ちゃってるし……」

「え、いや、さっきのは、たまたま目に入っただけで……」


 絶対にウソだ。朝食は口の開け方が小さいと言ってたから。そういう性癖でもあるのだろうか。


「吉田さん」

「な、なんだよ……」

「いい趣味してるねぇ」

「なんでだよっ! たまたまだって言ってんだろっ!」


 吉田さんが声を荒げる。私はおかしくて肩を揺らして笑った。

 誰かに気にされるなんて初めてのことだった。私は常に誰かにとってどうでもよい存在で、私にそんな価値なんてないと思っていた。食べるところを見られるのは恥ずかしいけれど、でも、気にかけてもらえるのは嬉しい。


「黄身を一気に食べるの、美味しいよ。お弁当のだとちょっと固めだけど、半熟だと卵の味が口の中で爆発するの」

「爆発するのか」

「そう。するの。今度作るからさ、吉田さんもやってみなよ。そしたら今度は私が吉田さんの大口開けているところ見ててあげる」

「やめろよ、そんなん見なくていいだろ」

「ふふ、その言葉、そっくりそのままお返しします~」


 私はまたクスクスと肩を揺らしながら笑って、食事ってこんなに楽しいものなんだって噛み締めた。


   *


「そう言えば、灰皿どうした?」


 食事を終えた吉田さんは、いつものちゃぶ台に置かれていないことに気付いて、きょろきょろと辺りを見渡した。


「あ、ごめん、食器洗うときに一緒に洗っちゃった」

「そうか。ありがとう」

「えへへ」


 私は食器棚からピカピカになった灰皿を取り出し、吉田さんに渡す。

 でも吉田さんは煙草を吸うことなく立ち上がり、灰皿を持ってベランダに向かっていった。


「え?」

「なんだよ?」

「あ、いや、なんでベランダ行くのって思って……ここで吸えばいいのに」

「だってお前がいるだろ」


 さも当たり前のことかのように吉田さんは言う。

 私は吉田さんの「普通」と、私の中の「普通」が違っていることに驚いて、一瞬頭が真っ白になった。気付くと、吉田さんもそんな私に目を丸くしているようだった。


「なんだよ、その顔は」

「いや……」


 私は視線を床に落とした。

 私と吉田さんでは生きてきた世界が違う。母のこと、今まで出会った男性のこと、次々に頭に浮かんでは消える。この胸の奥で渦巻く気持ちは、どう表現すれば吉田さんに伝わるだろうか。私は少し考えてから気持ちを口にした。


「優しいんだなって思って……」

「優しい?」

「いや。今までの人はさ、私のこと気にかけなかったんだよね。私がいようがいまいが、構わず吸ってたから」


 結局、上手く言語化することはできなかった。煙草について訊かれたけれど、別に煙草のことだけ言いたいんじゃなくて――

 何気ない日常の一つ一つが、私は誰かにとって「物」みたいなものだったんだと思う。


「はぁ~~~」


 吉田さんは怒りとも悲しみとも言えない感情を表出させて、頭をガシガシ掻いた。そして「どいつもこいつもクソったれだ。価値観を狂わせやがって」と吐き捨てるように言った。

 ビシッと、私を指差す。


「沙優、いいか、俺が優しいんじゃない。未成年の前で煙草を吸わないのも、同居人の分まで弁当を買って帰るのも、当たり前のことなんだ。勘違いするな」

「え……」

「基準を低く持つな。正しい尺度で物を見ろ」

「わ、わかった……」


 返事をすると、吉田さんはベランダに出て、扉を閉めた。

 ビックリした。伝わらないとばかり思っていたから。

 でも、気遣われる資格があると言われても、ピンとはこなかった。世の中の基準がどこなのかも分からない。私にとっての日常は、吉田さんとの暮らしよりも気遣われなかった日々の方が圧倒的に長いのだから。


 ただ、一つだけ分かったことがあった。そういうことをちゃんと伝えてくれる吉田さんは、やっぱり優しい人なんだなって――


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