第3話 宿代 後編
私ははだけた胸元を整えると、スカートのポケットに入れていた財布を取り出した。中から学生証を取り出し、吉田さんに渡す。
「あ、旭川っ!」
吉田さんは大声を上げるとぽかんと口を開け、そのまま固まってしまった。
学生証には『荻原沙優 上記の者は当校の生徒であることを証明する 旭川第六高等学校』と書いてある。
私がカーディガンを着たところで、ようやく吉田さんは言葉を続けた。
「お前、北海道から来たのか? 一人で?」
「うん……」
「いつ頃、北海道を出たんだよ」
「半年くらい、前かな……」
「親にはちゃんと言ってきたのか?」
「言って、ない……」
「バカ、それなら早く帰って……」
「大丈夫……きっと私がいなくなって、せいせいしているから……」
胸が苦しくて、声が震えた。
ここは東京のど真ん中だ。どれだけ遠くから一人で来たんだと言いたいのだろうけど、私には帰る場所がなかった。普通に親に愛されて、普通に笑顔で毎日を暮らせた人には、たぶん理解できない世界だと思う。
「そんなのは、お前には分からないだろ」
「わ、分かるよ……」
握り拳を作り、必死に涙を堪える。
同じ屋根の下で暮らしているのだから、自分の親がどんな親なのかは普通に分かるものだと思う。
浴びせられる理不尽な罵倒、何されるか分からない恐怖、私のことなんか見向きもされず、親の機嫌を伺って、ずっと怯え続けるだけの毎日――
家の中で孤独感を覚えるなんて、たぶん吉田さんには理解できない。
ふと、吉田さん顔を見ると、怒っているとも悲しんでいるとも、何とも言えない表情で固まっていた。
吉田さんは分からないなりにも、私の気持ちを理解しようとしてくれているんだと思った。吉田さんが俯く。
「……家にも帰りたくねぇ、学校にも行かねぇっていうなら、お前は何して生きるんだよ」
痛いところを突かれ、私はギュッと目を閉じた。正論だった。
でも、私はその答えを持ち合わせていなかった。私には逃げることだけが全てで、これからもずっと逃げたかったから。
ようやく、それらしき答えが出て、私は顔を上げた。
「もう私お金ないからさ。上手いことやって、誰かの家に……」
「上手いことやるって、どういうふうにだよ」
私はさっきの、押し倒されると思って身体が強張ったことを思い出していた。
できることなら身を削る行為はしたくなかった。でも、それしか方法がなかったから応じていたわけで、そこには選択の余地はないと思っていた。それが吉田さんと話をしているうちに、別の方法もあったような気がしてきて、私は返事をすることができなかった。
「バカにすんなよ。今までの野郎はどうだったか知らねえけどな、俺はお前の身体になんざ微塵も興味がねぇ。俺が追いだしたらどうするつもりなんだ?」
「ど、どうにかして次を探すよ」
「どうにかって、具体的には?」
「そ、それは……」
私は手を握りしめ、目を伏せた。
身体を許します、とは言えなかった。吉田さんはたぶん、そんなことを言いたいんじゃないと思う。
私はとても狭い世界で生きていたことを、吉田さんの言葉と態度で思い知った。吉田さんみたいな男性は少ないと思うけれど、だからと言ってどうしたらいいのか、私は本当に分からなかった。
「働け」
私が答えられずにいると、吉田さんはきっぱり言った。
「働く?」
「そうだ。学校からドロップアウトしたガキだってな、みんな働いて金をもらって生きてんだよ」
「でも、アルバイトの稼ぎぐらいじゃ家賃なんて払えないよ」
「ここに住めばいい」
「え?」
「住んでいいって言ってんだよ」
「で、でも、私、吉田さんに何もあげてないよ」
驚きすぎて頭が回らない。
住まわせてもらえるのは嬉しいけれど、それだと吉田さんのリスクがあまりにも高すぎると思った。普通に犯罪行為だ。もちろん私が訴えることはないし、親が捜索願を出すこともないけれど、いつ誰が吉田さんを怪しむか分かったものじゃない。それなのに、私からしてあげられることがないのは不平等だと思う。
吉田さんが腰に手を当て立ち上がった。
「お前の何かなんていらねぇんだよ。くだらねぇ。お金がない、住む場所もない、じゃあ男を誘惑しよう。とかいうバカ極まりないお前の思考を叩き直してやる」
「うう……さっきからバカバカって」
素直に黙って聞いていたら、何だか腹が立ってきた。私だって好きで抱かれてきたわけじゃないのに、誘惑してきたって決めつけられている気がする。
「バカだね! 大バカだっ! 物の価値も分からない甘ったれめっ」
「んっ!」
私は睨むだけ睨んで、言い返す言葉を呑み込んだ。
私にそれだけの価値があるとは思えなかったけれど、言われて悪い気はしなかった。というか、今まで本気で私のことを思って怒ってくれる人なんていなくて、涙が溢れそうになった。
「住む場所がねえんだろ」
「うん」
「じゃあうちに住め」
「……うん」
「で、まずはこの家の家事を全部やれ。とりあえずはそれが仕事だ」
「うぇ? バイトしろってことかと思った」
「ゆくゆくはちゃんとやってもらう。けど、今は俺とお前との生活ペースを合わせる方が先だ。好き勝手やられちゃ困る」
私はあまりにも人が良すぎる発言に、しばらく言葉が出なかった。
ふうっと息を吐き、再び床に座った吉田さんは、私の言葉を待ってくれているようだった。
「何かそれ、ずっと住んでていいみたいな言い方だけど……」
「ずっとは困る。家出に飽きたらとっとと帰れ」
「……それまでは居ていいの?」
私は上目遣いで吉田さんを見た。吉田さんはお椀を手に取り、パクパクと味噌汁を食べていた。
言葉にはしないだけで私のこと他にも色々と決めつけて、勝手にこんな人間だって思い込んでそうだとは思ったけれど、本質は、ほんとに呆れるぐらい優しい人だと思う。
「お前の、甘ったれな根性がマシになるまでは置いといてやる」
私はさっきまでの不満を忘れ、嬉しさのあまり身を乗り出していた。
「ただしっ! 次、俺を誘惑したら、すぐに追い出すからな」
「わ、わかりましたっ」
私は真剣な眼差しを向けて、吉田さんに二度と誘惑するつもりはないことをアピールする。せっかく得た長期間滞在できる地だ。宿主との約束はちゃんと守りたい。
吉田さんが味噌汁を手に取り、一口啜る。
「ああ、あ、冷めちまったじゃねーか」
「あっ、あっため直す?」
私は考えるより先に気遣っていた。
味噌汁が冷めたのは私が悪いわけじゃないけれど、申し訳ない気分になる。宿主を不快にさせたくないのかもしれない。たぶんこれは、癖みたいなものだった。
「いやいい。それより、お前フロ入って来いよ。女子はそういうの嫌だろ?」
「う、うん。ありがと」
私はまた申し訳ない気分になって、浴室に向かい扉を開けた。昨日からお風呂に入りたかったはずなのに、それでも感謝の気持ちより、引け目が勝ってしまう。
そう言えば下着も洗わないといけないなとか思っていると、背後から声がした。
振り向くと、吉田さんは少し照れたような表情を浮かべていた。
「それと……これはこれで、まあうまい」
そんなに恥ずかしいなら言わなくてもいいのにと思うけど、気持ちを込めて作っただけに嬉しかった。そして、今になって味噌汁の感想を言う彼は、やっぱりおもしろい人だなって思った。
<第1章 完>
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