第2話 黒パンツ
居室から「やべぇ、遅刻っ!」と慌てた声がして、私はコンロの火を止めてから居室に向かった。
今日は祝日だから仕事はお休みじゃないのかな? 業種によってはGWで休みに入っている会社もあると思う。時間は10時をまわっている。昨日の就寝は2時近かったから、朝起きれないのは仕方がないなと思う。
「やっと起きたぁ。おはよう」
「なんだお前っ!」
彼は大声を上げ、次の瞬間にはベッドから跳ね起きていた。
どうやら昨日のことは覚えていないらしい。まだ名前も告げていない以上、何者かと問われても困るのだけど――
「なんだって言われても……女子高生ですとしか……」
「なんでJKが俺ん家に……」
「泊めてって言ったら泊めてくれたじゃん」
「はぁ!? 誰が泊めてやるって言ったって!?」
「おじさん」
「俺はおじさんじゃねえ」
そこまで説明しても思い出さないらしい。昨日の頑固さは何だったのかと思う。変なおじさんだ。私はついおかしくなって笑った。
「いや、おじさんでしょ。ウケる」
「ウケねえよ。というかこの匂いはなんだ。何作ってんだお前」
彼は私を押し退けると、居室とキッチン間に身を乗り出した。コンロの上には鍋が置かれ、湯気を出している。料理をしていたことは伝わるだろう。
「味噌汁、作ったよ?」
「人ん家で勝手に味噌汁作るなよ」
まじですか……。溜め息が出た。そこまで忘れられてしまうと、せっかくお礼にと思って作ったのに、意味がなくなってしまう。
「なんだよ、その溜め息」
「おじさんが作れって言ったんじゃん」
「おじさんじゃねえ」
意味が分かんない。彼がおじさんかどうかは、どうでもいい。単なる呼び方の問題だ。私が気持ちを込めて作った味噌汁は、どうなるのかと訊いているのだ。
「おじさんじゃないなら、なに。なんて呼べばいいわけ?」
「呼び方とかどうでもいいから、とりあえず出てけよ」
「えーーー!?」と盛大に叫びそうになって、言葉を呑み込む。
話が嚙み合わないから呼び方を確認したのに、今度は出て行けと話を逸らされた。本当に意味が分からないおじさんだ。
そこまで考えて、宿主を怒らせても何の得にならないことを思い出した。気持ちを落ち着かせるように、今度は穏やかな口調で質問してみる。
「ほんとに覚えてないの? 昨日の夜、電柱の下で座ってたら、おじさんが話しかけてきたんだよ」
「昨日の夜? 電柱?」
彼は考え込むように腕を組み、しかめっ面した。そしてポンと手を打った。
「おおっ!」
「思い出した?」
「黒パンツの」
「うう……なにその思い出し方。サイテーなんですけど」
「でも、見せつけてたじゃねーか」
「違いますー」
頬の温度が上昇するのを感じた。別にパンツで男の人を誘っていたわけじゃない。疲れてしまっていて、気が回らなくなっていただけだ。というか、暗がりでパンツの色まで知ってるって、ガン見してたのそっちじゃん。
私が睨むように視線を送ると、彼は「そうか」と呟いて、何故か「体育座りしていたJKだろ」と言い直してくれた。やっぱり変なおじさんだ。
「そう」
「その、なんだ……俺、お前のこと、襲ったりとかしてないよな?」
そう言いながら、彼の目線が、顔から胸、腰、太腿へと滑っていった。
「好みじゃねえ」とか言ってたくせに、本当は女子高生の身体に興味あるじゃん。
薄目で照れるように見てくるのが、なんか可愛い。そして、他の男の人たちみたいに不快な感じはしなかった。
制服姿だとラインが出ないから分かり難いかもしれないけれど、私はプロポーションも結構いい。もったいないことをしている自覚があるかは知らないけれど、イジメられたこともあって、仕返しがしたい気分になった。
「……おい、なんか言えよ」
「…………」
じーーっと、おじさんを見つめていると、彼の顔が緊張で強張り、歪んでいくのが分かった。よく見れば顔から汗が浮き出ていた。あまり焦らすのも可哀そうかもしれない。女子高生とエッチするのが、そんなに後悔ものなんだ。
「なぁんて、ウソー。ごめん、ちょっとからかいたくなっちゃって、ふふ」
「こいつ」
「いやね、タダで泊めてもらうのもどうかと思ったから、私はそのつもりだったんだよ? でもおじさんが、ガキとはヤらねえの一点張りでさ」
「まじかよ」
「だから、他に何かして欲しいことある? って訊いたら、毎日味噌汁作って欲しいだって」
プッ、気付いたら私は失笑していた。自分で言っておいてどうかと思うけど、それは無いなと思った。私をからかった罰はこれぐらいでいいかもしれない。
「ハア? プロポーズじゃねえか! 絶対言わねえ!」
「アハハ、おじさん、おもしろい」
やっぱりバレるよね。けらけら笑ったのは久しぶりだと思う。もしかすると、何年ぶりだったかもしれない。
私は笑いを堪えると、廊下兼用のキッチンに向かった。
「おじさんさぁ」
「おじさんじゃねえ」
「なんて名前なの?」
「ん? ……吉田だよ」
「吉田さん……うん、しっくりくるなぁ。吉田さんって感じの顔してる」
「なんだよそれ」
吉田さんが意味分からないって顔をする。私も深い意味で言ったわけじゃない。ただ、男の人の家に泊まらせてもらう度に、本名とは違う名前を名乗っていた私にとって、私らしい名前って何だろうと思っただけだった。
私は鍋からおたまで味噌汁をすくった。そして準備したお椀に盛り付け差し出す。
「まあ、とりあえず味噌汁食べなよ。話はそれから」
「なんでお前が仕切ってんだっ!」
それもそっか。吉田さんは変わらずイライラしてるけど、お腹がぎゅるると鳴ると俯いてしまった。おもしろい。堅物そうに見えるけれど、どこか抜けているとも思う。
「食べないの?」
吉田さんは「……食う」とだけ言って、お椀を受け取った。
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