幸福な人生
スエコウ
幸福な人生
幸福な人生だ。
夫は名のある代議士である。勤め先で見初められた私は彼の熱烈な求愛を受け入れ、勤め先を辞めて家庭に入った。
これまで見たこともないような大きなお屋敷に住み、沢山のお手伝いさんに囲まれた、何不自由無い生活。まるで漫画の世界に入り込んだみたいだ。
今日も夫は帰りが遅いようだ。仕方がない。夫は多忙なのだ。
「ちょっと出かけてきます」
私はお手伝いさんに声をかけると、タクシーを呼んでくれるようお願いした。お手伝いさんは不思議そうな顔をした。当然だろう、こんな夜分だ。それでも彼女は何も質問するとなく分かりました、と言って電話のある部屋に行こうとした。彼女は去り際に私に振り返って言った。
「雨が振りそうですよ。傘をご用意しますね」
***
帰り道。
雨が降ってきた。
お手伝いさんがせっかく用意してくれた傘だったが、出先に忘れてきてしまった。私は帰りのタクシーを呼ぶこともなく、決して短くない家路を雨に打たれながら、とぼとぼと歩いていた。
数年前までは、多少の上り坂などものともせず、スーパーの特売品をカゴに満載した自転車で走り回っていたものだった。今ではちょっとした距離を歩くだけでも息が上がってしまう。
雨がひどくなっていた。遠雷の音が降りしきる雨の隙間をぬって、ごろごろと空気を震わせている。
さすがに雨宿りしなければ、と思い手頃な屋根を探して辺りを見回す。その時、雨にけぶる視界の向こうに見覚えのある建物の影を見つけた。私は息を飲んだ。
それは、かつて私たちが住んでいたアパートだった。木造2階建て、全部6部屋程度の、小さなアパート。築30年くらいだっただろうか。
雨に打たれてすっかり冷え切った身体を自ら抱きすくめながら、私はアパートの部屋の前に立った。懐かしい思い出がよみがえってくる。
あの人のはにかむような、ひかえめの笑顔。あの子の、奥歯まで見えてしまいそうな、元気いっぱいの笑顔。
貧しかったけど、笑顔と優しさに満ちた、幸福な人生。
欲と名声に目がくらんだ私が、投げ捨てた人生。
高級レストランの食事に、美しい宝石のアクセサリー。きらびやかな世界に溺れ、今の夫との不倫に溺れるようになってからの記憶は、とても曖昧だ。元夫と息子が邪魔でしょうがなかったことだけを覚えている。
性欲と金に狂って豹変した私は、不倫がばれた後も開き直って、お前の稼ぎが悪いせいだなとど彼を罵倒した。彼のせいではなく、彼の両親の借金を肩代わりしていただけなのに。もっと酷いことも言ったはずだ。息子にも暴力を振るったかもしれない。心が思い出す事を拒否している。
そういえば別れの日も、今みたいな大雨だった。あの人はあの子と二人手をつなぎ雨に打たれながら、黒塗りの高級車に乗って去っていく私を、悲しげにいつまでも見送っていた。私は車内のルームミラー越しに、そんな二人の姿を冷たく一瞥しただけだった。
いまさらここにたどり着いてしまうなんて。雨とは別の
雨が強まる。屋根を叩く雨音がばたばたと耳障りだった。ついさっきまで遠くにいたはずの雷が、閃光を伴って頭上でとどろいた。かすかな空気の振動に合わせて、アパートの屋根の、古びた蛍光灯がちらついている。不快に
あの人が。あの子が。
ドアの向こうにいる。
こんな夜中に起きているわけがない。それにいまさら何を話そうと言うのか。取り返しがつかないことは、自分自身が一番分かっているはずだ。それでも私は、無意識にドアノブに手を伸ばしていた。
鍵はかかっていなかった。ドアはかすかに軋むような音を立ててゆっくりと開いていく。私は息を殺し足を忍ばせて、開きかけたドアの隙間から、そろそろと滑り込むように部屋に入った。
背後でドアが静かに閉じる。雨音が、小さなくぐもった雑音になって遠ざかった。靴を脱いでそっと玄関を上がると、廊下の床はずいぶん湿っていて、季節外れの冷気が足元に
踏み込んだ床がぎい、と鳴る。慌てた私はバランスを崩し、近くにあった柱に手を当てて身体を支えた。妙なぬめりを感じて手を離すと、手のひらが真っ黒な粘液で濡れていた。
薄闇に目を凝らすと部屋のあちこちに、似たような黒ずんだ染みのようなものがこびり付いているのが見えた。いや、染みではなかった。これは
そうだ。
なぜ私は、この場所が残っているなどと思ったのだろう。
あの日。私が去ったあと……このアパートは、火事で燃えてしまったのだから。
ひどいめまいしてよろめいた私は、転がるように奥の部屋に入り込み、焦げた壁に
大きな人影と、小さな人影。二人は手をつないでいた。私は愕然として二人に声を掛けようとした。だが打ち
私が火事の話を聞いたのはずっと後だった。あのとき私は……ああ! 私は心底安堵したのだ。あの人と、あの子と過ごした真の幸福に気付けなかったあの頃の私は、神様があの建物ごと過去の私を、あの二人を焼き捨てて清算してくれたのだと信じたのだ。
何かを打ち砕くような激しい音がした。いつの間にか部屋は炎に囲まれていた。そうだ、火事の原因は落雷だったはずだ……窓際に佇む二人の影法師は、燃え盛る炎の中にあって真っ黒な影のまま手をつないでいて、どちら側を向いているのか分からない。窓の外を眺めているようでもあり、部屋の中でえづく私を眺めているようでもあった。
私は二人に近づこうとした。顔を見たかった。二人に
私は二人に近づこうとした。前に進むたび、足が深く深く沈みこんでいく。とうとう腰まで身体が沈んで動けなくなった。炎が、炎が私の前に。
「あなた!」
私も。
私も一緒に。
声を出そうとしたとき、頭上で恐ろしい叫び声のような音が聞こえた。見上げた先で、真っ赤な炎をまとった天井が崩れ落ちるのが見える。天井が
***
目覚めると、見知らぬ白い天井があった。
私はぼんやりとした頭で目だけを動かして、周囲を見渡した。腕には点滴が打たれていて、その側には……私が今、誰よりも会いたい人がいた。懐かしい声が聞こえる。
「気が付いたかい」
「あなた……」
私の呼び声に元夫は苦笑している。当たり前だ。私と彼は何年も前に夫婦ではなくなっているのだから。
「驚いたよ。あのアパートの跡地で、君が倒れていたものだから」
「あなた、生きて……良かった……」
彼は最初、私の話が理解できない様子だった。そのうちに合点がいった様子で私に笑いかける。家族だったあの頃と同じ笑顔。
「あの時、たしかにあのアパートは火事になったけど、住民はみんなちゃんと避難したよ。死人は出なかった」
火事の後、結局アパートは立て直されることなく更地になったそうだ。早朝、近くを偶然通りかかった元夫が、空き地の真ん中で倒れている私を見つけて救急車を呼んでくれたのだという。
それから私たちはたくさんの事を話した。ほとんど私が謝ってばかりだったが。彼が彼の両親の借金を返済し終えたこと。彼が再婚したこと、息子が再婚相手に懐いていること。もうすぐお兄ちゃんになること……。一方の私は何かを話そうとして、何も話すことがない事に気付いた。離婚後の人生は幸福だったはずなのに。だが、謝罪しか出てこない人生の、どこが幸福だったといえるのだろうか。あの子に会いたい、と私は言ったが、彼は相変わらずの微笑のまま首を振った。
「もう行くよ」彼は言った。私に迎えの人間が来ているそうだ。私はケガをしているわけでもないし、栄養剤の点滴のおかげでむしろ、いつもよりも身体の調子は良かった。
かつて私が軟弱と罵った彼は、私が知ったつもりになっていたよりも遥かに強靭だった。私によってひどく傷つけられた人生をすでに回復させて幸福を掴みなおし、彼の人生にも、息子の人生にも、私の影は
何の未練もない様子で立ち上がる彼に、安堵と寂しさを抱えたまま私は思わず「またね」と声を掛けた。彼はかつてと同じ、ちょっと困ったような微笑で再び首を振った……断罪はなされた。私は今、何もかも失ったのだ。いや、とうの昔に失っていた。あらためてそれを宣告されたに過ぎなかった。
彼が病室を出てゆく。伸ばしかけた手の先にいたのは、入れ違いに入ってきた迎えの人々だった。私は彼らに笑いかけた。自分でも分かるほどに引き
***
(病院の天井に吊られたテレビの番組で、事件が報道されている)
……代議士とその愛人が殺害された事件で、警察は今日、代議士の妻を殺人の容疑で逮捕したと発表しました。関係者の話によると、現場に残されていた傘が決め手となり……
〈終〉
幸福な人生 スエコウ @suekou
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