被爆ピアノ

広島駅で昼食(お好み焼き)を摂ったあと、再び原爆ドーム前に、再びレストハウスに向かった。朝、訪れた時に見落としてしまった被爆ピアノ。2階の、喫茶店・休憩所にあると言う。レストハウスに到着と同時に、2階ヘ。休憩所と喫茶店のカウンターが有り、奥の壁際に茶色い古めかしいピアノが。そのすぐそばに、パネルが立てかけており、ピアノの紹介が書かれていた。明子さんの被爆ピアノだと言う。1926年、アメリカのオハイオ州シンシナティ市のボードウィン社で製造された。このピアノの持ち主で明子さんの母親だったシヅ子さんは、まだアメリカに行く事が珍しかった大正時代に、女学校を出てすぐ、1人で渡米、1922年に、源吉さん(明子さんの父親)と、カリフォルニア州サクラメント市で結婚。しかし子供に恵まれ無かった。源吉さんは、妻のシヅ子さんに「ピアノを習ってみたら」とこのピアノをプレゼントした。渡米前に広島で小学校の先生をしていたシヅ子さんは異国での淋しさをピアノを弾くことで慰めていたと言う。そして1926年5月25日、ロサンゼルスの日本病院で明子さんは産まれた。二人にとって明子さんの誕生はまるで幸せの天使が舞い降りてきたようだったと言う。1933年、家族とともに日本ヘ。おそらく、ピアノも一緒に。母方の実家がある広島の大河に住むようになった。1年後には広島市の三滝と言う場所に居をかまえた。当時市内ではピアノのある家は珍しく、ピアノの先生は家にまで個人レッスンに来ていた。母娘で連弾を楽しむ事もあったと言う。・・・明子さんが19歳になった1945年8月6日、広島に投下された原爆で被爆、爆風で吹き飛ばされ、傷を負いながら三滝の家まで歩いて帰った、自宅にたどり着いた時には、力尽きてうずくまっていた。「娘さんが下で動けなくなっている」と言う近所の人の知らせに源吉さんは、明子さんを背負って家に連れて帰った。ほとんど怪我の無かった明子さんは一命を取りとめたかに思われたが、放射線が明子さんの体を深く傷つけていたため、翌7日、19歳と言う若さで、帰らぬ人となってしまった・・・最期の言葉は「お母さん、赤いトマトが食べたい」だったと言う。明子さんが愛用していたピアノも爆風の被害があった。ピアノの左側面に無数の傷が残り、爆風で割れたガラスの破片が容赦なく突き刺さっままだという。あまり間近で見れなかったので、分からなかったが。その後、おそらく修復されたのだろうか?明子さんの被爆ピアノは、コンサート等で、奏でる事もあったと言う。ピアノ協奏曲第4番「Akikos piano」のCDも販売しているみたいだ。

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