第十章 この人も、同じ宿命を負わされているの?

大森智香は一矢に抱かれながら、

(ここは何処・・・なの?)

と考えていた。

 智香は周りの光景に気を配った。まだ自分たちは父六太郎のいる・・・病院にいた。彼女と一矢は病院の駐車場を囲むように植えられているつつじの繁みの中にいた。午後になり病院に入って来る人はまばらになり、出て行く人もそれほど多くない。しかし、今その誰もの動きは止まり、ほとんどの人が空の一点を見上げていた。そのため、彼らは他の人に気を使わないで隠れていることが出来た。今、二人は動けなかった。洋蔵がどう動くか、見極める必要があったからだ。

 彼らの視線の先の空に目をやると、洋蔵が小刀を手に鋭い殺気を放っていた。人はみんな洋蔵のいる空を見上げていた。みんなは人が空に浮かんでいるという現実離れした現象を目にして、驚きというより恐怖を感じているようだった。

 洋蔵は消えた智香と一矢を探しているようだったが、二人が完全に気を消しているためか洋蔵はまだ二人のいる場所を見つけていない。智香は一矢に抱かれることで、彼女の未熟な気の力を被ってくれていた。もし彼女だけだったら、洋蔵は簡単に智香を見つけ出していただろう。

 

 十数分前。

大伴智香は南小四郎と共に大学病院に入ると、父六太郎の消えようとしている命の気を感じ取り、そこに向かって走った。六太郎の命が消えれば、この世の中で彼女は本当に一人になってしまうのである。消えようとしているお父様の命を蘇らすことは出来ないの、と彼女は自問した。

「だめなの?本当にだめなの?お母様」

彼女は走りながら、首を振った。それでも、彼女は走った。そこにあるのが残酷な姿をさらけ出している父がいると分かっていても、彼女は走るしかなかった。

 そこで、智香は洋蔵の持つ小刀を目にした。その小刀からは鮮血が滴り落ちていた。洋蔵は空に浮かび、静かな笑みを浮かべていた。それを見た彼女は悲しみより強い怒りを持った。その時にはもう父の命は消えていた。彼女ははっきりと認めた。人が取り囲む中心に六太郎が倒れているのを目にした時、彼女ははっきり見たのだった、父の手首が無くなっていたのを。野次馬の間から父の頭が割れ、脳髄が飛び出しているのを、一瞬だがはっきりと彼女は目にした。その時、彼女の心の悲しみを木っ端微塵に砕き、怒りが支配したのである。あれが、お父様の手首を切り落とした・・・お父様を殺されたと思ったら、急に彼女の感情は乱れ出した。父の身体を抱き、涙を流し悲しみの中に浸りたい。その方が、一層気分が楽のような気が、智香にはした。だが、一旦乱れた感情はすぐに冷静にはならなかった。彼女の行動に未熟さが諸に出てしまった。

 「来たか!」

 智香の感情は空回りをし、あっさりと洋蔵に捕まり、父六太郎と同じように手首を切られそうになった。あの時、彼女は感じた気配を白虎と青龍だと思った。すぐに浮かぶ一瞬の思いだった。だが、違った。一矢が智香を助けたのである。

 

 一矢は智香の手首をギュっと握った。智香の心の乱れが分かったようだ。

「だめだ。いけない。余計なことを考えるな。奴は感情の乱れに気付く」

 一矢の声が智香の心の乱れを緩めた。分かっている。今は、そんな感情に浸っている時ではないことくらい。でも・・・彼女の感情は収まりそうにもなかつた。その時・・・

 「うっ・・・」

 一矢が智香の幼く細い身体をさらに強く抱いた。智香の背筋を快感が走った。智香にとって初めて感じる異性の肌の感触だった。父六太郎とははっきりと違うにおいだった。一矢はTシャツ一枚だったから、彼女にすれば素肌に抱かれているようなものだった。一矢の身体は十二歳の少女にとってけっして気持ちいいものではなかったが、気持ちを弛めればすぐに倒れてしまいそうな彼女には、逞しさを感じさせる優しさがあった。

 智香は目をつぶった。一矢の心臓の音が智香の体に反響した。このまま溶けてしまいそうな気分になる。彼女は手を一矢の胸に当てた。彼女の手はゆっくりと動き、何かを探しているようだった。すると、

 智香の手は喉元でぴたりと止まった。その時。幼い快さの中に、彼女は違和感を抱いた。

 「・・・」

 智香はゆっくりと目を上げ、その違和感を確かめた。

 そこには小さな傷があった。小さいが、しかし深い傷跡で、良く見ると何か鋭利なもので傷付けられたもののように見えた。

 「これか・・・!」

 一矢は智香を見た。

 「これは・・・」

 一矢はこれ以上口を開かなかった。

智香の手は強い力で引っ張られているのか、傷痕から動こうとはしなかった。智香は感じていることをうまく納得させることは出来なかったが、自分の手首の黒い痣と同じようなもののように思った。

 今この瞬間も黒い痣に痛みを感じている。しかし、その痛みは彼女の動きを制御する鋭いものではなかった。

 一矢がその手首をつかんできた。智香はびっくりして、一矢の顔を見上げた。一矢は智香の黒い痣を一瞥しただけだった。

 「今は何も聞かない。いずれ聞く機会があるかも知れない。今は、あいつを何とかしなくてはいけない」

 一矢はこう言った後、彼の目はまた洋蔵に戻った。智香もまた洋蔵の動きを追った。この時、彼女はある気配を感じた。彼女にははっきりと覚えのある感覚だった。

 「誰?これは・・・」

 智香は言葉に出した。

 「ウッ。誰かが・・・何か、何者・・・」

 どうやら一矢も洋蔵ではない気配に気付いたようだった。

 一矢の身体が急に硬くなった。味方ではなく、明らかに敵だと認識したようだった。一矢の視線は洋蔵を離れなかったが、感じる気配の正体を確かめようとしているのか、精神を高揚させていた。智香には一矢の皮膚の感覚から、それがよく分かった。

 里中洋蔵はまだ智香と一矢のすぐ近くいた。二人が近くにいると確信しているようだった。洋蔵にはまだ二人が見えていないようだが、彼もまた消えた二人ではない別の気配を感じているようだった。

 「誰だ?一人、二人・・・あの二人ではない。うっ、覚えのある気配だ。それに・・・もう一つある。強い気配、気だ」

 洋蔵は注意深く周囲を観察していた。

 「もう一人・・・いる。何だ、これは?まさか。俺の気のせいか?」

 智香ももう一人に気付いた。

 「しっ」

 一矢が智香の唇を押さえ、黙るようにうながした。微かな感情の乱れが空気の乱れを起こす、と一矢は語り掛けてくる。いつまで続くのだろう、このいやな緊迫した状態は、と考えた時、智香は一矢の腕をつかんだ。智香にも何かが見えたのである。見えない存在はそこにいた。

 「あっ」

 智香は叫びを押し殺した。彼女は洋蔵の変化にも気付いた。

 一矢も智香を抱く腕の力を緩めた。

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