第九章 闘いは一瞬・・・そして、宿命の恋は始まった
里中洋蔵は背後にもの凄い殺気で突進して来る敵に気付いていた。しかし、彼はそれを相手にしようとは思わなかった。
(フン!)
今の世の中に、俺の相手を出来る者などいない、と洋蔵は自負していた。洋蔵は今こそ四百余年の怨念の終止符を打つ時だと感情を高揚させた。彼は智香の両手首をギュっと憎しみを込め、握り締めた。この手首だ。俺の、俺の一生をも狂わしている。この黒い痣は、俺の先祖の怨念の色だ。俺の家系はこいつの先祖の小さな欲望ために苦しめられた。哀れな先祖はただでは死ななかった。怒りを込めて、相手に怨念の印を残した。それがこの黒い痣だ。こいつの家系は、この黒い痣に相当苦しんだはずだ。だが、それも、終わりだ。感謝しろ。今日、俺が最後の苦しみを与えてやる。
「何だ、その目は!」
智香は、洋蔵の独り言を聞いていた。彼女に言葉はなかった。今の彼女にはまだ理解出来ないことばかりだった。
「もがけ、苦しめ」
洋蔵は憎しみを込め、言葉を吐いた。
洋蔵に少しの躊躇もなかった。彼は口を歪め、智香に不敵な笑いを見せた。
洋蔵は手に持つ小刀を振り切った。その瞬間、里中洋蔵は体に強い衝撃を受けた。洋蔵は小刀を振り切ったと感じただけだった。実際は、彼は小刀を振り切ることは出来ず、智香を手放してしまった。
「チィッ、誰だ?」
洋蔵は二十メートルばかり飛ばされ、空中で体勢を取り戻した。白昼の空間に誰もいなかった。
「お前か?」
と洋蔵は呼びかけた。
あいつしか考えられなかったのである。洋蔵の問い掛けに、あいつの返事はなかった。
「俺は、お前を呼び寄せた。だが、俺の邪魔をせよとは言っていない」
やはり返事はない。洋蔵は意識を集中して、その存在を見つけようとした。
「何処にいる?近くにいるはずだ。ここに呼び寄せたのは、俺だ。俺を見ているはずだ。気配を消しても無駄だ。出て来い」
洋蔵は智香の姿を探した。しかし、何処にも、少なくとも視界の中には見えなかった。二人して、同じに消えたか・・・?
(ふふっ!)
洋蔵は苦々しく笑った。
南小四郎警部は今回も何ら手を出せないでいた。
(お前に何が出来る?)
と、小四郎は自分に尋問した。あの子は・・・智香は大男に片手で手首をつかまれていた。大男、洋蔵の手には小刀があり、その形相は鬼畜に見え、今にも振り回されそうだった。このままでは、あの子の手首はあの化けものに切り落とされてしまう。あいつは、
(やる)
振り切る、と彼は思った。やめろ・・・。小四郎は目を伏せた。
「・・・」
シュッと快い音が、小四郎の耳元を走った。彼は目を上げた。小刀は振り切られていた。
その瞬間は、小四郎に次に取る行動をじっくり考える時間を与えなかった。ほんの一二秒の間に、彼の視界から智香が消えたのである。
・・・
小四郎に言葉はなかった。
池内美和は屋上の給水塔まで移動し、隠れていた。彼女は這って、そこまで辿り着いていた。彼女は自分が恐怖のために身体が震えているのが、良く分かった。でも、不思議なくらい冷静だった。一番に怖いという気持ちは今まで見たことのない大男の姿であった。夢の中では何度か大男は見たことがあるけど、実際に目にするのは始めてである。彼女の夢の中に現れる人は、みんないい人だった。こんな気持ちの悪いものは初めてだった。怖くて、言葉も出ない。
その大男が智香の父六太郎の手首を切り落としてした。智香のお父さんの手首は今倒れている遺体の傍に落ちていた。そのことだけでも耐えられない恐怖なのに、大男の大きな目が金色に光り、顔も人間の姿ではあり、とてもこの世の生き物には見えなかった。その恐怖と同じくらい、美和を驚かせたのは、智香の変わってしまった姿を目にした時だった。智香の家に遊びに行った時、いつものように、
「智ちゃん」
と美和は声に出したが、呟くような小さな声だったから、智香に聞こえるはずがなかった。智香が突然現れた時にはびっくりしたが、彼女のお父さんが入院しているのだから、やって来て当然なことであった。美和はすぐに、
「うそ、誰?あれ、智ちゃん?」
と首を振った。智香の変わりようが信じられなかったのである。今、目にする智香は、彼女の知る智香ではなかった。智香はすぐに大男に捕まったが、美和には何がどうなっているのか分からなかったが、智香の勇気ある行動にはっきりとした戸惑いを覚えた。
智香は目が開き、すぐには状況を把握出来なかった。
「何があったの?」
智香は軽く目をつぶった。洋蔵の睨みつける冷酷な目が蘇って来た。自分が両方の手首を洋蔵につかまれて、あえいでいる自分の惨めな姿が浮かんで来た。
「何をする気?」
なの・・・この疑問はすぐに解けた。洋蔵は手に持つ小刀であたいの手首を切り落とす気だ。智香はここまで考えたのを覚えていた。ここで考えが行き詰ると、今の自分の状況が、どうなったのか自然と考えられるようになった。
智香は誰かに口をふさがれていた。その力は強かったが、彼女を抱く強さには彼女がこれまで感じたことのない優しさがあった。
「誰、誰ですか?」
と智香が言った次の瞬間、彼女は自分が誰かに抱かれているのに気付いた。母真奈香でない。父でもない。まして孝子でもなかった。優しいが、彼女が今まで感じたことのない逞しさがあった。彼女は自分を抱いている腕に目をやった。男の人だった。彼女は、悲鳴を上げたようとした。だが、次の瞬間、彼女の口を押さえる力が一層強くなった。
「静かに・・・」
智香は自分を抱いているものに目をやった。もの・・・ではなく、その時には男であることには気づいていたのだが。
「うっ、う」
口を押さえられているので言葉にはならない。智香の目は、飯島一矢の姿をはっきりと捕らえていた。
「静かに!」
一矢は周囲に神経を集中させていた。
智香は頷いた。一矢が自分の存在を消そうしているのが、智香にも良く分かったからである。
一矢は 智香の口をふさぐ手をゆっくりと取った。
「助けてくれて、有難う」
智香は言った。父以外の男に抱かれているという緊張感から、智香の顔は強張ったままだった。彼女は、恥ずかしいと思った。こんな気持ちは初めてだった。
「ここは、何処?}
智香は聞いた。
「心を消せ。あいつに気付かれる」
こう言うと、一矢は智香を優しく抱き寄せた。
智香は不思議な気分になっていた。恥ずかしいという気持ちは消えていなかったが、智香は一矢の腕の中に身体をゆだねた。
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