第八章 父、六太郎の死・・・闘う決心をする智香、一矢は・・・
「さあ、着いたよ」
南小四郎がこう言った時、智香はもう車から飛び出し、走り出していた。
「待て!何処へ行く?」
小四郎は車を病院前の道路に止めたままにして,智香の後を追った。彼は、あの子は何処へ行く気だ、六太郎の所かと思ったが、智香は六太郎が病院のどの棟にいるのか知らないはずだ。実際、智香は病院の入り口には入らず、本館の棟を通り過ぎ、病院の奥の方に走って行った。
(何かがあったんだ?)
六太郎に、何があった?彼は不吉な予感を抱いた。
南小四郎は、智香の仕種や行動に、今は少しの不審感を持っていない。これまで、十二歳の少女の尋常でない姿を見せられているせいもある。小四郎は気付いた、病院の入り口辺り、いや大学病院そのものが嫌な雰囲気に包まれていたのを。けっして気のせいではない、何か怖気を催す何かがこの辺りに漂っていた。また、あいつがいるのか!小四郎は不快な気分になった。病院に来た人、出て行く人など、誰もが人として正常に動いていた。誰もが静かな動きをしていたのだが、
「何かが・・・違う」
と、小四郎が感じた。その次の瞬間、病院の前にある広い駐車場を、静寂が飲み込んだ。
「見たかぁ!」
洋蔵の叫びが、一矢の体に響いた。あいつがいる。飯島一矢にはあいつ、里中洋蔵のやることの全てが見えている。一矢はまだ洋蔵の前に姿を現してはいなかったのだが。
一矢は、あいつが捕まえている男が何者なのか知らない。やせ細った男ではなく六十キロ以上ある男を、洋蔵は片手で軽々と持ち上げている。馬鹿力か!やはり化けものなのか。 一矢は以外と冷静だった。彼は自分でも物事に感動しない男だと思っていた。今一人の人間が殺されようとしているのに、一矢は少しの心の動揺さえ見せてはいない。
あいつが男の手首切り落とすのは明らかだった。何の意味がある?一矢は洋蔵の心を読もうとした。そして、読んだ。
「馬鹿な。四百余年続いた怨念だと。長い。長すぎる」
一矢は声に出した。
男はもがいていた。だが、その高さから落とされるだけでも死ぬのに、洋蔵は男の手首を切り落とそうとしている。男の顔は恐怖で慄いていた。だが、男の恐怖はただ落とされるという恐怖だけでないように一矢は見て取った。最早助けてくれという叫び声さえも、怯えで男の口から出ない。
「やめろ」
一矢は叫んだ。彼は素早く印を結び始めた。
「止めろ。俺の邪魔をするな。前から・・・ずっと以前から気になっていた」
「お前は誰だ?お前、誰に印の結びを教わった?」
洋蔵の動きが一瞬止まったかに見えた。だが、それは一矢に興味を示しただけで、男を殺すことに少しの躊躇もなかった。洋蔵は手にした小刀で六太郎の手首を切り落とした。
「ああ・・・!」
と、六太郎はただ一言の呻き声を発したたけだった。
当然、男は堕ちて行った。
「は、はっ。やったぞ」
洋蔵は笑みを浮かべ、男の両方の手首を空に高く上げた。手首は不気味に名古屋の真夏の陽の中に浮かんだ。洋蔵は陽が眩しいのか、目を細めた。
「ギィャアッ」
短いが、尖った小刀の先のような鋭い叫び声が一瞬の静寂の中にきれいに響いた。ただそれは聞きなれない奇声で、病院の建物の間を縫うように響き渡った。大森六太郎の最後の声だった。
池内美和は、智香の父の手首をつかみ、宙に浮かぶ大男の姿を見ただけでも怖かったのに、その大男の顔の中に光る大きな目が金色なのを見て、彼女は三棟の屋上に上がり切った所でへたり込んだままだった。彼女は恐怖で叫び声さえも上げることが出来なかった。彼女は這って、大男から見えないように隠れた。
「何だ?」
南小四郎は奇声を聞いた・・・ような気がした。あの声は・・・彼には聞き覚えのある声だった。あいつか、と直感した。
「間違いない。何かが起こったんだ」
小四郎の刑事としての勘が働いた。これは・・・と彼は思った。はっきりと理解しないまま智香の後を追い掛けていたが、今彼は何が起こったのか断定した。多分、間違いないだろう。
(あの子を止めた方が良さそうだ)
小四郎は走る速さを早めた。すぐに追い付く距離だった。小四郎はそう見えた。
だが、小四郎は十二歳の少女の走る速さに追い付けなかった。
「馬鹿な!あの子はそんなに早く走っているとは思えないが・・・」
おい、待て!行っちゃ、だめだ。智香は六太郎の元へ向かっているはずだ。智香はさらに病院の奥に入って行く。
二棟と三棟の間は五六メートルの間隔で離れていたが、そこに五人ばかりの人が集まっていた。彼らの視線の先には黒い塊りのようなものが見えた。
小四郎はやはり間違いないと思った。あいつ・・・飛び降りたのか、と彼は三棟の屋上を見た。だが、今は暢気にこれ以上推理を働かせている時ではなかった。あの子を止めなければ、と思ったが、少女はすでに黒い塊りを目にしていた。
「見るんじゃない」
と、小四郎は少女の肩を抱いた。そこに倒れていたのは、間違いなく大森六太郎だった。白い目を剥き、恐怖に慄いていた。頭から落ちたのだろう頭蓋骨が割れ、脳が飛び出していた。それに・・・。
「おい。見るんじゃない」
小四郎は、智香に怒鳴った。それでも彼女は六太郎から目を離さなかった。智香以上に南小四郎は目の前に遺体に目を奪われていた。両方の手首がなくなっていたのである。
「これは・・・」
と、小四郎の脳裏に志摩での記憶が蘇った。
(何だ?何が起こった?)
小四郎は高校生の頃に起こった事件で遺体を見たわけではない。偶然の一致なのかもしれない、と彼は思った。でも、一応調べて見る必要があるようだ、と彼は思うしかなかった。小四郎は、今度は強引に智香を抱き締めた。智香の体は硬くなり、強張っていた。無理もない。これで、この子は本当に一人だけになってしまったのだから。
「許さない」
智香は目を上に向けた。彼女の目に涙はなかった。
「何を見ている」
南小四郎は智香を見て、驚いた。その表情は十二歳の少女の目ではなかった。彼は今まで憎しみに充満した人間の顔を見たことがある。それはもう動物と人間を分ける理性を持っていない存在だった。けっして見たくないものだった。今、彼の目の前にいる女の子は、彼が今まで見た憎しみを持った人間とは比べ物にならないくらいの憎悪で充満した人間になっていた。
「あいつが闘いを望むのなら闘ってやる」
こう言いうと、智香は走り出した。
「待て。何処へ行く?何をするつもりだ?」
小四郎は智香の素早い動きにびっくりしたが、すぐに後を追った。
飯島一矢はあいつの姿を確認すると、気配を消した。
「誰?あの子か・・・しかし、なぜ、あの子か。どうして、ここに・・・」
一矢は、今は動く時ではないと思った。どういうことが起こっているのか、よく見きわめる必要があった。一矢は、成り行きを見守ることにした。あいつは俺を呼び出した。しかし、しゃしゃり出て行くのは、もう少し先、それからでもいい。
「あんた。あたいは許さないよ。この私から何もかも奪う気なの。それが、あんたの宿命なの。怨念・・・馬鹿にしないでよ。四百余年以上前に何があったのか知らないけど、そんなことにために、あんたは自由を奪われてきたの。笑わせないでよ。そんな宿命なら、あたいはごめんだね」
智香は一気にしゃべった。ただ、感情の赴くままにしゃべった。
「うるさい。うるさい。笑いたいなら、笑え。お前も、その宿命の中に生まれ、生きて来たのだ。それも、お前を倒すことで終わりを迎える。全てが終わるのだ」
「フン、許さない。絶対に許さない。あんたが望むように闘ってやる」
智香はいきなり洋蔵に飛び掛って行った。
「ほっ!」
洋蔵は簡単に智香の幼い胸の中に入り込み、左手で彼女の両手首をつかんだ。二メートル近い男と一メートル四十センチそこそこの細い体の少女では、生きるか死ぬかの厳しい闘いが出来るはずがなかった。
「離せ」
智香はもがいた。
洋蔵は宿命の相手をけっして侮ってはいなかった。これが、最後の闘いのはずがない。受け継がれて来た宿命はこんなものではない。洋蔵は何度も自分に言い聞かせていた。彼は、この先があるとは思っていない。いや、もし・・・あるなら・・・いや、あってはいけない。これで終わりなのだ。洋蔵は自分をこう納得させた。
「終わりだ」
洋蔵の手には小刀があり、少しの躊躇もない。彼の小刀は弧を描いた。
白虎・・・青龍・・・
「チッ」
飯島一矢は舌打ちした。
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