第六章

南小四郎は十二歳の少女の異常な様子に戸惑っていた。恭子のことはもう考えないことにしょうと思っても、この子を見ているとちょっとしたきっかけがあると何かと関係付けて考えてしまう。

 智香の表情に焦りの色が見え、瞳が小さく震えているのが分かる。時々、「何!」、「お父様!」、「何なの!」と叫ぶ。お父様が六太郎のことだとは分かるが、他は何を叫んでいるのか分からない。聞けはいいのだが、少女の錯乱したような状態の時には、どんなに気の利いた言葉も差し挟むことが出来ないのを、彼はこのような精神状態の人を何人も見て知っている。だが、智香は南小四郎という刑事と父に会いに行こうとしているのを十分理解していた。

 智香は暴れ狂っていてはいなかったし、荒れ狂い他人に危害を加えるような素振りもなかった。この子は、その瞬間だけ別の世界にいる。だから、小四郎はただ見守るしかなかった。

 「昼だけど、お腹、空かないかい?」

小四郎は言った。この馬鹿みたいな申し出を聞いてくれるのか、彼には自信はなかった。このままの状態にしておく訳にはいかなかったのである。彼は出来る限り平静を装った。彼はたぬき屋に連れて行く気でいた。育代に言った手前もある。大人のかってな言い訳である。小四郎は、智香を育代に会わしたかった。大した理由はない。あるとすれば、俺も育代も一人だった。彼には恭子という女の子がいたが、もう二度と会えないかも知れなかった。育代には子供がいるんだろうか?そして、この子も六太郎が生きているにしろ一人に近い状態だった。

 大森六太郎は名古屋医科大学病院に入院をしていた。仕事以外で運転するのは久しぶりだった。名古屋の強い日差しは相変わらずだったが、運転することで多少暑いという気分を忘れさせたが、彼の首筋には太い汗が流れ落ち、白いシャツの間から体の中に吸い込まれて行った。

 智香の返事はなかった。彼女は左手をちょっとお腹に当てた。

 「いいね。早く行きたい気持ちは分かるけど、まず元気を付けなくてはね」

 小四郎は言った後、微笑んだ。彼はこの時智香の手首に黒い痣があるのに気付いた。この名古屋の夏の暑い時に長い袖の服を着ている人を探すのは、けっして不可能ではないが、彼が目にしたような黒い痣の女の子を探すのは不可能に近い。まさか、他人に黒い痣のようなものを見られるのが嫌いで、長い袖の服を着ているのでないんだろうな、と彼は思った。栗谷町を出る時から気にはなっていたが、敢えて何も聞かなかった。

 まだ、いるといいが・・・。育代が、である。小四郎は育代をこの事件に引っ張り込む気はなかったが、男の俺では手に負えない時があるに違いない、と思い始めていた。そして、砂代でもなく、智香の友達でもない、別の何かを、この子のために与える必要があると思ったのである。

 車はたぬき屋の隣りにある、主の自宅の車庫に入れさせてもらった。育代が結婚する時には車はあったが、彼女と共に車がなくなり、帰って来た時には持って行った車は彼女の手元にはなかった。たぬき屋の主人が、どうぞ自由に使って下さいよ、と言われていた。

 小四郎は戸惑う智香の背中を押した。

 「まだ、いると、いいのだか・・・」

 小四郎は、今度は声に出した。店に入ると、彼は厨房の奥の方に目をやった。店の中には四五人の客がいたが、満席ではなかった。育代は厨房にいた。彼女と目が合うと、彼女の方から近付いて来て、

 「今日は」

 と、智香に挨拶をした。俺の子供と勘違いしている、と小四郎は思った。

 智香は何も言わなかったが、少し頭をこくりと下げた。余り人馴れしていないように見えた。

 「何がいい?」

 と、育代は智香をおかず棚のガラスケースの前に連れて行った。智香は少し戸惑っているようだった。どうやらそれ程腹は減っていないようだった。

 「まあ、いいか」とひとり言をいい、小四郎はガラスケースから玉子焼きと野菜サラダを取り、後から白身のフライを一皿取りに戻った。

 じっと小四郎を見ていた智香に、彼は、

 「本当は、肉を食べたいんだけどね・・・」

 と、一言付け加えた。油物は医者から取らないように言われている。きちっと守っているわけではない。俺はそんなに強い人間ではない、と彼は自分を弁護している。

 「何か、作ろうか?」

 育代は落ち着かない様子の智香に声を掛けた。小四郎は自分の子供に、あれこれ言っているような気分になった。それは彼が無理にこじつけたようなものだったが、それでも彼はそう考えた自分が嬉しかった。

 智香は育代の顔を見つめ、何かを考えている風だったが、うんと頷いた。

 「何がいい?}

 育代は聞いた、

 「目玉焼き」

 「目玉焼き・・・それだけでいいの」

 智香は、うんと答えた。

 「分かったわ。目がくりっと大きく開いた目玉焼きを作って上げる」

 育代は厨房に入って行った。

 少しして、育代は皿に目玉焼きを二つ作って来た。小四郎はそれを見て、

 「確かに、凄い目玉焼きだ」

 と笑った。どう作ったか分からないが、黄身に白い膜がなく、気味が悪いほどくっきりと開いた目が二つあった。

 小四郎の笑い顔がすぐに消えた。智香も笑ったが、すぐに彼女の表情が暗くなり、一瞬影が走ったように見えた。

 「どうした?」

 小四郎は智香の顔を覗き込んだ。また何かが、彼女の心の中に入り込んだようだった。

 「急いで、急いでいかないと、お父様が・・・お父様が死んでしまう。あいつに殺されてしまう」

 智香は立ち上がったが、どうしたらいいのか分からず、狼狽していた。南小四郎にはそう見えた。

 「どうした?何があったんだ?」

 「お父様が死ぬ。あいつがお父様を殺す。私から全てを奪おうとしているの。わたし、あたいはあいつを許さない。急いで、あいつはもうすぐお父様の前に現れる」

 「何だ?何だって?」

 小四郎は、この子は一体何をいっているんだ、という馬鹿な思いはなかった。この子は、何かを見ている。未来か、それとも一時間先を、彼はそう思った。不思議な子なんだ。しかし、この子は余りにも突拍子もないことを言う子だな。仕切りに六太郎に会いたいとは、確かに言っていたが、この時から、この子は何かが見えていたのかも知れない。何か・・・何か、六太郎が死ぬ。殺される。小四郎は智香と共に、急いでたぬき屋を出た。育代は何が起こったの、という驚いた顔をしていたが、すぐに大変なことが起こったに違いないと納得して、智香にまた来てね、言って送り出してくれた。

 南小四郎は車に乗ると、智香の表情を確かめるように見つめ、言った。

 「私には何が起こったのか、起ころうとしているのか分からないが、とにかく急ぐよ」

 まだ少し半信半疑だったが、智香の苦しそうな表情が、小四郎のその気持ちを打ち消していた。小四郎はアクセルを強く踏み込んだ。

 智香の心の目は里中洋蔵の姿をはっきりと捉えていた。

 「いけない」

 智香は叫んだ。彼女の声は落ち着きがなく、何かに追い詰められているような切羽詰った感じだった。小四郎は彼女のキーの高い声に驚き、

 「何が?」

 と声を震わせた。

 南小四郎は赤信号を無視し、ハンドルを左に切った。六太郎の入院している名古屋医科大学病院がビルの間に見え隠れしていた。もうすぐである。

 「もうすぐだ」

 彼は思った言葉を、声に出した。

 「早く、お父様とあいつがいる」

 「えっ。本当か?」

 小四郎は、あいつが誰を意味しているのか分かっている。彼はもう完全に智香の言葉を信じている。

 「分かった。もう、すぐ着く」

 と、また小四郎は言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る