第五章

南小四郎は約束の午前十時より一時間遅れて智香の家に着いた。

 「ごめん。ごめん。すまないね」

 小四郎は遅れた理由を言わずに、謝った。予定していた時間より少し遅くたぬき屋に寄ったのである。智香との約束を忘れていたわけではない。ただ、このしばらくの現実離れした出来事を忘れたかったのである。いつも一人での味気ない食事なのだが、今日は育代がいて話し込んでしまった。本当の所は、育代がいればいいのだが、と自分かってに少年みたいな思いを抱いていたのだが、店に入り、彼女が居てくれてほっとしたというより嬉しかった。

 今日の朝は、いつもより早く目が開いた。というより、昨日の夜から全く眠る気がしなかった。彼にはその理由が分かっていた。現実から掛け離れたものを見せられていたからである。小林刑事には、今日はあの子に会ってくる、と連絡して置き、彼はたぬき屋に行くことにした。いつもは休みの日に行くことにしているのだが、こんな日の朝にたぬき屋に行くことはまずなかった。案の定、たぬき屋の奥さんは小四郎に気付くと、

 「あらっ、こんな日に来られるなんて、珍しいですね」

 という言葉が返ってきた。

 「ははっ、確かに珍しいね。俺が休みでない日に、しかもこんな時間に来るのは初めてじゃないのかな。あぁ・・・でも、育代さんが店にいるのも同じくらい珍しいね」

 小四郎は育代を見て、にこりとした。彼はおかずの棚に行き、塩鮭の焼いたのと玉子焼きと海苔を取った。ご飯は中盛りと言おうとしたのだが、育代がご飯を丼に盛り始めていた。彼女は俺のいつものご飯の量を知っていたのかな、と彼は考えたが、すぐに思い浮かんで来なかった。少々気まずい思いがしたので、たぬき屋の主人を見ると、目が合った。だが、すぐにどちらからともなく目を逸らされた。

 育代が離婚して帰って来ていたのは、たぬき屋の主人から聞いて知っていた。小四郎がここに顔を出した数ヶ月前に結婚式があったらしい。結婚しても、時々店を手伝いに来ていた。だが、小四郎と顔を会わしたのは四五回だった。

 その育代が、中盛りのご飯を小四郎のテーブルに持って来てくれた。

 「お久しぶりですね」

 と、言って丼をテーブルに置いた。うっすら笑顔も置いてくれた。

 小四郎は、育代を笑顔のきれいな女だと感じていた。彼も育代の笑った顔に釣られ、慣れない笑顔を作った。どうしてこの女と離婚したんだ、と見たことのない男に、彼は腹が立ってきた。

 なぜ離婚したんだ、と小四郎は聞けなかった。彼も同じ境遇にあった。笑って、俺もと言えばいいのだが、小四郎にはそのようなことを笑って誤魔化せなかった。至って不器用なのである。たぬき屋の老夫婦は離婚の理由を知っているはずである。確か・・・それらしいことは笑いながら、ポツリと言ったのを聞いたことがあるような気がするのだが、小四郎は覚えていない。

 「いいですか、座って」

 育代は小四郎の返事を待たずに、彼の前の椅子に座った。

 「まだ、名前も知りませんでしたね」

 育代から話し掛けてきた。俺の名前・・・そういえば言っていなかったような気がした。こうして話をするのも、初めてなのかもしれない。

 「南小四郎です」

 小四郎の声は震えていた。彼は店に入った時から、彼女の視線を強く感じていた。彼女は小四郎の目を見つめ、逸らさなかった。気の強い女なのかも知れない。しかし、その中に間違いなく優しさがあった。小四郎はかってにそう感じている。

 小四郎は堪らす目を逸らそうとするが、逸らすことが出来ない。彼は冷たいお茶を半分ほど飲んだ。

 「凄い名前ですね」

 と、育代は声を立てて笑った。

 小四郎も苦笑した。彼自身も何度も思ったことだった。

 「お父さんが言っていたんですけれど、小四郎さんは、三重県の志摩半島の生まれなんですってね」

 小四郎が調理場の方に目をやると、たぬき屋の主人と妻が顔を見合わせ笑っていた。

 彼はたぬき屋には一時間ばかりいた。

 南小四郎は彼女を・・・智香をたぬき屋に連れて来るつもりだった。育代は小四郎が食べるのを、何が可笑しいのか分からなかったが、にこにこしながら見ていた。小四郎はちょっと照れくさかったが、気分良く食べることが出来た。この時、彼の脳裏をかすった映像には、智香がいたのである。

 小四郎は笑った。

 「何が可笑しいのですか?」

 育代が聞いて来た。

 「いや、いい夢をみたんでね」

 「へぇ、どんな夢ですか?」

 と、育代は聞き返して来た。

 小四郎は何も答えなかった。ただ、笑っていただけだった。勘定を済ませ、たぬき屋を出る時、

 「あぁ、昼ごろ、また来るかも知れないから。その時、一人、可愛い女の子と一緒かも。いいですか?」

 と言った。

 育代は、

 「いいですよ」

 とだけ、答えた。この人は、俺の心の中を見通しているのかも知れない、と小四郎は思った。


 「いいの。でも、早く、早く行かないと」

 と苛ついた表情をして、小四郎を恨むような目で睨んだ。

 小四郎は智香が何かを言いたそうな素振りに気付いた。どうした?何が言いたい、と彼は智香の言葉を待った。

 智香は何も言わなかった。ただ、彼女の目は北の空を見つめていただけだった。

 「どうした?」

 小四郎は堪らず声を掛けた。

 「あたいは会いに行くの、お父さんに。早く、行きましょ」

 智香の動きはぎこちなかった。

 小四郎は智香を車に乗せ、名古屋医科大学病院に車を走らせた。


 飯島一矢は名古屋市港区の区役所にいた。居ても経ってもいられず剣を持って、家を出たのはいいが、その前に気になることを片付けておきたかったのだ。彼の両親、飯島慎之介と君江には内緒だった。彼はまだ高校を卒業してからの進路を決めていなかった。一応二年は進学コースを取ったが、彼は自分でもどうしたらいいのか決めかねていた。就職するにしても何をしたらいいのか、さっぱり分からなかった。ただ、俺はこの家族と一緒にいるべきではない、と小さい頃から強く思っていた。

 一矢は、戸籍謄本を取りに来た理由を申請書に、就職に必要なために使用と書いた。彼が進学するにしろ就職するにしろ、まだその必要がなかったのだが、今その疑問を消すために行動を起こすことにした。彼には以前から気になることがあつた。彼らと、つまり彼の両親、弟と称する卓、そして彼の周りの人と、自分のどこかが違っているという事実だった。

 何かが・・・漠然とした考えだった。

 一矢にはそれをうまく説明することは出来なかった。印を結び、呪文のような言葉を唱えるということ、これははっきりしていた。だが、なぜ、の疑問に何も答えていなかった。今は、あの一年で・・・院の結びも呪文の意味も理解出来ている。それに、十一歳のころから聞こえるようになった人の・・・気味の悪い声だが、これも答は出ている。だが、あれは一体何者なのだ、という問いの対する答も出ていない。

 「誰だ?」

 また聞こえた。一矢は叫んだ。彼の心に一瞬静寂が生まれた。

 「お前か。近くにいるのか。いるのなら、来い。面白いものを見せてやる」

 あいつは言う。

 一矢は答えなかった。ただ、彼はあいつの言うように従った。左手を後ろに回し、背中の剣に触れた。そうすると、気分が安らいだ。

 「何処へ行けばいい?」 

 「ふふふっ」

 あいつの返事はなかった。

 飯島一矢は避けることの出来ない力に身を任せていた。歩きながら、彼はさっき区役所で取った戸籍謄本を広げた。

 「おっ、やっぱり・・・か」

 予想出来たことだから、彼は驚かなかった。俺は、何処からやって来たんだ、と自問した。今答の出る疑問ではなかった。

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