第三章

「覚えておいでですね?」

 南小四郎は砂代を見つめ、断定的にいった。あの事件を知るものならけっして忘れられるはずがないと小四郎は思っている。彼が刑事なんて全然興味のない職業に就いたのも、ひょっとしてあの事件を知っているから、と思うことがある。彼は事件に何の関係もしていなかった。あの頃志摩で住んでいた誰もが忘れることが出来ない恐ろしい出来事だった。

 砂代は無言で頷いた。彼女の目に緊張感がみなぎり、それはすぐに恐怖に変わった。彼女の茶色がかった瞳は小刻みに震え始めた。彼女は身近にいた一人だった。

 「義姉の真奈香さんは・・・」

 砂代の言葉は消え、後は続かなかった。

 「あっ」

 小四郎は突然声を張り上げた。彼は今はっきりと思い出した。大森六太郎の妻は、あの事件の中心にいた十三歳の少女に違いない。

 調べで真奈香の旧姓が五十嵐と分かったが、彼の記憶をすぐに呼び戻すものではなかった。でも、今は違う、まさか・・・と思った。今砂代と話している時、急に思い浮かんだのだった。十数年後起こったこの事件と関係あるのか、ないのか今は何も分からない。ただ、少しだがこの事件を取り囲む細い線が見えてきたような気がした。


 その恐ろしい事件・・・見方を変えれば奇怪過ぎる事件は、南小四郎が十六歳の時に起こり、小四郎が十七歳になるとなぜか特に座神の人たちの話題から消えて行った。事件というより、今から振り返ると信じられないような出来事があったといった方がいいかもしれない。小四郎がその出来事の真相がどうなったか知らないまま、志摩を後にするのである。

 座神には大森の家と同じくらい力のある家がもう一軒あった。互いに対立関係にあったらしい。それが、五十嵐の家である。小四郎には、なぜ対立関係にあるのかという詳しい経緯は分からない。二つの家は、表面上はともかく長い歴史の中で深い対立関係にあったらしい。十六、七の少年には興味がなかったとしても当然であった。

 しかし、その当時歴史の中で生まれた対立に興味がなかったとしても、今はそれを放置しておくことは出来ない。多分、おそらく・・・と小四郎は考える。

 今・・・というよりその出来事の結果(事件といっていい)、五十嵐の家の人間は全部死んでしまった。いや、いやいや、二人だけ生き残った者がいた。五十嵐家の姉妹で、確か・・・妹の名前が真奈香・・・のはずである。

小四郎は、当時の真奈香と話したことはなかった。何度か見かけただけだった。あの頃も彼女の異様な美しさは近寄り難さがあった。誰もが彼女と擦れたちがった後、足を止め振り返った。彼女の美しさは座神という一漁村にいるには場違いな輝きかたをしていたのを、小四郎ははっきりと覚えている。

 その出来事の結論として、五十嵐の家で何が起こったのか分からないまま、警察の捜査も終了してしまった。そして、人々の口に上らなくなった。座神は何事もなかったかのように、元の静かさを取り戻した。だが、口に上らなかったとしても、何かがあったという事実は厳然と存在したのである。けっして忘れることのない傷跡を残している。生き残った真奈香と姉の典子の二人以外の人、真奈香の祖父、五十嵐信幸、祖母のけい、父の幸雄、妻の静、真奈香の母になる、幸雄の弟の信也が一晩で死んでしまった。この出来事は、六太郎の祖父、大森一郎衛門と妻のやよいを巻き込み、二人も死んでしまった。この時死んだ誰もが両方の手首が何か鋭いもので切り取られていたのである。だから、事件性はあったのだが、いつの間にか警察は手を引いていたのである。だが、大森の祖父祖母の死が五十嵐の家の二人の死亡と何らかの関係があるのか、何ら関係ないのか、はっきりとは分からないままである。手首が切られていたという事実に何か関係あると見られているのだが・・・ただそれだけのことである。そして、六太郎の父母に何があって・・・というより父貞之助に何が起こったのか、であろう、と小四郎は推測する。当時貞之助の店はすべて瀕死の状態にあり、いつ地獄のどん底に落ち込んでいってもよかった。ただ、それだけで妻の愛子まで殺す必要があるのか、そこに疑問が残る。

 南小四郎は話しながら砂代の反応を気にしていた。この人にとっても思い出したくない出来事なのかもしれない。小四郎が志摩からいなくなってからのことだが、六太郎の父貞之助が母愛子を殺し自殺したこと同様に思い出したくないことなのかもしれない。だが、こうなってしまったからには、砂代、この人は今度の事件に巻き込まれて行くのだろう。小四郎は漠然とこんなことを思った。

 津田砂代は小四郎の視線を感じた。彼女は一瞬見返すのを躊躇したが、彼に目をやった。優しい濁りのない目だった。あの頃は、こんなに近くで接することはなかった。それでも、彼女は心の片隅に小四郎の優しさを感じていた。でも、今は小四郎の優しさに応えることは出来ない。彼女の表情は脅えのような影が浮かんでいた。彼女は少し間を置き、頷き、

 「兄に、何があったんでしょう?私にははっきりしたことは分かりません。あの事と私の祖父祖母が関係しているのか・・・そうは思いたくないのです」

 と、彼女はきっぱりと言ったが、心の隅でまだ怯えるような動揺を拭い切れていない。

 「私にも分かりません。そのことがあってから、自然とあいつと話すことがなくなりましたからね。ええ、遊びに行くこともなくなりました」

 南小四郎は胸にこみ上げてくるものを感じた。何があったのか、何もなかったのか、そのことであいつの人生が変わったかも知れないが、俺の人生は少しも変わりはしない。それでも、あいつが俺に何かを話すことで、今度の事件は起きなかったかもしれない・・・小四郎はふっとこんなことを思ったりもした。しかし、すべて仮定だった。推理するには余りにも情報が無さ過ぎる。また、彼自身の感情も乱れている。

 「あぁ」

 と智香は唸り声を上げた。何か言葉を発しようとしたのだが、うまく言葉に出来なかったようだ。彼女は顔を上げ、庭に目をゆっくりと移した。庭の真ん中にあった湖面の水に陽が反射して、彼女の顔に当たった。その陽光が、智香の顔の表面で揺れていた。

 南小四郎は智香に同情する目を向けた。彼女の唸り声が余りにも重々しく悲しく感じたからだった。だが、すぐにその感情は消え、あっ、と彼は声を上げた。

そして、砂代も何かが変わりつつある智香を見て、改めて驚いたような表情をしていた。この子は、義姉の美しさ以上の何かを持っているような気がした。小四郎は、目の前の十二歳の幼い少女を美しいと感じ、可笑しなことだが、胸の時めきまで感じてしまった。そして、智香の怪しい美しさを、彼は以前見たことがあるのに気付いた。

 「智香」

 と、砂代は言葉を掛けた。

 「そっくりね」

 砂代は呟いた。

 小四郎は頷いた。この子はあの頃の真奈香の年齢には達していない。しかし、今この子の美しさは多分母の美しさを越えるくらい輝いている、と小四郎は感じていた。

 「向こうに行った方がいいかも知れないね」

 小四郎は優しく言った。

 智香は小四郎を見上げたが、何も言わなかった。小四郎は、彼女が微かに頷いたように見えた。小四郎は微笑んだ。

 「その前に、あいつ・・・いや、お父さんに会いに行こう。そうだね、明日の朝十時はどうかな?」

 智香は砂代を見つめた。叔母に、行っていい?という了解を求めた。

 砂代は頷いた。この子は、すぐに兄に会いたいと言っていた。兄に何かが起こっている、いや起ころうとしているというような口ぶりだった。砂代も兄が心配になって来ていた。あの夜の兄を思い浮かべと余計なことを考えてしまう。彼女は微笑みを作ろうとしたが、あの時の兄の姿を思い出すと心が重くなった。

 智香は小四郎に目を移し、頷いた。智香はずっと手を握っていてくれる孝子を抱き寄せた。

 「お姉ちゃん、同じに行っていい?」

 孝子はそうしたかった。単に起こった事件に対して興味を抱いているのではなく、智香のことが心配だったのだ。あの化けものが病院まで智香を追い掛けて行くとは思わなかったのだが。

 「だめよ。だめ。孝子は行かない方がいい。明日は、家にいなさい」

 砂代は別人になってしまった兄を、孝子に見せたくなかったのである。六太郎は孝子も自分の子供のように可愛がってくれたから、この気持ちが余計に強かった。

 「でも・・・」

 と、孝子は言いかけたが、それ以上のことは言わなかった。

 智香も、一人でいい、と言った。それには理由がある。彼女は顔を歪めた。孝子を抱いている手首に力が入った。

 孝子は智香の胸に顔をうずめた。彼女は心から智香のことを心配していた。その気持ちは智香にも良く分かっていた。彼女は今手首の黒い痣に弱いが気になる痛みを感じていた。普通の痛みではないのは今までの経験から分かっていた。その時、何かがある・・・何かが起こるかも知れない・・・智香は漠然とそのようなことを思った。あいつ・・・あの人がまた現れるかもしれない、智香はそんな予感がした。

 だから、孝子を連れてはいけない、と智香は思った。

 南小四郎はもう少しあいつのことを聞きたかったが、まぁ、いい、と自分に言い聞かせた。彼にとって突然何の前触れもなく起こったこの事件の核心にそう簡単に辿り着くことなんか出来ない、と思っている。小四郎は思う、俺にとっては突然な出来事だが、おそらく六太郎や真奈香にとつては、この時に起こるべきして起こったのだろう。というより、六太郎にはある程度予感はあったのだろうが、何も起こることはない、と強引に自分に言い聞かせていたのかもしれない。それが起こったから、記憶を一時的に無くすということが起こったのかもしれない。

 それに比べ真奈香は起こる全てを知っていたと思える。それが、余裕のあの微笑みの正体なのかも・・・。命が消えていこうとしている時、あの何とも言えない微笑である。南小四郎は、何一つ断定はしなかった。集めた内容から推理したのではない。自分が知っている、いくつかの事実を捻じ曲げて、単に漠然と空想したに過ぎない。小四郎は、それを良く理解していた。


津田英美はあいつに呼び出されていた。名古屋の栄の店の近くで、久屋大通り沿いにある画廊で、あいつは時々個展をやっていた。四階建てのビルで、二階以上の階は企業の事務所とか営業所になっているようで、一階に入り、少し奥まった所に個展の広間があった。高梨達也展と筆で書かれた看板があったが、人目につくことが目的ではなく、ただ置かれているだけのようなひっそりとした雰囲気があつた。

 英美は画廊の中ほどの広間まで行くのにちょっと躊躇した。だが、あいつからは逃げられないし、逃げられた所ですぐに捕まるのは分かっていた。あいつに会うのに恐怖心を抱いても何にもならないのは分かっていた。だけど、彼は怖かった。何が・・・彼はそれを思い出すのもいやだった。だがら、英美は呼び出しに従うしかなく、意志のない人形のように広間に引き込まれて行った。 

 広間というのだから広さは大きいが、けっしてロビーのようにはきれいでもない。ただ漠然と絵が展示されている。絵は二十点余りが展示されていた。ここで、あいつは不定期に個展を開いていた。

 「ふぅっ」

 と英美は体から恐怖心を取っ払うために息を吐いた。そうでもしなければいられない緊張感が、ここにはあった。それは、英美だけが抱く恐怖感からかもしれない。

 展示してある絵は油絵とか日本画というのではなくイラストだった。英美は絵なんかに興味も芸術的センスもなかったから、そういう感受性はなかつた。が、それでもここに展示されているイラストの異様さははっきりと感じ取れた。相変わらず黒の色が多く使ってあった。黒というより灰色か?絵から受ける印象は重く苦しく、受ける恐怖感は言葉に出来ない異様なものだった。

 「こちらです」

 津田英美の背後から、あいつの声が聞こえた。背筋がひやっとし、ぞくぞくと体が震えた。彼の声は威嚇するような声でなく優しかったが、英美は彼の怖さを良く知っていたから、振り向くのさえ躊躇してしまう。

 英美はゆっくりと振り向いた。

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