第2章

三重県の地形は伊勢海老に似ていて、志摩郡志摩町座神はその伊勢海老でいうと折れ曲がった尾が丸まった辺りにあり、大森六太郎の家系は座神では網元だった。だった、というのは、今この時代になり、座神で漁業を専業している家はほとんどなかった。だから、座神には網元なる存在はなかった。だが、網元だったという権力の力と尊厳は今もずっと存在し続けていた。志摩地方には数百件以上の民宿はあるが、可笑しなことに座神には一軒もなかった。別に大した理由はない。ごくありきたりの理由で、民宿を専業でやる人がいない、ただそれだけの理由である。南小四郎の脳裏に、彼の記憶にある座神と重ね合わさった風景が一瞬にして蘇って来た。だが、いびつになり、うまく重なり合わない。

 あれから一週間が経っていた。この間、小四郎は智香に二回会いに来ていた。もちろん、事件のことを聞きたかったからである。この二回とも大した収穫はなかった。小四郎はそれでもいいと思っている。まずこの子の心の壁を取り払いたかったのである。

南小四郎はソファに座る大森智香を見つめた。母の葬儀も終わり、普通なら気持ちの面でも少しずつ落ち着いてくるのだが、事がことだけにそう簡単に十二歳の女の子の心が落ち着きを取り戻すとは、小四郎には思えなかった。ただ、時間は止まってはくれない。なんでも、この八月に十三歳になるらしい。

多分、これから何回となくこの子に会わなくてはならないだろうと彼は思った。恭子の姿と重なり、彼にとってもつらい心境にならざるを得ない。しかし、仕方のないことだった。彼が想像していたよりも変わっていなかった砂代の存在もあるのかも知れないが、何度も会えるということが妙に彼には嬉しかった。

 「どうだい?」

 南小四郎は少女の心が読めなかったが、声を掛けた。彼は大きな家に一人になってしまった家主と遊ぶためにやって来たのではない。三日前の夜中、大森六太郎と真奈香に何があったかを説明を求めるために、少女に会いに来たのである。彼女は空ろな表情をしていて、何処かの別の世界にでもいるように見えた。

 智香は小四郎を見上げた。その表情が暗く濁っていた。小四郎にはそう見えた。

 「早く・・・だめよ。今すぐにお父様に会いたい」

 智香は急に気が狂ったように叫んだ。

 「何?またか・・・」

小四郎には智香が何のことを言っているのか、理解出来なかった。ただ、この子の父六太郎に会いたいと言ったのは聞き取れた。あいつに、何かが起ころうとしているのか!

 彼女はポツリと呟いた。

 「あっ」

 と、小四郎はちょっと驚きの表情を見せた。この子は多分感情のままに自分の今願うことを言ったに過ぎないかもしれないが、彼女の小四郎を見つめる目はきらりと光り彼の心に強く訴えて来る迫力があった。この前来た時、医者が会っていい了解したら会いに行こうと約束していたのである。

 「そうだ。そうだね。そうだったね。君のお父さん、私の若い時の友達、六太郎に会いに行こうとこの前約束したんだったね。実は今日来たのは事件のことをいろいろと聞きたかったのだけど、昨日六太郎の病状の報告を受けていてね。お父さん、大分と落ち着いて来たらしいんだ。会っても良いという医者の了解が取れたんだ。どうだい、一緒に会いに行くかい?」

 南小四郎は智香の反応を見ながら話した。智香は微かに頷き、ほっと安心した様子を見せた。孝子は、よかったねと智香に声を掛けた。この前にように、またあの化けものが現れるか分からないので、今日は孝子も砂代も同席していた。

 「今日、私が来たのは、半分は事件のことを聞くために来たんだが、後の半分は向こうのことが知りたくてね。君の叔母さんに聞きたいんだ、今現在の志摩のことをね」

 小四郎は津田砂代に目を移し、頷いた。あなたが余り志摩に帰っていないことはこの前聞きましたという頷きだった。彼の目は砂代を素早く捕らえたが、自分がどういう表情をしたらいいのか分からず、仕方がないから慣れない笑顔を作ってしまった。小四郎は夫の英美がいなかったので、どうしたのか、と聞こうと思ったが、言葉が出て来なかった。理由は嫉妬心なのか?年月も経っているし、今さら嫉妬したって何になる?小四郎は自分の気持ちが理解出来なかった。

 砂代は恥ずかしそうに目を逸らしたが、すぐに小四郎に目を戻した。

「この前に話では、ここしばらく志摩には帰っていないようですけど、あの家はどうされました?」

こう言うと、今度は砂代から目を逸らした。余り触れたくない話のはずだと小四郎は思った。だが、これから先触れなくてはなるまい。小四郎は、それが嬉しかったが、重苦しい気分にもさせた。

 砂代は首を振り、悲しい表情をして小四郎から目を逸らした。

 「あの家だけは手放せませんでした。どんなに忌まわしい思い出があったとしても、あの家だけは手放せませんでした。でも、仕方なかったんです。一度手放してしまいました。この気持ちは兄も同じだったと思います。だから、一度人手に渡った志摩の家を、兄が買い戻してくれたのです」

 こう言い切った彼女の表情には兄六太郎を自慢し、兄への誇りのような気持ちが目の中に表われていた。

 「そうですか。あの家がねぇ。古い立派な家でしたね」

 「ええ、大森の家は、座神で四百年以上続いている網元の家です。私がいた頃の座神では漁業を専業にはている人はまだいましたが、兄の話によると今はもうそんな家はないとのことです」

 「えっ、あいつ、いや六太郎は今も志摩に帰っていたんですか?」

 「真珠の仕入れがありますから」

 「あっ・・・」

 良く考えれば、大森六太郎の仕事は貴金属の販売なのだから、当然の行動範囲なのである。

 あの頃、大森六太郎は小四郎に悩みではないが、いろいろと話してきた。というより、今思うと十代の少年が、古い家の中で置かれている状況にかなり不満だったような気がした。家族の何に不満だったのか、小四郎には当時の六太郎の置かれている状況に全くと言っていいほど興味がなかったからほとんど思い出せない。

ただ、その頃には南小四郎は志摩にいなかったが、六太郎の父の事業の倒産、そして、その父による母への殺害を経て、自殺。まだ高校生だった砂代もいた。六太郎は家に対する不満や反抗心を消すしかなかったのだろうか。小四郎には分からない。大森の家を再び起こしたのは、当時の六太郎の不満を解消させる何かがあったのか。余程の理由がなければ、今の立ち直りは尋常な気持ちでは出来ない。そんなに興味がなくても、あの頃の小四郎の耳に六太郎の家のことを少しは耳に入って来ていた。もちろん、六太郎が直接話してくれたこともある。

 大森六太郎の家系は四百年以上前の時代から何代も続いているようだった。俺は、家系とかいうものに全く興味はなかつたし、縁もなかった。だから、六太郎のいうことを聞き流していたが、耳に残っている話が少しはある。だが、それさえも今は俺の記憶の中から消えかかっている。座神に伝わる話で、半ば伝説のようなものになっていた。半ば怖いおとぎ話に似ていたような気がするが、苛々するほど思い出すことが出来ない。あっちに帰れば思い出すだろうと彼は感情を苛立てないようにしている。時間を待つしかない、と彼は自分に言い聞かせている。余りにも時間が経ち過ぎているのである。

 南小四郎はふうと息を吐き、肩の力を意識的に抜いた。

 砂代はそんな南小四郎に小さな微笑を見せた。

 「ふふっ。その仕種、あの頃と少しも変わってはいませんね。時間は人にいろいろなことを経験させてくれます。いい事も悪いこともです。私は女です。大森の家について、家系の歴史のようですが、兄は父からいろいろ聞かされていたようです。わたしには詳しいことは分かりません」

 小四郎は頷いた。そういう古い慣習が残っている所だった、あそこは。多分、今も・・・。

 大森智香は二人の話に目を輝かせて聞いていた。彼女はまだ志摩がどういう姿をした所なのかを知らない。かってに想像するしかないのだけれど、彼女の想像した志摩に時々母や父の姿が浮かび上がって来ていた。でも、二人に動きを与えることは出来なかった。智香はちょっと不安な気持ちが襲って来ると、時々横にいる孝子の手を強く握っていた。智香はほっとした気持ちになった。張り詰めた糸が緩んだ瞬間だった。彼女にとって孝子は、母がいなくなった今、唯一の心の許せる人だった。

 孝子はそんな智香の気持ちが分かっているのか、智香の手を強く握り返した。

 南小四郎はそんな二人を見て、気持ちが和んでいた。

 「あの頃は六太郎と夢中で遊びまくりました。明日と言う日が来なくてもいい、今・・・今日いう日というがあればいい、というような気持ちあったとは言いませんが、それほど体がはちきれんばかりに遊びまくりした。何が楽しかったのか・・・そんなことは分かりません。今振り返り思い出して見ると、みんな夢だったと言ってしまえばいいのですが・・・ふっ、みんな夢だったのかも知れません。あなたの言う、良い事も悪い事も、過ぎ去った過去そのものが夢なのかもしれません。その頃は何も気にしませんでしたが、今こんなことが起こると、何だか、あの頃が重要な意味を持って来るような気がするんですが・・・気になります。しかし、今私は正直何も思い出すことが出来ません」

 南小四郎はソファから立ち上がり、庭に面したガラス戸に行き、空を見上げた。彼は目を細めた。少し痛みを感じた。名古屋の夏の陽が直接彼の目に射し込んできたのである。

 小四郎は目を強く抑えると、また言葉を続けた。

 「夢・・・だったのでしょうか?今、私は夢だったとは思いません。私の心は今痛みを感じています。みんな、現実だったのです。」

 小四郎は振り向いて、砂代を見た。

 砂代はゆっくりと頷いた。

 「私は、兄を父以上に信頼をしていました。兄も、そんな私の気持ちを十分理解してくれていたようで、いつも私のことを気に掛けていてくれました。兄は父がやっていた志摩の店の倒産、そして父母の死から相当苦労して数年で立ち直りました。えぇ、兄の弱い所を知っている私には驚いています。何が兄をあそこまで強く・・・強い気持ちにさせたのか」

 ここで、砂代は言葉を切った。そして、南小四郎を見つめた。彼女の唇は動いたが、すぐには言葉にはならなかった。少しして

 「何が兄を強くさせたのか、妹の私には分かりません。でも、私に大阪に行けと言ったのも、私たちを大阪から呼び寄せてくれたのも兄です。兄にとても感謝しています。」

 と砂代は言った。

 砂代は一つ一つの言葉に感情を込めて話していた。時々小四郎の目と合い、戸惑いを見せたが、小四郎にはその仕種が少女のように可愛く見えた。

 南小四郎は時々頷いた。彼は砂代がいう六太郎の弱い所を知っていたし納得もしていた。あいつが・・・と思うが、彼は砂代の言うように何があいつをそこまで頑張らせたのか知りたいと思った。一番の理由は、この事件を早く解決したいという気持ちだが、しかし、その理由の中に妹砂代への愛情があったはずである。砂代の六太郎の頼り様は、小四郎にあの頃と同じ嫉妬心を起こさせるものだった。

 「六太郎はそんな男なのです。私には良く分かっています。あいつのそういう所が好きでした。だからこそ、あいつを友としたのです。あの時まで・・・?その時以後、私は真の友としたのです。私があの事件を聞いたのが、あいつからの電話でした。おい、もう会わぬ。座神には、来るな。お前のためだ。俺から言うのは、これだけだ。何も聞くな。その内、いろいろな噂が伝わっていくと思う。お前がその噂を信じようが信じまいが好きにしろ。それだけ言うと、あいつから電話を切った。こっちから、何も聞くことは出来なかった。何か・・・あったな、と間違いなく思ったよ。案の定、噂は、私の耳にも入って来たよ。多分、本当だろうと思った。あいつは、全てを自分で解決するつもりに違いない。あいつは、俺に気を使ったのだろう。余計なことなのだか、あいつはそういう奴なのです。あの時のあの電話以来、あいつとは会っていません」

 「あの時・・・」

 砂代は目をつぶり、何かを思い出そうとした。彼女はすぐに目を開けた。そして、小四郎を見つめた。

 小四郎は、そうです、と、ゆっくりと頷いた。それは座神という小さな漁村で起こった恐ろしい事件で、小四郎が十六歳の時に起こった。大森六太郎も十六歳である。そして、

 「あなたが・・・十四歳でしたね」

 小四郎の唇は微かに震えていた。

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