第19話 本当の恋人契約

 停学期間中、私は毎日咲那さなのお見舞いに行った。

 彼女は一向に目を覚ます気配が無い。

 日々の苦痛からようやく解放されたかのように、落ち着いた呼吸だけを繰り返す。

 もう私の所には帰ってこないかもしれない。

 そう考えるとただただ切なくなった。

 停学が明けてもそんな日々は続き、気付けば二ヶ月が経過している。

 私に声を掛ける人間はごく少数になっていた。

 暴力事件はたちまち学校中に広まっていたし、当然のことだろう。

 私には咲那さえいればいい。

 それだけを心に決めて、その日も学校帰りに病室へと向かった。

 

「咲那ちゃん……?」

 

 患者しか居ない室内で、彼女は意識を取り戻していた。

 ベッドの上で体を起こし、静かに窓の外を見つめている。

 私の呼び掛けに気付いた彼女は、ゆっくりとこちらに振り返った。

 その表情にはおよそ感情と呼べるものがない。

 ただ無機質な目で私の全身を眺めている。

 それでも私は嬉しかった。

 

「咲那ちゃん! 目を覚ましたんだね!」

「咲那ちゃんって誰ですか……?」

 

 喜びのあまり浮き足立っていた私は、一瞬で我に返る。

 彼女は何を言ってるんだろう。

 その顔色からは何も読み取れない。

 記憶が混乱しているのだろうか。

 それとも私を拒否してるのだろうか。

 何も伝わってこない。

 

「咲那ちゃん……、私のこと分かる?」

「ごめんなさい。どちら様ですか?」

 

 わけが分からなかった。

 せっかく帰って来てくれたと思ったら、彼女は何一つ覚えていない。

 苦しんでいた自分も、楽しい日々を過ごした私のことも、全てを忘れてしまっている。

 たった二言でもそれを察するには十分だった。

 呆然と立ち尽くす私の背後から、扉の開く音がした。

 

三隅みすみさん、またお見舞いに来てくれたのね」

「……お姉さん、咲那ちゃんが………」

「咲那……! あなた起きたのね!」

「もしかして、咲那って私のことですか?」

 

 突き付けられた残酷な真実に、お姉さんの身体も硬直している。

 見開いた目からは、次の言葉を探す意思すら見えてこない。

 いきなり信じられない状況に突き落とされ、安堵感を一気に奪い去られた顔をしている。

 今の私とほとんど同じ気持ちだろう。

 

 医師の診察によると、どうやら一時的な記憶障害らしい。

 水中で呼吸が停止し、脳の機能も長時間阻害されていたことが原因だと言う。

 しかし自殺に至った精神的負荷を考えると、もしかしたらそちらも記憶に影響しているかもしれない。

 いつ戻るのかも分からないし、最悪の場合元通りにはならないかもしれない。

 そこまで念を押して言われた。

 当然そんなことは信じたくない。

 だが彼女にとっては、忘れたままの方が良いのかもしれない。

 私は葛藤していた。

 彼女にとって一番救いのある道はどれなのだろうか。

 それだけを考えながら面会を継続した。

 

「ねぇ、あなたはなんで毎日会いに来てくれるの?」

「え、それは………」

 

 咲那が記憶喪失になって一週間が過ぎた。

 相変わらず彼女が思い出したことは何も無い。

 でも家族のことは一応認識したらしい。

 家族以外に毎日ここへ足を運ぶのは私だけだ。

 そんな彼女からの率直な質問に、私はなんて答えるべきか分からない。

 本当の事を言えば、彼女はまた苦しむかもしれない。

 だけどまた明るい笑顔を私に向けて欲しい。

 次に言うべきセリフが浮かんでこない。

 

「あなたのお名前は?」

「え……?」

 

 そう言えば彼女の名前を呼ぶだけで、まだ名乗っていなかった。

 もう四年半以上になる付き合いで、今更自己紹介する事なんて頭から抜けていた。

 でも彼女の方から興味を抱いてくれた。

 それが素直に嬉しい。

 

「私は三隅光凛みすみひかりだよ」

「三隅光凛さん……。私のお友達?」

「友達ではないかな。私はあなたの事が大好きなの」

 

 つい本音がこぼれてしまった。

 彼女に名前を呼ばれ、私を認められたような気がした。

 だから私も本当の気持ちを伝えてしまった。

 彼女は不思議そうに首を傾げている。

 

「私の事が大好き? それでもお友達じゃないの?」

「……うん。私達は付き合ってたんだよ」

「付き合ってた? 女の子同士なのに?」

 

 その言葉は私の胸に深く突き刺さった。

 彼女の口からは一番聞きたくない疑問。

 それでも私を好きになってくれた彼女にとって、最も遠いはずだった感情。

 それが今の彼女からは当たり前の様に口にされている。

 もう彼女は遠い所に行ってしまったんだ。

 私を好きになってくれた彼女は居ない。

 私が好きになった彼女は、私がそばに居られる理由すら残してくれない。

 せっかくまた話せるようになったのに。

 こうして私を見てもらえてるのに。

 もう私の大好きな咲那ちゃんではないんだ。

 

「え、三隅さん!? どうしたの!?」

 

 その場に崩れ落ち、涙をこぼす私を見て、彼女は心配そうにしている。

 少し慌てた声色をしているが、彼女の顔を見るのはもう辛い。

 ひたすら胸の奥が締め付けられるだけ。

 でも立ち上がる力が湧かない。

 逃げ出す気力も残されていない。

 溢れ出す涙で前が全く見えなかった。

 

「本当に私の事が好きだったんだね」

「え? 咲那ちゃん? 思い出したの?」

「ごめんなさい。まだ何も思い出せないの。でも三隅さんの泣いてる姿を見ていたら、本気だったのは分かったから」

 

 彼女は記憶を失っても彼女のままだった。

 どうしようもないくらい人の気持ちに敏感で、それ以上に恋心をよく知っている。

 だから私は彼女に教わりたかった。

 彼女と同じ目線で世界を見てみたかった。

 私は彼女に憧れてたんだ。

 

「私はね、咲那ちゃんに恋心を教えてもらったんだよ」

「恋心を教えてもらう? なんか面白いね」

「本当に楽しかったし、すごく幸せだったよ。君から私に突然告白してきたんだから」

「そうだったの? 女子からの告白でも嬉しかった?」

「うん。嬉しかったし、君が眩しく見えた。だから恋人契約をしたの。私にも君の恋愛感情を教えてって」

「なにそれ変なのー! でもなんか素敵だね、そういうの」

 

 一緒に積み重ねてきた思い出は残っていない。

 でも咲那は同じ笑顔で楽しそうにしている。

 私に笑いかけてくれている。

 それが何よりも嬉しかった。

 彼女は決して私の気持ちを否定しない。

 私がそうしてきたように、記憶が無い彼女も同じように受け入れてくれる。

 やっぱり咲那ちゃんは咲那ちゃんだった。

 私にとって誰よりも大切で、初めて好きになった人。

 もう絶対に離れたくない。

 

「ねぇ咲那ちゃん。もう一度私と恋人契約してくれない?」

「え、でも私は何も覚えてないよ?」

「だから私が咲那ちゃんに恋心を教えてあげる。君がくれたこの気持ちを、今度は私から伝えてみせるから」

「恋人契約かぁ。少しわくわくしてきたよ! 私はなんて呼べばいい? 光凛ちゃん?」

「いつもそう呼んでくれたよ。よろしくね、咲那ちゃん。今日からが本当の恋人契約だよ!」

 

 こうして私と咲那の新たな関係が始まる。

 私から彼女に恋心を教える恋人契約は、いずれ本物の恋人同士に繋がると信じて……

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彼女と私の恋人契約 〜恋する気持ちを知らない私と、そんな私に恋する君と〜 創つむじ @hazimetumuzi1027

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