どうか月に囚われないで、私だけに手を伸ばして

位月 傘


「成人になる年齢のちょうど半分のころ、星に恋をした」


 比喩ではなく、本当に空に浮かぶ星に。

 あの子は北の空でいちばん輝く、海の底のような蒼い蒼い星。太陽と月が新月の夜に為した子のひとり。

 

 歌うように、描くように、今まで見たことないほど楽し気にそう告げた。

 彼は僕に時々気が向いたように自分とこの世界のことを教えてくれる。

 

「あの子?」

「そう、あの子。君はどうしてか何も知らないようだから教えてあげる。星も空も、全部生きているんだよ」

 

 彼の眼はいつも氷のようであったけれど、こうして語り合っているときだけは火が灯る。そして今日はいつにも増して機嫌が良いようだった。

 正直に言ってしまえば、僕は彼の語りにそこまで興味があるわけはなかった。いや、興味がないというよりも、興味を持つほどの土台となる知識を持ち合わせていなかった。

 それでもこちらから会話を続けていたのは、ひとえに数か月ここで暮らして、そう簡単には帰れないということを納得できるようになっていたからだった。


「それなら、どうして星は輝いているんですか?」

「人を助けるためさ」

 

 

 空は月と太陽を生んだ。人間が凍えないように、暗闇を歩かなくていいように。

 月と太陽は星を生んだ。人間が迷わないように、孤独に泣かなくていいように。

 


 彼の言うことは、正直ちんぷんかんぷんだ。だって星の輝きはずぅっと昔の光が長い時間をかけて届いているのだと習った。そんな、動物のように親がいて産まれるだなんて、聞いたことない。

 

 それでも彼は僕のほうがおかしいみたいに言う。彼だけじゃない。少なくともこの町のひとはみんなそうだ。僕のことをおかしな子だと言う。世間知らずの子だねって。変な子だって奇異の目で見た。


「子供の頃、あの子に恋をしたばかりの頃、皆ひとは死んだら空に行くと信じていた。もちろん俺も」


  僕を拾った男は、そんな僕よりも変なひとだ。だと言うのにとびきりの美丈夫で頭もすごくいいから一目置かれているらしい。同時に距離も置かれているようだが。

 

「だけどそれから数年して、人間は死んでも空に昇るわけではないというのが発見された。はは、あの時の衝撃はもう味わえないだろうね」

「悲しくは、なかったんですか?」

「もちろん悲しかったさ。そしていずれあの子に会えると思っていた自分がいかに愚かであったのかにも気づかされたよ。口説き文句なんて考えていた自分が恥ずかしくなった」

 

 そう話しながらも、男はにこにこと口角をあげている。不思議と人好きのするものではない。きっとそれは、彼が他人に興味のないせいだろう。それでもこの男が変人であるおかげで自分は今でも生きながらえているのだから文句は言えまい。

 どう反応すればいいか分からず、早くと視線で続きを促す。彼はこちらの意図を汲み取っているだろうに、もったいつけるように足を組み替えて、カップに口をつけ、それからようやく続きを話し出した。


「それでも俺は、自分からあの子に会いに行けるかもしれないことに歓喜していたんだ。死んでから会えるのなら、死ぬ前に会うのはルール違反だけれど、死んでも会えないのだから、こちらから会いに行ったって許されるだろう?」

「……あなたの言うことは、僕にはよくわかりません」

「なんだ、子供でもあるまいに」

「子供ですよ。中学生――まだ15歳です」

「なんだ、来年成人じゃないか」

「僕の住んでたところではまだまだなんです」


 男はやれやれと首をすくめる。このやりとりは初めてではなかった。それにこの男はこうは言いつつ、僕を大人扱いしたことなんて一度もない。いつの日かそういう風な反論をしたことがあったが、男はひとしきり大笑いしたあと、これは子供扱いではなく無知な田舎者の扱いだと言われたことがあるので、僕はこの男と話すのがあまり好きではない。


「それなら君にも分かるように教えてあげよう」


 彼はそう言って微笑んだ。相変わらず人好きのするような、親しみのあるものではない。けれどそれが却って現実離れしていたから、迂闊にも映画のワンシーンみたいに見えてしまった。


「まだあの子は誰のものでもないってことさ」


 この人は頭も見目も良いけれど、すごく変なひとだ。笑い顔だってなんだか気味が悪いし、他人を傷つけたってなんにも思わないようなひとだ。だけどその目がやけに真剣で、その姿が妙に様になっていたから、やっぱり腹が立った。


「……やっぱりよくわからないです」

「嘘だろう?まさか君、恋をしたことすら無いなんて言わないだろう?」

「そういうの、僕が住んでいたところだったら訴えられてますよ」

「それじゃあ俺たちが出会ったのがこの町だったことに乾杯でもしようか」


 この町じゃなかったらそもそもあんたと出会ってないだろ、という言葉は飲み込んだ。力が抜けてしまったというのもあるが、どうせこの人は明日になったら自分の言ったことすら忘れているだろう。そんな相手にわざわざ突っかかって、ろくでもないことを言われるようなおかしな趣味はない。カップで口元を隠して、そっとため息を吐いた。 

 

「君は確かに自分のことを子供だと思っているのだろうけれど、そう思いながら大人のように振舞う自分が好きだろう?だったら恋人の一人や二人作れば良いのに」


 前言撤回だ。こちらが何も言わなくてもこの男は余計なことを言う。

 男は必要であれば敬語もお世辞も言えるのに、必要がなければいつもこうだ。わざと突いているというのではなく、単にストッパーをかけていないのだろう。本当に嫌だ。

 

「女性と交際すれば大人になれるというのは、短絡的ではないですか?それに好きでもない相手と付き合ったって意味ないでしょう」

「恋人になるのに意味を求めるなんて、存外ロマンチストだね。友人と『そういう』話をしたりはしないのかい?まぁ君はそもそもここには友人がいないみたいだけれど」

「最低だ…………」

「はは、友人がいないのは俺も同じだよ。せいぜい仲良くしようじゃないか」

「仲良くする気があるなら、普通友達になるものでしょう」


 空になったカップを洗おうと立ち上がる。対照的に男はカップの中身が無くなっているにも関わらず、それを持ったまま固まっている。一体何なんだと思いつつ、催促しながら視線をあげた。

 男の顔を見て、それからぎょっとしてカップを落としかけた。何か考え事でもしているのかと思ったら、彼は目を見開いて、じっとこちらを見つめていたのだ。

 こんな風にまじまじと顔を見られたことなんて初めてだったし、自分の容姿に特別自信があるわけでもないから居心地が悪い。


「な、なんですか」

「……あぁ、すまない。そんなことを俺に言う奴がいるとは思わなかったから」

「え、じゃあ、その、なりますか?」


 あんたが本当に心の底からというようにしみじみとした声音で話すから、ついそう言ってしまった。最低なひとだと思う。遠慮のない物言いは嫌いだ。ただこの男は命の恩人に等しいし、好きなところがないわけではない。言い訳じみた言葉が頭の中で次々浮かんでは消えていく。どうやら自分は、初めてここに来た時よりも緊張しているみたいだった。


「友人に?俺と君が?」

「いちいち確認しないでください!はずかしい……。嫌ならいいです、というか、断りたいならいつもみたいに嫌な言葉で笑いとばせばいいじゃないですか」

「……実は、友人が少ない以外に、君と共通点があるんだ」

 

 男は改めて僕に視線を向けた。その目にあの子の話をしているときとは別の熱がこもっている。恋ではない。愛でもない。もしくはそのどちらでもあるのかもしれない。形容し難い色だ。だけどそんなことを気にする余裕は今の僕には無い。

 彼はいつもよりもほんの少しだけ、ふつうの人間みたいな、親しみの持てる微笑みを浮かべた。


「俺もロマンチストなんだ」


 絶対そんな風に格好つけて言うことじゃないでしょとか、別に僕はロマンチストじゃないんだけどとか、色々思い浮かんだのに結局言葉にする気にならなかった。

 言い返したところで碌な言葉は返ってこないだろうし、何でか知らないけれどそれで僕を一個人として見るようになるなら、許容しても良いだろう。それにそのほうが大人っぽいだろうから。


「それじゃあ俺たちが友人になったことを祝して、君の名前を教えてもらってもいいかい?」

 

 はじめ、言われた言葉の意味が理解できなかった。にこにことした男と見つめあったまま数秒経ち、その意味を咀嚼して飲み込んだときには、考えるより先に叫び声にも近しい声音で言葉が飛び出していた。


「はぁ!?あなた、名前も覚えていない相手を家に置いていたんですか!?」

「家に居るのは君と俺だけなんだから、なおさら名前なんて知らなくても問題ないじゃないか」

「バカなんですか……?」

「俺にそんなことを言うのは君くらいだろうね」


 はぁ、とわざとらしくため息をついてみせた。彼が美青年で聡明であるを知っている。だけどこの世界の知識なんて全くと言っていいほど無い僕にとって、それらは尊敬の念を抱くもの足りえない。だからもう全部観念することにした。


「伊織、イオです」

「俺はシリウス、よろしくイオ」

「あなたじゃないんですから知ってます」

「うん、でも君も俺の名前を呼んだことなかっただろう?てっきり知らないのかと思ったけど、単に俺が呼ばないから拗ねてただけだったみたいだね」

「違います」

 

 本当に、嫌なひとだ。今になって友人になったことを後悔しそうだった。というより、こんな人でも親しくなりたいと考えていた自分が信じられなかった。ここ最近は会話という会話をしていなかったから、少しおかしくなってたのかもしれない。

 それにこんな改めて自己紹介をするだなんて、なんだか気恥ずかしくて身の置き場がない。


「それじゃあイオ、友人になった記念に質問だ。君は一体どこから来たんだい?」

「え、と、そんなこと聞いてどうするんですか」

「君が言ったんだろう?名前も知らないような相手を家に置いてるのかって。だから少しは知っておこうと思ってね」

「……申し訳ないですけど、分かりません。むしろ僕がここがどこなのか聞きたいくらいです。普通に家に帰ろうとしたら、気づいたらここにいて、どうやっても、帰れそうに、なくて」

 

 彼が、シリウスが僕に興味を持っているだなんて、変な気分だ。それ以上に誰かに過去の話をしたこと自体も久々だったから、なんだか、なんか、そういう気分になってしまった。聞かれたこと以外も言いそうになって、ぐっと飲み込む。

 もしかしてそれが聞きたくて、あなたの知的好奇心を満たすために友人になろうとしているんじゃないでしょうね、なんておどけてみようとしたけれど、声が震えてしまいそうだったからやめた。代わりに無理矢理笑ってみせる。愛想笑いなんて得意じゃないし、したくもないけれど、他に表情をうまく取り繕う方法を知らなかった。


「そうか、それじゃあ二つ目。君は帰りたいと思うかい?」

 

 正直この問答の意味は分からないが、軽口を叩けるような精神状態ではない。ぐっと歯を食いしばって、それで、のろのろと頷いた。

 ふむふむと言った風に彼は顎に手を添え頷くと、気障な仕草で足を組み替える。


「それなら俺が元の場所とつながる道を見つけてあげよう」

「気休めなんて要りません。同情することが友情だと思っているなら今すぐに考えを改めてください」


 噛みつくような鋭い言葉にシリウスは眉を下げて笑った。困らせているのがまるでこちらであるかのような顔をしないでほしい。どう考えても立場が弱いのは僕のほうだ。

 何もかもがないこの世界で縋れるものは己だけだ。そんな自分を下に見られるだなんて、耐えられない。

 それがそんなにおかしなことだろうか。プライドが邪魔して生きていけなくなったらなら、それで死んでしまえばいいだろう。


「うーん、イオ、君は知らないかもしれないけれど」


 まるで迷子の子供に語り掛けるような音だった。反発したかったのに、どうしてかしゃくりあげてしまいそうだったから睨むだけに抑える。

 相変わらず困ったように微笑んだまま、男は慰めるように、慈悲深い神様みたいに語り掛けてきた。


「俺は天才なんだ」


 馬鹿にするでも反発心が湧くでもなく、その言葉がすとんと胸におちた。ほんとうに信じられないけれど、彼は同情でも慢心でもなく、心底当然のようにそう言ってるのだと理解できたから。それでもっと信じられないれど、それを分かってしまったからか、急に自分が彼に張り合おうとしていたことが馬鹿馬鹿しくなってしまった。

 つい笑みをこぼしてしまって、慌てて口元を手で覆って誤魔化す。


「その代わりじゃないけれど、手伝ってほしいことがあるんだ」

「天才なら、ひとりでなんでも出来るんじゃないですか?」

「ひとりで出来るは出来るけどね。効率の面で考えると、人手は多いに越したことはないだろう?」


 本当に人の気に障る言い方をするひとだな。呆れを通り越して尊敬すら抱きそうだ。もちろん冗談だが。だが一々気にしていてはきっとキリがない。これまではひと月に数度話せば良い方だったが、これからはきっと、そうはいかないだろうから。


「それで?手伝いって、何の手伝いなんですか」

「あぁ、それじゃあせっかくだし、ちょっと来てもらってもいいかな」


 シリウスが席を立ったので、慌てて僕もそれに続く。こちらを振り返ることもなく階段を昇って行った彼は、迷うそぶりもなく扉を開けた。屋上に出た僕を迎えたのは夜の空と、なにやら良くわからないけれど大きな望遠鏡のような機械。

 シリウスは僕の手を掴み、もう片方の手で満点の星空の中で一番輝く蒼い蒼い星を指さして、子供みたいに無邪気に笑った。あぁ、あんたが僕の星だったのか。


「あの星を撃ち落としたいんだ」

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