第31話  二人の約束



右腕が、ヒリヒリと焼けつくように痛い。

右耳だけが、ぼわんとしてまるで水中にいるような感覚で聞こえなかった。


看護師さんが見えた。

お医者さんも居る。

なぜか瑛子が、大泣きしている。

そして……

不思議なことに、青が真っ青な顔で立っている。


私は……どこに居るの?

何があったの?

身体中が鉛のように重い。

頭が酷く痛くて重い。

喉がひりついて、声が出せない。

私は、どうしちゃったの!?


医師に、目の前に指を1本立てられた。


「 高宮さん、この指が見えますか?」


瑠里は頷くように微かに頭を揺らした。


「 僕の指を、目で追いかけて下さい。出来る範囲でいいですからね?」


ゆっくりと目の前で右に動く指を目で追う。

次に、右から左に動く指を目で追う。

ちょっと目を動かしただけなのに、すごく瞼が重い。

すると、今度は看護師が口に被さっている何かを外して微笑む。


「 高宮さん、お口開けられますか?」


答える代わりにちょっとだけ口を開けた。


「 はい、じゃぁ、少しだけお口拭きますねー 」


看護師が温かく濡れたガーゼみたいな物で口唇を優しく拭いてくれる。

そして、また固いプラスチックみたいな物を被せられた。


ここまできて、瑠里はぼんやりした頭でようやく少し悟る。

私は、病院に居るんだ。

どうしてかは、わからないけれど、病気になったらしい。

それも、そんなに軽い病気でないのは、瑛子の泣き顔を見たらわかった。

彼女がこんな風に泣いているのを初めて見た。


そして……

なぜ、青がこんなところに居るのだろう?


そこまで考えようとした時、思考がストップするように、瑠里の瞼は閉じて、眠りに落ちた。


「 瑠里!!瑠里!!」


再び目を閉じてしまった娘の姿に、瑛子は取り乱す。


「 先生!!瑠里は!?瑠里はどうなったんですか!?」


医師は、慌てずに小さなペンライトを取り出すと、瑠里の瞼を軽く開けて照らした。

瑠里の眉間に僅かに皺が寄るのを確認すると、瑛子に向かって頷いてみせた。


「 お母さん、大丈夫ですよ。娘さんは眠っただけです。」


医師は、看護師に脳波計を持ってくるように指示をする。


「 これから脳波の検査をしますが、おそらくは大丈夫かと。娘さんの意識は戻りましたよ。ただ、眠ったり起きたりを繰り返しながら徐々にハッキリしていくと思います。」


瑛子が小さく何度も頷きながら、安堵の涙をハラハラと流すと……

ベッドの窓際に立っていた青が、崩れ落ちるようにぺしゃんと床に座り込んだ。

両手で拳を握り、祈るようにおでこに当てる。

誰に感謝すればいい!?

瑠里が……瑠里が……戻ってきた。

瑠里が、戻ってきてくれた……

青は、溢れる涙を堪えることが出来なかった。



医師の言ったとおり、その後の瑠里は、ふと目覚めては、突然眠りに落ちる、ということを数日繰り返し、徐々に回復していった。


少しずつ瑛子からの説明を受けながら、自分の身に何が起こったのかも知った。

瑠里の記憶は、大雨の中を走っていた時のことと、突然真っ白な光に包まれた瞬間が最後だった。

それ以外の事は、記憶に残っていなかった。


起きている時間が増えると、最後に見た青の姿が心を支配した。

数日間の昏睡状態から目覚めた時、青ざめた顔で立ち尽くしていた彼……

あれ以来、青はパタリと姿を現さなかった。


瑠里が意識を取り戻してから一週間した頃、すでに大部屋に移り少しずつ食事も摂れるようになった瑠里に、瑛子が不思議そうに尋ねた。


「 月城さん……なぜ顔を出さなくなったのかしらねぇ?」


「 きっと……忙しいんじゃないかな?陸上部の練習とか……」


瑠里は窓の外をぼんやり眺めながら、答える。

瑛子から、自分を助けてくれたのは、青だと聞かされた。

彼は、命の恩人だと。

意識を取り戻すまでの青の様子は、ただ事ではなかったと。

瑠里が意識を取り戻した瞬間、青は崩れるように泣いていたと。

瑛子から聞かされたそれらの話は……瑠里には実感の無い話だった。

そんな感情を表した彼を見たことが無い。

いつも無表情で、不機嫌な青。

それでも時々自分にだけ笑ってくれたり、からかうような顔を見せてくれるだけで嬉しかった。

その彼が泣き崩れる姿など……

まるで、知らない人の話を聞かされているような感覚でしかなかった。



「 ねぇ、瑠里……聞いてもいい?」


瑛子は、珍しく慎重に、少し迷いのある尋ね方をした。


「 なぁに?」


「 月城さんは、瑠里にとって特別な人なのよね? そして、彼にとっても瑠里は、特別なんでしょう? 」


“ 特別な人 ” という言葉に、瑠里の心は反応した。

自分が意識を失っている間、青が、どんな様子だったのかなんて、知るよしも無いが、瑠里の記憶の中には青の声が残っていた。

『 瑠里……ごめんな 』

あれは、確かに青の声だった。

目覚める前の、まだ真っ暗な闇の中で、その声が聞こえた。


瑠里の細い肩が小さく震えた。

涙が零れそうになるのを必死に堪えていた。

少しずつ、あらゆる感情が戻りつつある中でも、青への想いだけは何一つ揺るがないものだった。


瑛子は、ベッドに腰掛けるように座っていた瑠里を、黙って後ろからそっと抱きしめた。


「 答えなくていいわ。大丈夫、大丈夫、大丈夫……」


子供の頃から、何かあるといつも言ってくれた母の『 大丈夫 』に、とうとう瑠里の瞳から、涙が零れた。

瑠里は、ただただ青に逢いたかった。



それから一週間の後、瑠里は晴れて退院した。

火傷と鼓膜破裂以外は、特に後遺症もなく、感電による火傷は数本のみみず腫れの様なかさぶたになりつつあり、破れた鼓膜もあと10日程で完全に塞がるだろうと診断された。


この半月で、ずいぶんと体が細くなった瑠里だったが、鼓膜が完全に塞がるまでは、運動も禁止されていた。

大学はすでに冬休みに入っており、

陸上部復帰はもう暫く叶わないが、部長やコーチ、神崎達マネージャーに、退院の報告と挨拶に明日、1ヶ月振りに大学へ行くことにした。


その前日の日曜日の午後……

家のチャイムが鳴った。

二階の自分の部屋で、教科書を読み込んでいた瑠里に、下の瑛子から声が掛かる。


「 瑠里ーーー!!」


「 なにーー?」


瑠里は、部屋のドアから顔を覗かせて返事をした。


「 ちょっと、下りてきてーー!」


「 はーーい!!」


瑠里は、スリッパをパタパタいわせて階段を下りる。

下りきると左手に廊下から玄関が見える。


廊下に下りた瞬間に、瑠里の足はピタリと止まった。

体の動き全てが止まった。

息が、止まった。


開けられた玄関口に、月城 青が立っていて、瑛子が、瑠里の方を見て優しく微笑んでいる。


「 ……瑠里、貴女にお客様よ。」


瑠里は、声を失った。

瞬きもせずに大きく目を見開き、青を見つめた。


いつもの見慣れた上下のトレーニングウエアではなく、デニムにカーキ色のダウンを着て、こちらを真っ直ぐに見ている。


印象的な少しつり上がった切れ長の瑠里が大好きな目……

鼻筋の通った形の良い鼻、薄目の口唇。

正真正銘の青だ。


いつまでも動かないままの瑠里に、痺れを切らした瑛子が、こちらへやってきて、瑠里の背中を押した。


「 ほら!月城さんよ!」


押された勢いのまま、玄関までそろりと進んだ。


「 ……よぉ。」


青が、穏やかに微笑んだ。


「 ………な、なんで……」


聞きたいことは、沢山あるのに言葉が上手く出てこない。

青は……なぜ、私の家を知っているんだろう?

病院には来なかったのに、なぜ家なんだろう?

いや、そもそも、なぜ、訪ねて来たんだろう?

あ、違う!まずは、助けて貰った御礼を言わなくちゃ!


「 ……あ、あの……この度は、助けていただき、ありがとう……ございました。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした…… 」


瑠里は、そう言うと、ぎこちなくペコリと頭を下げた。

青は、少し辛そうな表情で首を横に振ると、


「 謝ったりしないでくれ……あれは、全部…俺のせいだ…」


瑠里は、無意識に首を振って否定する。

青は、口元をグッと結ぶと、顔を上げた。


「 瑠里、遅くなったが……迎えに来た。」


青が、瑠里の名前を呼んだ。

高宮でもなく、おまえでもなく「瑠里 」と。


「 神社へ、行かないか?」


神社……

迎えに来た……

瑠里は、クロスワードを解くように青の言葉を繋げる。


嘘!?……まさか……!?

記憶が戻ったの………?

あの時のことを思い出したの!?

瑠里の混乱を読んで、青が微笑む。


「 そうだよ、思い出したんだ。全てな。」


瑠里は思わず両手で口を覆った。

青が、かつての約束を果たす為に迎えに来てくれた……

これは、かつて何度も何度も繰り返し見た夢なのではないだろうか?

青が約束を果たし、迎えに来る……だが、朝目覚めるとそれが夢だったと知り、酷くがっかりする。


「 言ったろ?絶対思い出してやるって。」


少し照れくさそうに、青がそう言った。

瑠里は、思わず自分の頬を自分でつねった。

痛い!ちゃんと痛い!


「 夢なんかじゃねぇよ。」


瑠里の仕草に、青の顔が面白そうに崩れると、瑠里は口唇をグッと噛み締めた。

泣いてしまいそうだった。


「 瑠里、行って来たら?その……神社とやらに 」


二人のやり取りを見守っていた瑛子が、そう言った。

瑠里は思わず瑛子を振り返り、そしてまた青を見た。

そして意を決すると、


「 ちょっ、ちょっと、着替えて来ます!!」


そうお辞儀をすると、慌てて階段を駆け上がった。


部屋着をセーターとパンツに大急ぎで着替え、白いダウンを羽織ると、飛んで下りた。


スニーカーを履き、玄関に立つと、瑛子が声を掛けた。


「 瑠里、月城さん、1つお願いがあるんだけど、いい?」


「 なんでしょうか?」


青が答えた。


「 帰って来たら、あなた達の経緯いきさつを聞かせてくれない?」


瑛子の真剣な表情に、瑠里と青は一瞬顔を見合わせた。

青が、瑠里の問いかけに答えるように頷くと、瑠里は瑛子を見た。


「 うん、ちゃんと話すね。ちょっと複雑だけど……ちゃんと話す。」


「 ありがとう。気をつけて行ってらっしゃい。月城さん、瑠里をお願いしますね。」



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