第7話  異変



異変は、突然起きた。


あの日、小さな神社で、青が瑠里の前に姿を現してからもうすぐ三ヶ月が過ぎようとしていた。

こうして毎日、ただの一日も空けることなく瑠里の元へ通い詰めてからも二ヶ月半になる。

それは夏休みになっても何ら変わることなく続いた。


最近の青が姿を現すのは、必ずと言っていいほど陸上の練習中で、それは瑠里最後の大会に向けてのフォーム修正とタイムアップを最優先してのことだった。

仮に、練習休養日だったとしても、青は現れた。

そういう時は例の神社で他愛もないお喋りをして過ごしたり、時には琵琶湖まで遠出して過ごした。

青の滞在時間も、徐々に長くなり、今では三時間位なら消えずに過ごせるようになっていて、瑠里を喜ばせた。


その青が、ある日突然、現れなかったのだ。


「なんで!?どうして!?何があったの?」


瑠里は、部活練習を終え、とうとう現れなかった青の姿をグラウンドの隅々まで隈なく探しながら、誰にともなく問いかけた。

急用?他に行くとこがあったとか?いやいや、青が来るのはここしかない筈だ。

青が見えるのは私だけだし、青の今の状態を知っているのも世界中で私だけなのだから!

そんなことを取り留めなく考えながら家路をトボトボ帰っていると、急に嫌な予感が走った。

もしや、青の身体に何かあったんではないだろうか!?

今も尚どこかの病院(青はいまだに自分がどこの病院にいるのかわからないままだった)に、眠ったままだという青の身体に何か異変があったのではないか?

だから青は来れなかった……?

ひょっとして、突然青の意識が戻ったとか?

だが、そうならば、それは素晴らしいことだ。

青が本来の青自身に戻れることが、何よりもハッピーエンドなのだから。

そうなれば、今度は本物の青に会える!

煙のように現れて、煙のように消えてしまう今のかりそめの青じゃなく、最初に出来なかった握手だって出来るし、一緒に息弾ませて走ることだって出来るのだ。

でも……じゃぁ、どうやって会うのだ?


瑠里は家に帰り着き、食事当番の夕食準備に取り掛かるべくエプロンを頭から被りながらも思いは千々に乱れていた。

冷蔵庫を開けて、瑛子が適当に、大して脈略もなく買い込んでおいてくれた食材と睨めっこしながらも、どこか上の空だった。


青に会う……そうはいっても、あまりにも情報がない。

月城 青という名前と大学名しか知らない。個人情報管理にうるさいここ最近の環境では、自分が突然青の大学へ行き、彼の細かい情報や入院先を聞き出すのは、不可能な気がする。


瑠里はミックスベジタブルとベーコンを炒めて、それを包むべく玉子をボールに割り入れ勢いよくかき混ぜながらも、考えた。

何か良い方法はあるだろうか?

茹で上がったブロッコリーを切り分けて二つの真っ白なお皿に盛り、オムレツの仕上げにかかる。

ここだけは一点集中とばかりに、フライパンの中の玉子に神経を注いでひっくり返す。

成功だ。オムレツが上手く包めた時のちょっとした成功感が瑠里は好きだった。


「さすがねぇ!手際も出来も完璧じゃないの!」


キッチンの戸口でいつの間にか帰宅していた瑛子が瑠里の料理姿を見守りながら、感心したように唸った。


「 え?あ、いつ帰ったの?全然気付かなかった……おかえり 」


瑠里がびっくりして振り返ると、瑛子は瑠里に投げキッスをしながら笑った。


「 次に生まれて来る時は、男になって瑠里みたいなお嫁さんもらうわ!」


「 何言ってんだか!冷める前に早く着替えてきて!」


瑠里はお皿にオムレツを慎重に移しながら、苦笑いをした。


胸の前で手を合わせ、「いただきますを」唱えてフワフワのオムレツを口に運んだ二人は、お互いの顔を見つめたまま、同時に固まった。

玉子の半熟加減は完璧に近い出来だったのに、……味が無かった。


「うわぁっ!!ご、ごめん!」


瑠里は大慌てで冷蔵庫からケチャップを掴んで戻る。


「珍しいミスだわね?」


瑛子は受け取ったケチャップで定番のハートをオムレツに描きながら愉快そうに笑う。


「 ありえないよ……味付け忘れるって!何やってんだか!」


瑠里は青のことで頭がいっぱいで、料理中殆ど上の空だったことを密かに反省した。


「 何か、悩み事でもあるんじゃないの?」


にこやかにそう尋ねた瑛子はさすが、鋭かった。

瑠里は表情の変化を読み取られないように、ケチャップで自分のオムレツに熱心に絵を描いてごまかした。


「 悩みねぇ……うん、あるとしたらタイムが伸び悩んでることかなぁ……と!できた!」


わざと満足気に頷きながら、ケチャップを置く。


「タイムって、まだ諦めてないの?本気で優勝するつもりでいるの?」


「 まだ、って!あたりまえでしょ?一度口に出したんだから、駄目もとでもやってみたいの!それに、今フォームも調整してるんだから!本気よ、本気!」


「へぇ……フォーム調整って、瑠里の高校の陸上部にそんなに専門的な監督さんかコーチなんかいたっけ?」


「 え?あ、いや、今ね、大学で陸上を本格的にやってるOBの先輩が来てくれてて、教えて貰ったの。その先輩のフォームが綺麗でさぁ!」


瑠里は、若干わざとらしくなりながらも、ニッコリ笑って見せた。


「 ふーん、頑張っちゃってるのね。その有言実行的な心意気は大輔譲りだわ、彼も一度口に出したら引くことが出来ない人だったから 」


瑛子の思いがけない父の話に、瑠里は目を丸くした。

なぜなら、これまで瑛子が父のかつての思い出話をしたことは殆ど無かったからだった。

瑠里の無言の問いかけに、瑛子はゆっくり頷きながら微笑む。


「 そろそろ、解禁にしない?お父さんの思い出話。もう、大丈夫よね?」


大丈夫……瑠里は胸の中でそっと唱えてみる。


「 ほら、大輔はにぎやか好きで淋しがり屋だったでしょ?だから本当は思い出してペチャクチャ喋ってあげた方が喜ぶんじゃないかと思ってたの 」


確かに、長い間不自然なほど父の話を避けてきたと思う。

そしてその理由の殆どが自分の為で、本当は瑛子はずっとこんな風に二人で話したかったのかもしれない。


「 そうだよ……ね。私の記憶中の父さんはいつも豪快に笑ってるイメージだから、きっとそうなんだよね 」


瑠里は、そこで思い切る様に頷いた。


「 母さん、私なら、大丈夫。これからは、どんどん話して!私が知らない父さんも知りたいし 」


「オッケー。まぁ、瑠里が幻滅しない程度に色々教えてあげるわ。あんまり暴露し過ぎて大輔が化けて出てきたら困るしね」


そう言いながら笑う瑛子が、心なしかいつもより嬉しそうに見えて……瑠里はやっぱりそうだったんだと、内心頷いていた。

瑛子を喜ばせたりちょっとだけ幸せにしてあげる方法は、きっとこういうことなのかもしれないとも、思った。


思いがけない父の思い出話で盛り上がった夕食だったが、部屋に引き揚げた瑠里の心はすぐさま青のことで一杯になる。

たった一日会えなかったことでこんなに不安になるなんて……予想外だ。

明日は会えるだろうか?

明日も会えなかったらどうしよう?青に何か変化があったのだろうか?でも、どうしたらそれを知ることができるのだろう?

携帯だって、役に立たない。

連絡の仕様が無い。

会いに行きたくてもその術がない。

そこまで考えて、全てが悲観的すぎて、瑠里はポロポロ泣きだした。

もう会えなかったら、どうしよう!?

そんなの嫌だ、絶対に嫌だ!有り得ない!

もし、このまま会えなくなってしまったら……瑠里はベッドの上で座り込みながら、押し潰されそうな不安の渦から身を守る様にクッションを全身で抱きしめた。

明日こそは……もう一度だけでもいいから……どうか、青に会えますように!

今の瑠里に出来ることは、もう祈ることだけだった。

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