第18話 青の孤独
「 月城君!ちょっといい?」
ある日、いつものように個人練習の為にクラブハウスのロッカーを訪れた青を、神崎が呼び止めた。
「 ……なんだ?」
ハウスの庶務室から出てきた神崎は、にっこり笑う。
「 記録会、1万メートルにエントリーでよかったかしら?」
「 あぁ。」
青は、玄関ホールでしゃがんで靴紐を結びながら答えた。
「 トレーニングもランも順調そうだから、そろそろ合同練習にも参加しない?その方が、実践感覚取り戻せるでしょ?」
すぐには答えない青に、神崎は続ける。
「 鈴木コーチもそうするべきだって仰ってたわ。記録会の結果と、実践感覚次第では、駅伝復活も考えたいって。」
“ 駅伝 ” という言葉に反応した青は立ち上がると頷いた。
「 わかった。来週から参加する。」
「 それから……高宮さんへのクレームは、取り下げても構わないのよね?」
「……あぁ。」
少しの間を空けて、答えた。
「 彼女のコーチングしてるんだって?」
「 は?コーチングなんてしてねえよ。」
神崎は、あら?と首を傾げた。
「 新人マネージャーから聞いたわよ?トレーニング教えたり、一緒に走ったりしてるって。」
「 知らねぇよ。あいつが勝手に自主練してるだけだろ 」
青はそう言い捨ててハウスを出ようと歩き始めた。
「 でも、思い出せたんでしょ?高宮さんのこと。」
玄関のガラスのドアに手を掛けたところで青は止まった。
徐に振り返ると眉を潜める。
「……何の話だ?」
「 事故の前に、高宮さんと知り合ってコーチングしてあげたことがあったんでしょ?」
神崎の言葉を受けて、青の目が訝しげに細くなる。
「 だから、何の話をしてる?誰が誰をコーチングしたって?」
神崎は、予想外の青の反応に、少しばかり戸惑った。
「 月城君が、高宮さんを教えたって……高宮さん本人から聞いたけど。ただ、どうも忘れてしまっているらしいって…。違うの?」
忘れてしまっている?……青の顔はいっそう険しくなり、口元をぐっと引き締めた。
一年半前の大事故の後の長い眠りから覚めてからこっち、ずっと頭の中にモヤがかかっていた。
医者からは、事故の後遺症として、若干の記憶障害はあるかもしれないとは聞かされていたのだが、基本、人と絡むことを避けてきた環境だったから、失くした記憶があっても構わないと思っていた。
走る感覚は、覚えていたから、それだけあればいいとさえ思っていた。
ただ……高宮 瑠里とかいう娘とひょんなことから関わってから、なぜか頻繁に頭痛が起こるようになった。
特に、彼女と何らかの時間を過ごした後で発生した。
頭の中のモヤも不安定で、妙な苛立ちと不快感を覚えた。
それは説明し難い不思議な感覚ではあったが……頭の中に、何かを思い出そうとしているもうひとつの頭が存在するような感覚だった。
「 月城君……?大丈夫?」
神崎の心配そうな声で我に返った。
「……あぁ。」
青は、睨むような眼差しで、神崎を見た。
「俺は、高宮のことなど知らないし、会ったこともない。二度とくだらない質問はしないでくれ!」
青は今度こそ、クラブハウスを後にした。
サブグラウンドには、相変わらずせっせと自主練をする瑠里がいた。
昨日は走り込みをしていたから、今日は軽めのトレーニングのはずだ。
「 こんにちは!」
階段を降りてグラウンドに入った青に、元気な声が降ってきた。
最近では、彼女の挨拶に小さく頷くようにしていたのだが……
今日は、無視を決め込む。
表情も、意味もなく険しくなる。
さっき聞いた神崎の言葉が蘇る。
(事故の前に、高宮さんと知り合ってコーチングしてあげたんでしょ?)
いやいやいや!
俺が誰かを教えるなんて、あり得ない!
ましてや、高校の後輩でもないどこの誰ともわからない奴に!
瑠里の挨拶を無視して、まるで彼女の存在自体が無いものとして、青はジャージを脱ぎ、グラウンドへ向かいランを始めた。
走っていても、彼女の視線は痛いほど感じた。
そもそも、なぜ、これほどまでに彼女が自分に執着するのかが、疑問だった。
記憶を辿れば、トレーニングルームで初めて自分の目の前に立った瑠里は、『 青!』と呼んだ。
いきなり自分の下の名前を連呼され、頭のおかしな奴に絡まれたと思ったのだが……
よくよく思い返せば、頭がおかしいというより、元々自分のことを知っていたからの行動だったのか?
医者の話のように、自分の記憶が抜け落ちているのか?
自分は、彼女を知っているのか?
そこまで考えて、またいつもの頭痛に襲われる。
両こめかみを圧迫されるような痛みに思わず走りが乱れた。
原因不明の痛みと、それが自分の走りを邪魔したことに、強い怒りと苛立ちが生まれる。
飲酒運転の暴走車にはね飛ばされるという大事故に見舞われたせいで、何よりも大切な走ることを奪われた。
怪我自体は二度と走れない程のものではなかったらしかったが、頭蓋骨を骨折する程、頭を強く地面に打ちつけたという。
そのせいなのか、半年以上も目覚めなかった。
目覚めてからも、そこには地獄の時間が待っていた。
動かせるのは、目だけだった。
舌も呂律が回らず、まともに喋れない。
半年以上も寝たきりだったせいで、全ての筋力を失っていた為に、自力で腕すら持ち上げられなかった。
おそらくは、生まれたての赤ん坊の方が出来ることは多かっただろう。
ハードなリハビリを受けても尚、歩行器を使って歩けるようになるまで、1ヶ月かかった。
当時は、視力にも影響が出ていて、視界全体にグレーのシャドウのようなものが掛かっていて、何もかもが薄暗い世界だった。
青には、身寄りの者が居なかった。
四歳の時に母親が病気で他界し、父親も小学校二年の時に病死した。
結果、父方の祖父に引き取られたが、人嫌いで父親とも殆ど付き合いは無いような人物で、青自身も会ったこともない身内だった。
引き取られたといっても、実際に一緒に住むのではなく、寄宿制の私学の学校に入れられた。
顔も知らない祖父は、資産家らしく、お金にだけは不自由ない生活が約束されたことは幸運だったが、面と向かって会うことは現在まで無かったのだ。
祖父専属の弁護士が、生活費や学費を管理していて、青の後見人のような役割だったが、年に数回求められた報告をするために顔を合わすくらいで、あくまでも事務的な関係性だった。
そういった生い立ちのせいで、事故にあったときも、適切な手続きを滞りなく進めてくれはしたが、おそらくは面会に通うようなこともなかったはずだった。
もちろん、長い眠りの間のことは預かり知らぬことではあったが、意識を取り戻した後も、退院までは現れることはなかったから、そうなのだろう。
親しい友人も持たず作らず、誰かと個人的に関わることを避けて生きてきた。
だから、あの瑠里という娘と個人的に関わるはずがなかった。
偶然知り合って、その上、陸上を教えた?
そんな社交性も人との距離感も持ち合わせたことがない。
やはり、どんなに考えてもあり得ないことは、思い出すとか出せないとかの次元の話ではない。
青は、走りながらそう確信すると、ランを終了した。
「 お疲れ様でした!」
青が、ランを終えクールダウンの為に階段の所まで戻ると、トレーニングを終えた瑠里がちょこんと座って満面の笑みで声を掛けてきた。
青は、無視を続ける。
汗を拭き、水分を流し込んでいると、また声が掛かる。
「 今日は、軽めですね?」
青は、それにも答えずに、ジャージを履くとタオルを首に掛け、階段を上り始めた。
「 ど、どうしましたか?どこか……調子悪いんですか?」
そのまま立ち去ろうとする自分の背中に慌てた声が飛んできた。
「 月城さん!!」
青は、少し迷った後、足を止め振り返った。
「 俺の調子の良し悪しは、おまえには何の関係もない。」
困惑を浮かべる瑠里に、続ける。
「 それから……やはり、俺はおまえになんて会ったことは絶対にない。ここから先はもう、俺に関わるな。もう話しかけるな。わかったな?」
またもや突然の突き放し宣言に、瑠里は、傷ついた顔で大きく目を見開いた。
「 何か……何か気に障ることをしましたか?したなら…謝ります!」
頼むから…そんな顔をしないでくれ……
青は言葉にならない苛立ちに目を閉じると、呆然と立ち尽くす瑠里に背を向けた。
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