第17話 記憶の片鱗
初めてのビルドアップ練習の次の日、瑠里は久しぶりに夏海と一緒に講義を受けていた。
「 ねぇ、自主練いつまで続けるの?記録会まで?」
夏海が講義の中休憩にバインダーを閉じながら瑠里を見た。
瑠里もバインダーをパタンと閉じ、小首を傾げた。
「 決めてないかなぁ。とりあえず、神崎さんにはそれなりの結果を夏までに出すようにって言われたしねー」
「 マネージャーとしてはさぁ、付き合ってあげたいんだけどなぁ!タイムを取るとかさ。」
「 そんなのいいよ、自主練だから大丈夫。夏海ちゃんだって、マネージャー業覚えるの大変でしょ?」
夏海は、頬杖をつきながら口を尖らせた。
「 想像以上に覚えることが多くて、頭パンクしそう!マネージャー業舐めてたわぁー」
瑠里は頷きながら、励ますように笑う。
「 大変だと思う。私達は、練習と後片付けだけでいいけど、マネージャーは選手の記録も体調も把握してコーチとの橋渡しもだから……頭下がるよ 」
「 ありがとう!そう言って貰えると頑張れるー!」
夏海がそう言って机に突っ伏すと、瑠里の前に意外な人物が立った。
「 おい。」
瑠里は突然目の前に現れた青に、飛び上がるように立ち上がった。
びっくりし過ぎたせいで勢い余って机に腰を打ち付けた。
「 痛っ……あ、はい!こんにちは!どう…しましたか?」
「 明日、練習終わりにサブに来い。」
「……え?」
突然の出現と、突然の呼び出し言葉に瑠里は戸惑い、目をパチパチとしばたいた。
横で夏海が驚いた様子で二人を交互に見詰めている。
「 来るのか、来ないのか、どっちだ?」
青の口調に苛立ちが混じる。
「 行きます!はい!行きます!!」
瑠里は即答した。
青はその返事だけ聞くと、瑠里の前を横切り、後方の席まで階段で上がり、隅の方に座った。
えぇ!?えぇ!?
同じ講義受けていたの!?
瑠里は後方でテキストを開いている青の姿を穴があく程見た。
「……あれが、月城 青ね?」
夏海も後方を見ながら瑠里に尋ねた。
「 てか!なんで彼が瑠里ちゃんに話しかけてきてんの?」
「 てか!あれって呼び出しよねぇ?彼に呼び出されるなんて、瑠里ちゃん、何やらかしたの!?」
夏海は、驚きのあまり矢継ぎ早に問い掛けてきた。
瑠里は、ストンと腰を下ろすと、困ったように夏海に笑いかける。
「 何もやらかしたりしてないよ!」
「……彼、瑠里ちゃんのこと思い出したの?」
そうだった……
夏海には、神崎と同じように事故のせいで青に忘れられていると話していたんだった。
今の、二人の関係性を、なんと説明しようか?
瑠里が迷いながら答えあぐねていると、夏海が顔を近づけてきた。
「何か……弱み握られてるとか……?」
「そ、それだけは無いよ!!」
瑠里は、慌てて否定する。
青の印象がすっかり悪者になっていることに驚いた。
たしかに、あの無愛想過ぎる態度と言葉遣いでは、そう思われても仕方ないのだろうけど。
「 あのね、本当に偶然なんだけど……月城さんと私の自主練が時間とか場所が一緒になってね…あまり邪魔しないように気をつけてトレーニングしてたんだけど……」
瑠里は、わざと思い出すように斜め上に視線を向けた。
「 きっと私のトレーニングがあまりにも不様だったのね……ある日、月城さんが、正しいトレーニングを教えてくれたの。」
「……それで?瑠里ちゃんのこと思い出したの?でも仲良くなった風には見えなかったけど。」
夏海は疑わしさを隠さずに瑠里の顔を覗き込んだ。
「 まさか!仲良くなんて、なってないよ。それに思い出してもないと思うし、きっと…多分……」
「 多分、何よ?」
瑠里は少し淋しげに微笑みながら、
「 推薦組の練習に参加出来ない私に、同情してくれたのかもね。」
そう呟いた。
次の日、部の練習に参加し、解散になると瑠里は上のTシャツだけを着替え、はやる気持ちを落ち着かせながら、約束のサブグラウンドに大急ぎで向かった。
同情であれ何であれ、初めて青から呼ばれたのだ。
嬉しくないはずがない。
スキップしたいくらいだ。
サブグラウンドへ降りる階段の上に立つと、すでに青がグラウンドを走っていた。
瑠里は小走りに駆け降りる。
タオルとボトルの入った小さな手提げクーラーバックを置き、ジャージを脱ぎショートパンツになる。
簡単なストレッチをしながら、青の走るグラウンドへ走り出す。
なぜか、青が走り終えるのを待つのではなく、自分から青の走りを追いかけた。
1年前、あの暑い高校のグラウンドで、飽きることなく並走した光景が胸の中、頭の中いっぱいに甦る。
知ってか知らずか、瑠里がコースに入ると徐々に青のスピードが落ち、どんどんゆっくりのペースになった。
あっという間に瑠里のすぐ2メートル先に青の背中があった。
青は何も言わない。振り返りもしない。
只、ゆっくりとした同じリズムで前を走っている。
瑠里は、ハッとして腕時計のストップウォッチを押した。
きっと、青は前を走ることで2周4分のペースでのリズムを教えてくれているのだ。
規則正しい腕降りと、正確なストライドでリズムを刻んで走る青の背中を追いかけるように、同じようなリズムで走る。
シューズの裏側が綺麗に見える美しい蹴り上げ。
コーナーに差し掛かっても殆ど傾くことの無い軸。
1年前は、少し透き通って見えた青の背中が、今はハッキリと見えることに、瑠里の感動はどんどん高まっていく。
いつも突然消えるように居なくなってしまう彼と、こんな風にずっと一緒に走れる日が来ることを、どれだけ願ったことだろう。
この1年間の日々を思い出しながら、青の背中を追いかけて4週目に入った頃には、瑠里の目から涙がポロポロと零れ出した。
もう限界だった。
溜まりに溜まったあらゆる感情が涙と共に溢れ出した。
淋しくて淋しくて、逢いたくて逢いたくて、誰にも打ち明けられずに1人頑張ってきた。
辛かった。キツかった。
でも辛いともキツいとも言わずに青と再会することだけを願ってきた。
泣きながら走ると、当然のように呼吸が乱れる。
呼吸が乱れると、当然走るリズムが狂う。
すぐ前を走る青にも、瑠里の乱れは音として伝わった。
チラッと肩越しに振り返った青は、涙を拭いながら走っている瑠里の姿に思わずギョっとした。
「 おい!ゆっくり止まるぞ!」
青は一気にスピードダウンして、急には止まらないように瑠里を導いた。
歩くスピードまで落ちると、青は止まって振り向いた。
「 なんで泣いてるんだ!?どこか痛めたのか?」
えっえっと小さくしゃくり上げながら泣いている瑠里に尋ねた。
瑠里は、両手で顔を覆い下を向く。
「……ご、ごめんなさい……大丈夫です……」
そして、両手で涙をゴシゴシと拭くと大きく息を吸って吐いた。
「……1分、1分だけ、インターバル下さい!そしたら、また走りますから…」
突然の瑠里の涙に困惑した青は、眉を潜め、首を振った。
「……いや、今日は終わりだ。戻るぞ。」
3日前のように、青が座る横に三人分ほどの間を空けて、瑠里も座った。
おそらく、瑠里が来るまでにかなり走り込んでいたのだろう。
青の汗の量は凄く、突然黒のランニングシャツを脱ぎ、汗を拭き始めた。
すぐ横の青の裸に、瑠里は思わず真っ赤になって顔を逸らした。
青がTシャツを着る気配を感じ取ると、小さなクーラーバックから水のボトルを取り出し、ぐっと腕を伸ばして青の横に置いた。
「 どうぞ!……お礼です!」
「 何もしてない。」
青は前を向いてタオルで顔を拭いながら答えた。
「 いえ!2周で4分のペースを走って教えて貰いました!なので、お礼です。」
一瞬の間を空けて、青は瑠里が置いた水を手に取った。
「 ペースは覚えたのか?腕振り、ストライドの感覚もか?」
青がペットボトルを受け取ってくれたことに、瑠里の顔は笑顔で崩れた。
「 はい!バッチリです!」
青はそれには答えず、ボトルの蓋を開け水を流し込んだ。
瑠里は、思わず続けた。
「 それに、あらためてお礼を言わせて下さい。いつぞやは、助けて頂いてありがとうございました!」
「 は?」
青が視線だけこちらへ投げた。
「 何の話だ?……前にも同じこと言われた気がするが、俺はおまえなんて助けた覚えはない。」
「本当に、覚えてないんですか?北別館のトレーニングルームでの事ですよ?」
「 ……知らん。」
瑠里は粘った。
「 私が、バーベルの下敷きになっていた時、バーベルを戻して助けてくれました!」
青はボトルの口で顎をコツコツしながら、思い出そうとしているみたいだった。
「 あの時は、本当に苦しくて死にそうだったので、助かりました。」
青は、何かを思い出したのか、眉を軽く持ち上げながらこちらを向いた。
「 ……あのゴキブリがひっくり返ったみたいなの、おまえだったのか?」
「 ゴ、ゴキブリ…?」
「あぁ、手足をジタバタしてた。殺虫剤かけられた時のゴキブリみたいだった。」
瑠里は、あの時を思い出しながら、ゴキブリがひっくり返った様子と比べて想像した。
無意識に、両手両足を持ち上げて、ジタバタの様子を再現していた。
「 ぶはっ!!」
青が突然、口にしていた水を吐きだした。
そして、信じられないことに、横で背中を丸め、笑い出した。
瑠里は手足を空中で止めたまま、目を丸くして青を見た。
青が……笑っている!
いつぞやの冷たい笑いではなく、私の知ってる青の大笑いだ……
「 おい!その変なポーズやめてくれ!」
青は笑いを収めきれずに苦しそうにそう言った。
瑠里は、懐かしい青の笑い上戸に、またもや感動しながらニッコリ笑った。
「 はい!」
「走りながら、突然泣き出すわ、ゴキブリの真似は始めるわ……まったく……」
笑いが収まると、ひたすら嬉しそうにニコニコしている瑠里を、青は呆れるように見た。
「えーと、私、高校の時のアダ名が、不思議ちゃんで……」
瑠里がかつてのアダ名を告げようとした時、またもや不思議な現象が起こった。
「 ……極楽とんぼだろ?」
「えぇ!?……うわっ…なんで!」
まさかの正解に、瑠里は飛び上がったが……
「……俺は……今…何を言ったんだ?」
自分の無意識に発したひと言に、青は思わず片手で口元を覆った。
いきなり険しい顔になると、青は困惑と猜疑心のような目で瑠里を見た。
「 おまえ……何者だ?」
青の一言で、瑠里の顔からも笑が消えた。
やはり、青は無意識のうちに眠っていた間の記憶を取り戻しているのだろうか?
「 私は……陸上部一年の…高宮…瑠里です…」
思わず自分の名前を名乗ってしまった瑠里の返事に、青は苛ただし気にため息をついた。
「 俺は、おまえなんて知らない。でも…なんでおまえの高校の時のアダ名なんか……」
青はそう呟きながらうつ向くと、険しい表情のまま目をキツく閉じた。
「……
右手でこめかみ辺りを辛そうに押さえ始めた青に、瑠里は慌てた。
「 月城さん!だ、大丈夫ですか!?どこか痛いんですか?」
顔色も悪そうに見える。
ちょっとの間、耐えるように目を閉じていた青は、スッと立ち上がり
「 帰るわ。」
そう言い残して階段を上がって行った。
瑠里も思わず立ち上がったが、追いかけようにも、自分には何も出来ないことを思い知り、足が動かなかった。
今、青を捕まえて、かつての不思議な現象と二人の関係性を説明したとしても、彼が受け入れるはずが無いことは、なんとなくわかる。
彼は覚えていないのだから。
混乱させ、困惑させ、苛立たせ、再び「近づくな」と、言われることの方が、瑠里は怖かった。
せっかく、少しずつ距離を詰め、なんなら一緒に走れるまでになったのだから……。
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