第16話 コーチング
青に指摘されたトレーニングの過ちや、その他のトレーニングの本来の意味をあらためて調べた瑠里は、もう一度、いちからやり直すことにした。
四肢歩行は、体の軸を中央に保つ為と、ハムストリング強化のトレーニング。
バーピージャンプは下肢から上体への連動をスムーズにする為とふくらはぎのトレーニング。
腕立ても背筋も腹筋も体幹を鍛えるトレーニング。
全てやり方を間違えれば、体のバランスを崩し、故障の原因になりかねないのだ。
陸上の為でなく、進路をアスレチックトレーナーや、リハビリトレーナー方面に進むのなら、必須知識でもある。
それらを自覚してからの瑠里の自主練は、再び変化した。
量ではなく質を重要視して、1つ1つのトレーニングが各部位にちゃんと効いているかどうかを確かめながらの方法になった。
正しい方法でやると、悲鳴を上げる箇所が明らかに変わった。
適当にこなしていたことが証明されたようなものだった。
7月に、部内で記録会があり、瑠里は五千メートルにエントリーすることになっている。
神崎から、トレーニングメニューを渡された時に言われた言葉……
それなりの結果を出すこと。
自主練とトレーニングのお陰で、合同ランで遅れることは無くなった。
坂道ランも、最初の頃から比べるとキツさがかなり軽減された……ように思う。
だが、ようやく落ちこぼれから1歩推薦組に近づいたというだけのことだ。
「おまえ、記録会出るのか?」
その声は、またも突然後ろから投げられ、瑠里は少し飛び上がった。
でも、見なくたってわかる。青だ。
一通りのメニューを終えて、グラウンドに降りる階段の隅に腰掛けていた瑠里は、慌てて立ち上がると振り返った。
青は、その階段の四段上から瑠里を見下ろしていた。
「……はい。五千メートルにエントリーしてます。」
「走り込みしてんのか?」
ぶっきらぼうな声が返ってきた。
「合同ランには、参加してます。」
「あんなもの、走り込みとは言わない。」
そんなこと言われても……
瑠里は、不服そうに口をすぼめた。
推薦組は、上級生の練習にも参加しているが、一般組にそのチャンスは与えられない。
「おまえのタイムは?」
「えーと…自己ベストなら……」
瑠里は、高校最後の大会の記録を思い出す。
電光掲示板の一番上に光っていた数字がまざまざと甦る。
「……17分43秒…です。」
そのタイムを口にした途端、瑠里は泣きそうになった。
本当なら、嬉々として伝えるはずだったタイムだ。
青のおかげで優勝出来たよ!と。
まさか、こんな感じで伝えることになるなんて……
瑠里はジワジワと込み上げてくる感情を口唇を噛むことで抑え込んだ。
「普通だな。いや、遅い位か。」
わざわざ言われなくても知ってるし!
瑠里は噛んだ口唇の中で呟く。
それでも私にとっては輝かしい記録なの!
あの頃の青と二人で頑張った記録なの!
「……なんで泣きそうな顔してんだ?」
青の無表情な顔が少しだけ不思議そうに傾いた。
「泣くくらい悔しいなら、やることやるしかないだろうが?」
いえいえ、そういう意味ではないんだけど……。
あれ?でも、なんか、ひょっとして、私は慰められてるの?
青に?……今の青に?
今度はキョトンとした顔で首を傾げた瑠里に、青は呆れたようにため息をついた。
「 明日から、2日置きにこのグラウンドを走れ。ジョグで20分。その後ビルドアップ。ここはサブだから1周200メートルを2周ごとに30秒縮めて走れ。最初の2周を4分でスタートしろ。トータル60分走だ。」
「え、え、え、えぇ!?ちょ、ちょっと待ってください!」
瑠里は、メモ換わりにその場の砂地に慌ててしゃがみこむと、指で青の言った事を書き取った。
頭に叩き込みながら、何度も読み返す。
3回唱えるように読み返した後、振り返ると青が背を向け階段を上って行く姿が見えた。
瑠里は、何かを思いついたように青の後を追いかけて階段を駆け上がった。
「 月城さん!!」
すぐ後ろまで追いついて声を掛ける。
「……なんだ?」
青は足を止め、振り返らずに肩越しに答えた。
瑠里は、一呼吸入れてから、思いきって
「 ひとつだけ、確認したいことがあります!」
青は、少し躊躇した後、ゆっくり振り返った。
「だから、なんだ?」
相変わらずの無表情ではあったが、以前の冷ややかな蔑むような表情は消えていた。
「あの、神崎さんから伝えられていた…えぇと…その…」
瑠里は言葉のチョイスに迷った。
なんと言えばいいだろう?
近づかせるなクレーム?変かな?
だが、そんな瑠里の迷いを青はあっさり切り捨てた。
「 何も変わってねぇよ。俺は誰とも関わりたくない。」
「でも!!」
瑠里は言い返した。
「 今日で、三回目です!月城さんから、私に声を掛けてくれたのは。何故ですか?神崎さんからは…その…せ、接近禁止令みたいなクレーム言われてたのに……何故ですか?」
瑠里の問いかけに、少し困惑するように青は眉を寄せた。
「トレーニングも、正しい方法を教えてくれました。今日は、走り込みの方法も教えてくれました。……何故ですか!?」
青は、じっと瑠里に視線を止めた。
「 おまえが、真剣に走ろうとしていたからだ。」
そして、淡々と続ける。
「 俺は……推薦組とか一般組とかの区別が嫌いなんだよ。走りたいと思っている人間には走りたいだけ走らせる、それだけでいい。」
青らしい意見だった。
こと、走ることに関しては、自分が好きになった青も、今の青も、ブレは無い。
「 なんか……ありがとうございます!」
「 は?何言ってんだ?だからといって、俺は誰とも関わるつもりはない。」
瑠里は、それでも青が一般組の自分を気に掛けてくれたことが、心の底から嬉しかった。
「 私、負けないように頑張りますから!月城さんに遅い!って言われないように走りますから!」
瑠里が満面の笑みで笑いかけると、青はプイと前を向いた。
「 俺には関係ない、好きにしろ。」
「 はい!好きに走ります!」
青に言われた通りに、次の日から瑠里の走り込みは始まった。
上級生や推薦組がタイムを計りながら走り込んでいるのを見ていたのでビルドアップ練習は知っていた。
デジタル表示の腕時計を見ながら、ゆっくりとしたジョグを終えるとストップウォッチ機能に変えて、ランを開始する。
2周を4分……ゆっくりとした一定の腕振りとストライドのリズムが難しい。
1年前、青がつきっきりで教えてくれたのは、あくまでもフォームの改善だった。
右に傾いていた軸を中心に直す事と腕の振り方、脚の蹴り上げ方。
そして、五千メートルの走り方の配分。
青が傍にいられる時間に限界があったから、それらを徹底的に繰り返すことで精一杯だった。
高校のクラブとはいえ、一応陸上部に在籍していたというのに、いかに自分が無知だったのかを、瑠里はこの2ヶ月で思い知った。
初めてのビルドアップ練習は、散々に終わった。
キチンとしたタイムを刻めなかったし、フォームもなんだかバラバラな気がした。
酷くガッカリ気分で汗を腕で拭いながらグラウンドを外れると、いつも瑠里が休憩する階段の所に青がどっかりと座っていた。
肩に陸上部のジャージを引っ掛け、首からタオルを掛け、こちらをジッと見ている。
また青がいた!
瑠里の背筋がしゃんと伸びる。
ひょっとして……私の走りを見に来てくれたんだろうか?
「 こんにちは!お疲れ様です。」
にこやかに微笑むと、例の冷たい視線で睨まれた。
「……なんだ、あれ?」
「 あれって……?」
青は腕組みをしながら
「 あんなバラバラなペースとフォームでいくら走ったって時間の無駄遣いだ。おまえは、この数週間何のためにトレーニングしてたんだ?何一つ生かされて無いだろが?」
うわっ!めっちゃ喋るじゃん!
瑠里は非難されたにも拘わらず、驚きに目を丸くした。
まるで1年前の出会った頃のようだ。
こと、陸上のことになるとうるさいくらい語る青だった彼を思い出す。
自分を覚えていなくても、なんだか1年前の青に再会したような気がして、瑠里はとても幸せな気分になった。
「 おい!おまえ、俺を舐めてんのか!?」
ダメ出しされたにも拘わらず、ニコニコしていた瑠里に、容赦ない声が飛ぶ。
瑠里は飛び上がるように跳ね、両手で頬をパンパンと叩くと
「 す、すみません!舐めてなんかないです!」
「じゃあ、なんだと聞いてる。」
「 なんだ…と言われても……」
瑠里は、さっきまで考えていた反省点を正直に口にすることにした。
「 月城さんに言われた通りのタイムが刻めませんでした。多分、ペース配分がわかっていなかったからだと…思います。」
「 それで?」
「 タイムを気にすると…フォームが乱れたというか、定まらなくて…」
「 だから?」
青の追及は、容赦無かった。
瑠里は、困ったように口をすぼめ、正直に答えた。
「……だから、どうしていいのかわかりませんでした…」
青は、深いため息と共に黙り込んだ。
瑠里は、何かを考える様に遠い目をしてグラウンドの方を眺めている青の少し離れた横に、すとんと腰を下ろした。
喉がカラカラだったから、ジャージの上着に包んでおいたペットボトルを手に取り、喉に流し込む。
少し距離を置きながら、黙ったまま二人で並んで座っていることが、なんだかとても不思議な時間だった。
自分は、彼の事をとても良く知っているのに……彼は自分のことを全く知らない。
でも、今、走ることを通じてこうして隣同士で座っている。
「 ビルドアップ走行の練習は、経験無いのか?」
また突然青からの質問が飛んできた。
「 正式な練習は、初めてです。私の高校ではここまでちゃんとした練習はしていなかったので……」
「 だろうな。」
「 ここに入って、先輩達や推薦組が走っているのを見て、知りましたけど……私はまだ参加していないので…」
「 だろうな。」
青からは、同じ返事が2回返ってきた。
「 最初に……ゆっくりとしたペースでの腕の振り方と、ストライドのリズムがつかめなかったです。こういうのって、数人で走る方がやり易いんですか?」
瑠里が首を傾げながら青を見て尋ねると、青は前を見たまま答えた。
「 おまえのような素人は、単独は難しいだろうな。」
じゃぁ、無理じゃん!と言いたいところだったが、それは胸に収めた。
「 何か、目安とかありますか?1分で何回振るとか…」
「無い。」
即答された。
「 各々のスピードが違うしストライドの幅も違うからだ。」
補足が入った。
そして、次に突然、不思議な現象が起こった。
「 そもそも、右に傾いていた軸を直しただけだったからな。」
「………え!?」
それは、衝撃的な言葉だった。
「えぇ!?」
瑠里は飛び上がるように驚くと、身体ごと青を向いた。
誰が…私の軸の傾きを…直したって言ったの!?
まさか……記憶が戻ったの!?
「 そ、そうです!右に傾いていた軸を直して貰いました!……覚えてますか?」
だが、青は眉を潜めながら不信そうな目で瑠里を見た。
「……何の話だ?」
「 だって!今!月城さんが!」
瑠里の言葉に、青の眉間のシワが深くなり、目がキツくなった。
「 俺が……何だ?俺が……何を直しただと?」
「 私のフォームには右に傾く癖があって……それを真っ直ぐ中心になるように……以前…月城さんが…」
青の苛立った冷たい眼差しに、瑠里の声は徐々に小さくなり、消え入りそうに口を噤んだ。
「 頭、おかしくなったのか?おまえのフォームの癖なんて俺が知るわけないだろうが!」
思い出したんじゃ…なかったんだ。
でも、確かに、右に傾いた軸を直したって、言ったよね?
だが、瑠里はその事を伝える勇気が持てずに意気消沈してうつむいた。
「 だが……ペース配分はぐちゃぐちゃだったが、おまえのフォームは良いフォームだと思うけどな。」
青の次の言葉に、瑠里はパッと顔を輝かせた。
覚えていなくても、それが青の教えてくれたフォームだよ!
そう言ってしまえたなら、この悲しい気持ちも救われるだろうな……
少し離れた青の横顔を見つめながら、瑠里は小さなため息をついた。
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