第5話 バンビの通帳
「おかえり!なかなか頑張るわねぇ?」
瑛子は瑠里を玄関まで出迎えると、そう言って笑った。
瑠里は座り込んで、靴ひもをほどきながら、思い切って瑛子の顔を見上げた。
「 母さん……もう一回話し合わない?」
「 何よ、いきなり!もうギブアップ?これ以上は無理だから許して下さいって話?」
からかうような瑛子の表情に、瑠里は口をへの字に曲げる。
「 そうじゃない!大会は頑張るって決めたから、無理なんかじゃないし!」
「 じゃぁ、何よ?」
瑠里は玄関を上がると、中学の時にすでに追い越した自分より小さい瑛子と向き合った。
「 私の進路の話!……大会は別として、もう一回ちゃんと話したいの」
瑛子は一瞬目を丸くした後、ちょっと感心したように見た。
「 へぇ、瑠里がちゃんと話をしたいなんて、珍しいこともあるもんね。いつも聞く耳持たないって子なのに」
「 なんていうか……いつまでも目を逸らしてても駄目だと気が付いたっていうか……」
瑠里は、もごもごと口の中で理由を呟いた。
瑛子は、アハハと笑いながら瑠里の背中をポンポンと叩いた。
「 それに気づいただけでも、大した進歩よ!一気に三歳くらい大人になったんじゃない?」
「 ホントにそうなら、嬉しいけど!」
瑠里はニコリともせずに肩をすくめた。
瑛子の唯一の得意メニューのカレーライスで夕食を済ませると、二人はそのままキッチンのテーブルで向き合った。食後のコーヒーを瑠里が二人分入れて、席に着く。
「 サンキュー、この時間が一番落ち着くのよねぇ」
瑛子はコーヒーに手をのばして長い溜息をついた。
瑛子は大津市内の比較的大きな整骨院に勤めていた。
死んだ父、大輔が整体師で、瑛子も同じ整体師だったのだ。
二人は今の瑛子の勤務先で知り合った、いわば職場結婚だった。
結婚後も瑠里を保育園に預けながら、いずれ独立するべく共働きで頑張っていた。
そして志半ば、大輔が事故にあったのだ。
あたりまえに毎日を過ごしてはいるが、この家の生活を支える為に働き続けてくれている瑛子が、疲れていないわけはなく、そう思う度に何も出来ない自分が情けないと思うのも、瑠里の本心には違いなかった。
「 で、あらためて何から話す?私としては、まず瑠里の新たな意見を聞いてみたいんだけど?」
瑛子に促されて、瑠里はおずおずと頷いた。
「 えぇと……、新たな意見っていうほどじゃないんだけど……なんで私が大学へ行きたいと思わないかについて、もう一度ちゃんと説明しようと思って」
「 それって、当然、いつもの我が家の経済力うんぬんとは違う意見でしょうね?」
「 うん、まぁ……そう。それが全く無いわけじゃないけど、事情より、私の気持ちかな?」
「 そういうことなら、是非聞きたいわね 」
瑛子は満足そうに微笑んだ。
瑠里は、青と話した時の事を思い出しながら、頭の中をゆっくりと整理した。
「 うまく伝わればいいんだけど……。肝心なのは、私の中に大学へ行くという意味が見い出せて無いってことなんだと思うの 」
瑛子は黙ったまま小さく頷き、続きを促す。
「 この歳になってって笑うかもしれないけど……私、将来の夢とかが無いみたいなの。自分が何をやりたくて、何になりたくてとかがね 」
瑠里にとって、それを口にするのは結構辛い事だった。
今日、青に指摘されて初めて向き合った事実に瑠里はまだ慣れていないし、受け止め切れてもいない。
瑛子はそんな心細げな娘の顔をジッと見つめ、ふっと淋しげに笑った。
「 知っているわよ、瑠里に将来の具体的希望が無いことぐらい。そんなことも気付いてないと思ってたの?」
瑛子の言葉に、瑠里は目を丸くした。
うそ!?とっくに知ってたの?
瑛子はコーヒーを一口すすり、苦笑した。
「 これでも、一応はあなたの母親ですからね!大輔がいなくなってからは、あなたしか見てこなかったって言っても過言ではないわ。だからずっと前から知ってたわよ?でも、だからこそ大学に行って欲しいと思ったの」
「 やりたいこともないのに?そんなんじゃ、大学どころか学部すら選べないよ!」
瑛子は、ゆっくりと首を振った。
「 瑠里、少し辛い話をするけど……ちゃんと聞いてくれるかな?いい?」
瑠里は、いつに無い程真剣な瑛子の目差しに、小さく唾を呑み込んだ。
「 私達は……特に瑠里、あなたは大輔を失ってからというもの、普通に暮らすことが精一杯だったの。悲しみに暮れないように、潰されないように生きることに必死だったのよ。それ程、私達にとっての大輔は大きい存在だった。あなたを見ていると、本当は今も尚、傷は癒えてないのかもしれないと思う時が、まだあるわ 」
瑠里の胸は、瑛子の一言一言に敏感に反応し、震えた。
「 だから、そんなあなたが自分の将来に夢や希望を見つける余裕なんて持てなかっただろうことも、私が一番知ってるわ。でもね、瑠里、よく考えて?大輔がいなくなって、十年経った。でも私達はこれからも生きていかなくちゃいけない。生活するんじゃなくて、生きていくの、わかる?」
瑠里は、じわじわと締めつけるような胸の痛みに顔を歪める。
気を緩めると泣いてしまいそうだった。
そんな瑠里を見つめる瑛子の顔にも苦痛が浮かぶ。
「 目的があるから、大学へ行く……それが普通かもしれないけど、生きる目的を探すために大学へ行くっていうのも有りだと、私は思うの。瑠里がなりたい職業があって就職するなら、反対なんてしないし、むしろ応援する。でも、そうじゃないでしょ?」
それは、今日青が言っていた意見と全く同じものだった。
「 母子家庭だからって、給料や条件のいい所だけで職場を決めて、どんな将来が待っていると思うの?仮にそれで我が家の生活水準が少しだけ上がったとして、それがそんなに幸せなことなの?じゃぁ、それはいつまでのことなの?私はともかく、あなたはこの先何十年も生きていくというのに!自分の夢も、希望も見つけられずにどんな幸せが待っていると思うの?」
瑛子の言葉は切実で、どれも瑠里の胸をえぐった。
反論する言葉も浮かばないし、する気も無かった。
最愛の人を失い、忘れ形見である娘を抱きしめながら、必死に生きてきた母は、誰よりも強く、大きかった。
言葉を失い、俯いてしまった瑠里に、瑛子は立ち上がると
「 ちょっと待ってて 」
そう言って自分の寝室へ向かった。一分もしない内に戻ってくると、瑠里の目の前に一冊の可愛らしいバンビのイラストのついた通帳を置いた。
表には、“ 高宮瑠里 ”という名前が印刷されている。
顔を上げて無言で尋ねると、瑛子はニッコリ微笑んだ。
「 あなたが生まれたその日に、大輔が記念に作った通帳よ 」
父さんが自分の為に作ってくれた通帳……瑠里は、おそるおそる手を伸ばし、そっと通帳を開いた。
それは、初めて目にする物で、十八年の歳月を感じさせないほど、とても綺麗なものだった。
一番最初の日付は、もちろん瑠里の誕生日で一万円の入金となっている。その後、毎月一日の狂いもなく、一万円ずつ積み立てられていた。
「 これって父さんが……死ぬまで続けてくれていたの?」
“ 死ぬ ”という言葉を喉の奥から絞り出すようにして、瑠里は言った。
瑛子は瑠里の苦しげな顔を見つめながら、励ますように笑う。
「 いつまで、ということなら、まだ続いてるわ。大輔があなたの為に始めたことを、私が終わらすことは出来なかったから。お父さんだって絶対にそう望んだろうから 」
さっきから必死に堪えていた大粒の涙が、突如、瑠里の瞳からポロポロとこぼれた。
自分がメソメソすれば、瑛子を苦しめることになるのだと、ここ数年は父の事で決して泣いたりはしなかった瑠里だった。
なのに、目の前の自分の為に作ってくれたという通帳に、大好きだった大輔の笑い顔が重なって、泣けてきた。
大きな手で抱き上げ、広い肩に乗せてくれた父のぬくもりが思い出されて、瑠里は震える肩でしゃくり上げた。
瑠里が、落ち着くのを待って、瑛子は再び口を開いた。
「 私と大輔が、あなたを授かった時から望んできた事は、今も少しも変ってない。瑠里が瑠里の為に、生きていくこと。あなたがあなたらしい人生を見つけて歩いていくこと。私たちの想い、理解できる?」
瑠里はティッシュで鼻をかみながら、こくんと頷いた。
両親が揃っていようと、いまいと、自分は果てしなく大きな愛情に包まれてきたのだと、今さらながら思い知る。
そして、青の言っていた通り、自分のこだわっていた事がいかにちっぽけだったかを思い知った。
そんな瑠里の様子に、瑛子はホッとしたように笑った。
「 よかった、わかってくれて。ごめんね、辛かったでしょ?泣かすつもりはなかったんだけどね。あなたって、頑固だからなかなか本音言わないし。でも、どうして急に話す気になったの?」
どうして、と聞かれて瑠里は戸惑った。
『青が気付かせてくれたから』などとは、口が裂けても言えるわけがない。
言えば『青って、誰なの?』って当然聞かれる。
青の存在の説明は、不可能だ。
仮に説明できたとしても、まず、頭がおかしいと思われるのが落ちだ。
『彼は交通事故で意識が戻らない人なんだけど、魂みたいな物だけが抜け出して彷徨っていて、その魂と友達になったの』……そんな話は、誰も信じるわけがない。
「 瑠里?どうかしたの?気分でも悪くなった?」
眉間にしわを寄せて、あれこれ迷っていた瑠里に瑛子が首を傾げて聞いた。
「 あ……う、うん、大丈夫」
瑠里は慌てて首を振って笑って見せると、話を続けた。
「 えー、なんていうか、急に気が変わったっていうより、本当は前から自分でも薄々わかってて……いい加減ごまかしているのも嫌んなったっていうか……」
一向に説得力のない言葉に、瑠里は自己嫌悪に陥ったが、瑛子はケラケラと笑いだした。
「 ほんとに、瑠里は昔から本心や肝心な事を話すのって苦手なまんまよね!いいわよ、言いたいことはわかったから 」
瑛子はそこで笑いを収め、すっと真剣な目差しに戻った。
「 で、結論なんだけど……どうする?道は三つあるわ。やっぱり就職する、大学進学を考える、あと一つは大会優勝に賭けてみる 」
瑠里は、瑛子の言葉を自分の中でなぞり、少しだけ考えて今度は慎重に言葉を選ぶ。
「 母さん、もう少し時間が欲しい。もう一度白紙に戻して、最初から考えたいの。自分が本当に望んでる事と向き合ってみるから。もちろん、大学進学も一つとして考えるし、母さんの想いも、……父さんの想いもちゃんと考えるから 」
最後の言葉は、目の前のバンビの通帳を指でそっとなぞりながら言った。
瑛子は、声は出さずにしっかりと頷いてくれた。
瑠里は、自分の部屋に戻るとベッドに仰向けに全身を投げ出した。
こういう話は、とてもエネルギーが要る。
長いことしていなかった……というか、実は無意識に避けていた大輔の話も、結構こたえた。
瑛子の言葉が頭に蘇る。
『もう十年たったの。私達は、瑠里は、生活するのではなく、生きていかなきゃいけない。わかる?』
生きる……人が生きることってなんだろう?
瑠里の頭の中に、今度は青の姿が浮かんだ。
不思議な出会いをした彼は、今もどこかの病院の一室で、生きている。目を覚ましてはいなくとも、彼の意識は、心は、生きている。
だからあんな風に出会えたのだ。
青に会いたい……そんな感情が胸をよぎった瞬間、瑠里の心臓は急激に早打ちを始めた。
彼独特の口の悪さや、冷たいけどとても綺麗な顔立ち、笑うと優しくなる切れ長の瞳、頭の中に響くハスキーな声……思い出せば思い出すほど、胸の奥の方がギュッと縮まるような感じがして、思わず胸を両手で押さえた。
今すぐにでも会って、ついさっきの話を聞いてもらいたかった。
そして青の意見を聞きたかった。
瑠里は自分の大きな変化に驚いていた。
そもそも、瑠里は今だかつて他人と深く関わったことが無かった。
無かったというより、苦手だから避けてきた、という方が正しい。
笑ったり喋ったりする友達はいても、俗にいう“ 親友”という関係の友人は持ったことが無いし、欲しいと思ったことも無かった。
あの、女子特有のべったり一緒というのが、どうしても受け入れられない。
もちろん、自分の胸の内を他人に見せるなどはもってのほかで、悩みを打ち明けたりすることも、まず考えられなかった。
そういった意味も含めて、クラスの子に“ 不思議ちゃん ”と呼ばれているのかもしれない。
でも、青だけは初めからちょっと違った。
思いもよらず相手の信じられない様な事情を受け入れ、おまけに自分の悩みを打ち明けたりするなど、瑠里にとっては異例の出来事だらけだった。
どうして?と誰かに聞かれても、きっと答えられないなと思う。
なぜ、青に心開けたのか?なぜ、こんなに青に会いたいのか……“ 会いたい ” のところでまた息苦しくなる。
「まったく……!病気みたいじゃん!」
居ても立ってもいられないような、ソワソワした気持ちを持て余しながら、瑠里は自身にぼやいた。
瑛子に約束したように、真剣に考えなければならない問題を抱えているというのに、少しも集中出来ない。青の事で頭がいっぱいになっている。
明日も会えるのだろうか?それともまたしばらくは会えないのだろうか?青は自分の名前を覚えているだろうか?自分の名前をイメージしてくれるだろうか?
瑠里は徐々に重くなっていく瞼と、尽きることのない想いとともに、夢の世界へ堕ちていった。
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