第5話

 マッピングしながら、いくつか目の分岐を曲がっていた時だった。


 何かが動き回る音が、かすかに聞こえてきた。


「!」


 思わず進んでいた足が止まる。音を立てないように、曲がり角の壁に身を寄せて、向こうを素早く覗き見て隠れる動作を何回か繰り返す。敵がいるかどうか確認するクリアリングという行為の一つで、クイックピークというものだ。まさか、オンラインFPSゲーム以外で使う事になるとは思いもしなかった。何が役に立つか分からないものである。


 動き回る音が近づいてくる気がする。ここから数メートル離れた通路の先にある曲がり角。そこから、ジャリジャリ……と石畳を踏む音。


 突き当りの壁に、何かの影が映る。通路に現れる瞬間を狙って、クイックピーク。そろそろと壁に背中を預ける。邪魔くさい心臓の鼓動に少しイラつきながら、覗き見たものを思い返す。


 犬、のようだった。狼なのかもしれない。数は一匹。警戒している様子はない。隠れた曲がり角の向こうで、こちらに近づいてくるのがはっきりとわかる。


 落ち着け。戦う。分かっていたことだ。クリケットさんに聞いた。シリエルさんにも確認した。この迷宮にいる限り、戦う事は――避けられない。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「迷宮には敵が存在します」


 コーヒーを飲みながらクリケットさんが話す。


「敵?」


「ええ、敵です。倒すべき存在。存在する事を許されざるモノ達。私達は、影の獣、エイジュウと呼んでいます。この狭間の世界は、貴方がいたところだけのものではありません。色々な世界、そうですね、剣と魔法のファンタジーな世界、宇宙船で恒星間を駆け抜けるSFな世界、はたまた悪霊や妖怪が当たり前に存在するホラーな世界……多種多様な、それこそ星屑のように無数な世界とつながっています。この狭間の世界は、そんな無数の星屑から零れ落ちた死が集まってくるのです。そして、集まってくるのはそれだけではありません」


「……というと?」


「はい、澱みとでも言えばいいでしょうか。死んだ魂が今生で犯した罪。それを浄化して、来世へと繋いでいくのですが、その時に浄化しきれず残った澱みが溜まっていくのです。下へ下へ……果てしない奥底に」


「迷宮の……最深部」


影獣エイジュウは、最深部の最も澱み切った場所から現れると言われています。悪意の塊。抽出された闇。なんと表現しても構いません。言えることは、ただ一つ。それは、なのです」


「倒すべき……でも、そいつらは元をたどればいずれかの世界で死んだ魂だったって事ですよね? どんな姿カタチかはわからないけど、生きていた者達ということで……」


 クリケットさんの眉が申し訳なさそうに歪む。


「平和な日本に住んでいた貴方には、忌避感があるかもしれません。相手を倒す。殺す、と感じるかもしれません。しかし、こう考えてくれませんか」


 コーヒーのカップをテーブルに置いて、僕の目をじっと見つめる。


「救ってください」


「救……う?」


影獣エイジュウは、倒さなければいつまでも迷宮に留まります。澱みの中で永劫の時間を存在しつづけるのです。貴方が影獣エイジュウを倒すことは、澱みに澱み切った魂の残滓を救う事なのだと納得してください。貴方は殺しまわるのではなく、救いを与えるために迷宮に潜るのだと」


「それは、随分と僕に都合がいい、素敵な解釈ですね」


 喉がへばりつくような感触がする。自分の言った冗談じみた台詞に嫌悪感を覚える。


「貴方が考えた解釈ではありません。そうですね、もしも後悔しそうな時や躊躇う時があれば、こう呟いてください」


 クリケットさんが、あえておどける様に笑う。


「『』」


「おのれクリケット?」


「はい、そんな時は私に悪態をついてください。私がすべてを引き受けます。どんな悪態も歓迎しましょう。全ては私の仕業だと」


 そんな事しかできませんから、とクリケットさんは小さく呟いた。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 ジャリ、という足音がする。あとほんの数秒で、影獣エイジュウが僕を見つけるだろう。不意打ちするなら、これが最後のタイミングだ。


 無理やりに笑って震える声で、小さく呟く。


「おのれクリケット」


 その言葉は、今後、迷宮を潜る僕に何度も勇気を与え続ける魔法の言葉となっていく。

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