失われた名を求めて
諏訪森翔
失われた名を求めて
「ここに居たのね。〈無能〉」
無能、と呼ばれた女は顔をしかめながら隣に座っている彼女に口を尖らせる。
「私のことはシエラって呼んでよね。〈無理〉」
「私のことも―――って呼ばなきゃ呼ばないわ」
彼女の言葉にシエラは肩をすくめる。
それから二人で仲良く日向ぼっこをしていると彼女は用事を思い出した、といって立ち上がり丘を下る。
「じゃあね〜?」
丘を下る彼女に手を振りながらその名を呼ぼうとしてその名を思い出せなかったことに〈無能〉は違和感を覚える。いつも当たり前だと思っていた確証が今は得られない、という違和感。
「え?」
急いで立ち上がろうとするもうまく力が入らず倒れ、寝たきりとなったシエラは恐怖した。
ついにこの時が自分にも来てしまったと。
「案外長かったわね」
誰にいうわけでもなく呟き、今までのことを思い返そうとする。だが、何を思い出してもその記憶は誰からの視点なのか、どんな感情でそれを感じていたかを思い出せずに結局は何の感慨も得られない。
ああ、私って結局なんだったの?
そんな疑問にすら答えてくれる人はいない。そして彼女はこの世界から消え去った。
私がこの町に現界してから大体百年が経った頃、初めて『消失』を目撃した。
あまりにも突然の、そしてあっけない彼女の終わりに私は驚き、泣き続け、私が泣き止むまで傍にいてくれたのが〈無能〉だった。
〈無能〉は今まで見てきた『消失』の中でもあれは刺激が強すぎた、と私を励ましてくれた。
それからしばらくして〈無能〉は町への任を与えられ、私は彼女の従者としてついて行き、訪れた町の住民達は温かく出迎えてくれ、私は初めて『消失』以外を考えるようになった。
「おかえりなさい。―――さん」
「ただいま。ウィル」
「ウィルは元気?」
「はい?もちろんです!元気いっぱいです!」
彼女の何気ない質問にウィルは元気だと回答し、その様子にやんわりと微笑んだ。
「そういえば―――さん。こんなのが来ました」
居間でくつろいでいる彼女にウィルが一枚の手紙を彼女の前の机の上に置いてまた台所へ消えていく。
「誰からかしら」
手紙の封を切って中身を見るとそれは〈無者〉からで、四百年目の誕生を祝うバースデーカードだった。
「どうしたんですか!?」
「違うの。嬉しいの。嬉しすぎて泣いてるの」
頬を伝う涙を拭いながら彼女は立ち上がり、掛けてあったコートを羽織る。行先がどこなのか分かったウィルは無言で彼女の出かけを見送る。
「おお―――!元気か?」
「―――さん、今度うちに遊びに来てよ!」
「―――、新しく生まれたうちの子の名前考えてくれるか?」
夜でも盛況を失わない町の住民たちは〈仲間〉である彼女を見かけると声をかける。唯一異質なのは全員彼女と違い、獣人だった。
そんな彼らに手を振り返したりして反応しながら町の端にある家の扉を叩く。だが、灯りも灯されない。
「シエラさん?私です。起きてますか?」
返事がない。それどころか生活音すらしていない。
嫌な予感が彼女の胸中に影を落とす。
しばらく立っていると彼女の姿を見たシエラの隣人が出てきた。
「ああ、―――さんじゃないか」
「こんばんは。ここに住んでる人は今いますか?」
彼女の質問に隣人は首を横に振る。
「実は朝から帰ってきてないんだ。まあこんな夜だ。キャンプでもしてるんじゃないかな?」
そんなはずない。
その言葉をぐっと飲みこんで彼女は隣人と別れてすぐ彼女と最後に会った場所へと走る。
夜の公園は灯りも人気もなく不気味な雰囲気をまとっていたが彼女からすれば些末なことだった。
公園内をしばらく歩いているとすぐに目的地は見つかった。昼と変わらず二人が寝転がっていた跡が残っており、片方の痕跡内で煌めく何かがあった。
「うそでしょ....」
駆け寄ってそれを拾い上げる。それは彼女が初めて見た『消失』の後に残っていた物と酷似した形の金属物だった。
変わり果てた〈無能〉を握りしめながらその場に倒れこみ彼女は暗闇の中泣き続け、公園は梟の鳴き声と川のせせらぎで彼女の慟哭を隠す。
「ただいま」
「おかえりなさい。――さん」
目を腫らしながらの帰宅でも何も聞かず出迎えてくれた彼に〈無理〉は胸がいっぱいになりながら席に着く。
「外は寒かったでしょう?早くどうぞ」
「ありがとうね。えっと.....」
自分に夕食を用意してくれた彼の名前が出てこず言葉に詰まった時、初めてその違和感に二人は気づき、またしても〈無理〉はパニックに陥る。
「いや....いや!嫌だ!!」
「落ち着いてください!――さん!」
頭を抱えて自分の部屋に逃げ込みロックをかけて泣きじゃくる。
「どうして?私の何がいけなかったの?教えてよ.....」
誰にこの答えを聞こうとしたのかも忘れ去り、意味もなく部屋を見渡すと机の上に何故か置いてあるナイフが目に入る。フラフラと机に行き、それを手に取り迷わず自身の胸に突き刺す。
「っ...」
鋭い痛みが一瞬走るもそこから血は流れず、即座に修復された。
「自分で死なせることすらできないのね....」
自殺ができないということを知り、ただ己という存在の崩壊をゆっくり感じながら消えゆくという事実に絶望した〈無理〉はベッドに寝転がり、二度と目を覚まさないと思いながら目を瞑った。
だが、そんな彼女の思惑は大きく外れて目を覚ます。
起き上がって扉に目をやると力づくで破壊された形跡があり、誰かが来たのだと示している。
「良かったウィルさん....名前を忘れちゃダメなんでしょう?」
話しかけられるまで自分の枕元に座っている青年に彼女は気づけなかった。そして突然青年は倒れる。急いでベッドから降りて青年をベッドに寝かす。
介抱しながら自分にさっきまであった違和感がなくなっていたことから何が起きたのかは容易に想像できた
「名前を譲渡するなんて馬鹿なんじゃないの!?私はいずれ消える運命なの。なのにどうして....」
「いいんです....僕は....拾ってもらったあの時から僕はあなたの物なんです.....この名前も.....」
最後の方は息も絶え絶えなのに自分へ無理に笑顔を作り浮かべる青年に思わず涙が頬を伝う。
「何か私にできることはある?」
「そうですね....なら、みんなが楽しく飲める酒屋を経営したいです....――さんと一緒に.....」
かすかな声でかつての名を口にしながら青年は目を閉じ、ウィルの手を握り返すこともなくなった。
「やっぱり、私はあなたの名前を思い出せない。ごめんね」
裏庭に彼を埋葬し、石板の左に彼を拾った年を書いて右に今の暦を書いてから彼の名を記そうとしてウィルは詰まってしまい、〈無理〉と記した。
それからしばらくして、町に一人の〈無者〉が訪れる。
「〈無理〉!元気...ってあれ?」
玄関のドアを勢いよく開けて中に入った〈無為〉は生活感のない質素な居間を見て出鼻をくじかれる。さらに、大声を出したにも関わらずに〈無理〉は出てこないし気配もなかった。
不思議に思いながらあたりを見渡すと入った時には気づかなかったが玄関ドアの上に何かが張り付けてある。
「なんだこれ」
それは手紙だった。〈無為〉は封を切って中を改める。
突然去ったことを許して。でも、私はもう名前を失ってしまって〈無者〉を名乗れない。だけど今私が生きている理由は私を愛してくれた人が名をくれたから。そして私は旅を通じて私の本当の名を探そうと思うの。もし会えたなら–––––。
ウィアートル
最後の一文はインクで黒く塗りつぶされており読めなかったが〈無為〉は満足していた。
「ウィアートル、ね。いい名前もらったじゃん」
〈無為〉は手紙を読み終えるとそれを懐にしまって帰り、〈無者〉たちには彼女は『消失』したのだと伝え、彼女が拾った手紙の存在は一生語られなかった。
年月が経ち多くの国が栄え、滅びの時代が落ち着いたある時代に建国された国には謎の酒場が存在しており、それはその国が興ってから存在し、店主が一度も変わっていないと言われている謎の酒場だ。
「ここで働いて何年目?マスター」
「ざっと四千年かしら」
嘘だ〜!と言われ笑いながら「四年目よ」と嘘を言うと一部の酔っ払いは納得し、一部は首をかしげるもウェイターに渡された酒への欲求が勝りすぐに忘れる。
「そう言えば――」
「何?」
一人の客が注文した酒を片手で遊びながら疑問を彼女にぶつける。
「マスターの名前って何?僕たちの名前聞いてくるのに教えてくれないなんて不平等だよ」
誰もマスターと呼ばれる彼女の名を聞いたことがないのでその場にいた客は全員頷く。
グラスを拭きながら名前を名乗ろうとした時一瞬彼女の脳裏に名も知らぬ獣人の青年がよぎる。
「私の名前はウィアートル。ウィルと呼んで。そういえば今日で実は創業四千年目なの。つまり喜びなさい。記念に今日は私の奢りよ!」
「「ウィルの寛大さと店の栄光に乾杯!」」
拭きたてのグラスに酒を注ぎながら宣言し、奢りという言葉に喜び、飲み騒ぐ客たちをウィルはカウンターで黙って見守りながら〈彼〉に心の中で話しかける。
旅を続けると約束したけど、あなたと昔にした気がするこの約束を優先したわ。見てる?これがあなたの望んだ景色かわからないけどね。私は動かないけど、彼らが名前を持ってくるからよっぽと効率がいいわ。ここで私は気長に待つ。あなたも待ってて。
今日もどこかにある酒場、『風見鶏』は大盛況。
初来店する客の名前をいつも聞く女店主と年代物の醸造酒がもてなす。
もし見つけたら来店してみるといい。もしかしたら彼女の求める名はあなたの名前かもしれないから。
失われた名を求めて 諏訪森翔 @Suwamori1192
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