第4話「ホームのささやき」


 朝が来て、夜が来て、また朝が来る。同じ朝、なにも変わらない朝。昨日と同じ朝。

 朝になったら学校に行かなくちゃいけない。学校は嫌いじゃないけど、テストや興味のない授業は眠たくて暇でしかたなかった。部活はやってない。やったほうが内申が良くなるらしいけど親に「大学行かせるだけのお金はない」と言われているから、部活に入ろうと入ってなかろうとあまり私に関係なかった。せめて専門学校に行ければいい。ネイルサロンとかエクステとか、そういうやつ。テンションが上がれば楽しいやつ。

 学校に行くにしても、電車に乗らなきゃならないのが億劫だ。ただ乗って揺られてるだけならいいけど、満員電車の熱気であるとか痴漢だとか盗撮だとかとの押し合い圧し合い……そういうのが嫌いだ。できれば人の少ない車内で、学校のある最寄り駅まで音楽を聴きながら揺られていたい。

 帰りはだから、満員になる帰宅ラッシュを避けて電車に乗るようにしている。そんなに大きくない駅だから、1・2本時間を空ければ座れるようになる。快速電車がホームを通り過ぎたアナウンスを聞きながら、駅にある本屋からホームに向かった。今日は〝アレ〟がいないといいな、と思いながら改札を抜ける。薄暗くて冷たい明かりの通路を歩いて、階段を下りるとやっぱりいた。今日もいた。私は気付かないフリをしながらスマホを取り出す。特に面白いゲームはないけど、〝アレ〟を見ているよりはずっとマシだった。

 〝アレ〟とは、黒い影のことだった。影みたいな、燃え盛る火のようなよくわからないものだった。たぶん元人間、つまるところ幽霊なのだろう。〝アレ〟はぼんやりとしか見えないし、いつも同じ所にいた。気味が悪いんだけど、それを誰かに説明したほうが気味悪がられる気がして誰にも言っていない。実は誰にも見えていて、私と同じように気付かないフリをしているのかもしれないけど。まぁ子ども達や大人が平然とその影を通り抜けていくから、たぶん見えていない気がした。見えないほうがずっといいこともあるから、どうかそのままでいてほしい。

 〝アレ〟はいつの頃からかいた。夕方から夜にかけてそこにいた。そういえば朝は見たことがない。夜中にこの電車を利用したことがないから分からないけど、大体夕方に〝アレ〟はいた。雨でも晴れでも雪でもいたし、そして今日もいる。一体何なのか分からないから、気付かないフリして放っておくのがいいような気がしていた。

 家に向かう電車が来る。入線するときの強風で〝アレ〟が揺れた。揺れるもんなんだ、〝アレ〟って。

 横目で〝アレ〟を見ながら電車に乗った。やっぱり〝アレ〟はただ、そこにいるだけだった。



 同じような毎日が続いている。これだけ暇だったら部活に入ってもいいかもしれないけど、今さら何部に入ったらいいのかも分からない。そこまでスポーツに燃えたくないし、だからといって地味で暗い部活もいやだ。文芸部や漫画研究会なんて、辛気臭いオタクのイメージでしかない。それだったらアルバイトでもして、原付の免許でもとろうかな。足とお金があれば休みの日には海まで行ってみてもいいかもしれない。お金が入れば、メイクをケチらなくてもいい。名案だ。

 午後三時、私は駅にいた。今日はテストだったから早くに学校が終わったのだ。お昼は友達とハンバーガーを食べて、図書館で勉強をしていたらこんな時間だった。帰ったらまた少しだけ勉強して、そして履歴書の書き方を検索つもりだ。どこでもいい、というわけじゃないけど家からほどほど近くてやりやすいバイトをしたかった。家や学校以外に場所があって、収入が得られるならそれはきっと最高だろう。

 改札をぬけて、ホームに向かう。昼間ともあって人はまばらだった。買い物帰りの老夫婦と、スマホを弄る男の人と、パステルピンクのコートを着たOLさんが立っているくらいであとはいない。いつもこれくらいの人気なら気が楽なのに、と思っているとアナウンスが流れた。快速電車が通過するらしい。私は空いているベンチに座って買った雑誌を読む。私の乗る電車はこのあとに来るのだ―――とりあえずゆっくりしたかった。

 危険ですので、黄色い線の内側までお下がりください―――というアナウンスを聞くと、どこまでが内側なのだろうとくだらない問題を思い浮かんでしまう。内側はもちろん私のいるホームの方なのだろうけれど、線路側から見たら線路側のほうが内側なのだ。線があれば中と外に分けることはできるけど、視点が違えば捉え方だって変わってくるはずだ。言葉遊びだと思うし、線路側にいたら危ないじゃ済まされないんだけども。でも自分のいるところが絶対正しいなんて言えないじゃん?現にパステルピンクのお姉さんだって線路から見た黄色い線の内側にいて――――――え?

 バッと雑誌から顔を上げる。お姉さんはいつの間にか黄色い線の外側に立っていた。危険を知らせる警笛がホームに鳴り響く中、お姉さんはごく自然な動作で頭をひょいと線路に突き出した。

「―――――――」

 お姉さんの頭は通り過ぎる電車に当たって、その強い力で体が引きずられて擦れてあちこちぐちゃぐちゃに曲がって、ホームの終わりにある柵に当たって、そのまま停止した。靴の片方が落ちていた。

 駅員さんがすっ飛んでくる。悲鳴があちこちから聞こえて、喉が痛かった。

 叫んでいたのは私だった。太陽は傾いて、夕方になりかけていた。



 親にどうにか迎えに来てもらっても、私はしばらく落ち着くことができなかった。あまりにもショックで、壮絶で、凄惨だった。テストが今日までで良かったと思う自分に正直うんざりしていたが、それでも明日もテストだったら親が家から追い出してでも学校に行かせただろう。私はあの光景を何度も思い出して息が苦しくなって、次の日学校を休んだ。目の前で人が自殺したのを目撃してしまったから、とは言えなかった。電車のブレーキ音やあらぬ方向に曲がったからだを思い出すだけで吐き気がこみあげて来る。誰かに言えるようになるまで、私の中であの事件が消化されるまで時間が必要だった。

 あのお姉さんの自殺は大きく報道されたらしい。テレビに映りたかったというクラスで使うSNSチャットアプリの会話を見るといい加減にしろとぶん殴りたくなる。目の前で死なれてんだよこっちは。

 亡くなったお姉さんは、会社でひどいパワハラに悩まされていたらしくお姉さんの持っていた鞄からそれが書かれた遺書が見つかった。会社に行く前だった、と記事には書かれていた。

 逃げなかったのかな、と私はそのとき布団の中でそんなことを思った。電車に乗って、別の場所に逃げられたら。あるいは辞表を社長に叩きつけられたら。

 そんなこともできなくなって、電車に頭を差し出すしかないほど追い詰められていたというのは――――――なんて悲しくて、悔しいことなんだろう。

 朝が来る。事件から一週間が経過した。私はどうにか学校に行って、それなりに生活していた。前と変わらない生活だが、ふとした拍子にあのお姉さんの背中を思い出して叫びたくなるときがある。たぶん、トラウマというものだろう。病院や保健室に行ったほうがいいんだろうけど、それはそれで面倒だった。身体はなんともないから、友達やクラスメイトに変な目で見られるのも想像に容易い。私は隠すのが上手いのだ。なんともないって顔、できてるはずでしょ。

 イヤホンを耳に入れて、スマホを操作して机に突っ伏す。次の授業の先生はことなかれ主義のおばちゃん先生だった。呆れて何も言わない人だし、歴史は苦手なのでこうしていたい。早くあの寂しい背中が消えてくれることを祈っている。



 一度根を下ろした死や不安というものは、そう簡単に消えるものじゃなかった。人は死ぬし物は壊れる、だから大切にしなくてはいけません。でも死ぬまで大切にしていたかどうか分からないんです。

 同じ朝が来る。昨日と、その前から変わらない朝。……変わらない朝だと思うようになったのはいつの頃だったっけ。たぶん、中学三年生の受験の頃だ。部活をやめて、勉強漬けの毎日になっていた時に「つまらない」と思ったからだ。

 朝はつまらない。夜は時間を持て余してしまう。

 じゃあ、夕方は?



 ばいばい、また明日。そう言って駅で友達と別れる。友達のエミリはここから自転車に乗って帰り、リンは私とは違う別の電車に乗って帰る。ひとりだ、と私は唐突にそんなことを思った。イヤホンを耳に入れて、音楽をかけて改札口へ向かった。夕方、人は多いがそこまででもない。これなら座れそうだった。スマホ片手に階段を下りると、ちょうどホームに夕陽が差し込んでオレンジ色に染まっていた。

 古い曲が選曲されている。何かの映画の主題歌だっただろうか、検索するのも怠かった。夕陽をぼんやり見つめながらベンチに座る。入線したての電車は私の乗るやつではなかったので見送った。人が減ったホーム、私はふと顔をあげて周囲を見渡す。そういえばいつの間にか〝アレ〟がいなくなった。成仏でもしたのだろうか。むしろ事故のせいでひどくなってそうなイメージはあったが。

 電車が通過します、危険ですので、黄色い線の内側までお下がりください―――アナウンスが流れる。あんな事故など最初から無かったようだ、置かれていた花も心なしか枯れていた。でも花がある以上そこでお姉さんは死んだのだ。ちょうどこんな時間に、首を線路に差し出していた。黄色い線の内側にあの人は行ってしまったのだった。あの人にとっての内側へ、苦痛のない世界へ。ひとりでもいいところへ。

 その内側には何があったのだろう。耳に伝わる音楽は激しい洋楽に変わっていた。なんだっけこれ、なんでもいいや。どうでもいいや。内側と外側、そこに違いはない。ただ視点が変わっただけで、どっちも内側だしどっちも外側なんだ。私のいるところには、色褪せた人達が見える。それこそ揺らめく陽炎のような人たちが、段々とモノクロームになって見える。

 世界は鮮やかなオレンジ色に染まっていく。最近食べてないなあ、オレンジ。オレンジは剥くのが大変だから、薄皮のミカンが好きだな。甘酸っぱくて、食べやすくて何個も食べて指先が黄色になったのをお母さんが見て「食べ過ぎよ」と怒ったっけ。

 ぽっかり空いた内側に何か落ちていた。なんだろうあれ―――と、私は内側を覗き込もうとして首を前に出した。

「―――危ない!!」

 瞬間、風船が割れるような乾いた軽い音と共に視界がぶれた。制服の襟を掴まれ、後ろに引き倒されたのだ。あまりに強い力だったから右足のローファーが吹っ飛んでいた。つま先が通過する電車の風圧に晒されていた。

 そこでやっと私は電車に引かれかけていたのだと気づいた。駅員さんが走ってくるのが見えるし、周りの人がざわついてるのも分かる。そして、私の襟を引っ掴んだ人も肩で息をしていることも。

「大丈夫、ですか」

 襟から手をどけ、そっと肩を撫でてくるその感触に私は安堵して泣き出してしまった。

 大丈夫なんかじゃなかった。駅員さんに連れて行かれても、私はしばらく泣いていた。私を助けてくれた人は、困った顔でついてきてくれたのが嬉しかった。



「じゃあ、親御さんが来るまでここで待っていてください」

 駅員さんと駅に駐在している警察官が部屋から出て行く。親が来るまで、私と私を助けてくれた人―――しらぬい、と名乗った人でこの狭い部屋にいることになった。

 疲労や精神的なショックと、あと前方不注意による事故だと警察は言った。駅員さんは、私がこないだOLの自殺を目の当たりにしたことを覚えていたし、私に自殺したい願望とかそういうのが無かったということもある。それでも私は怖かった。いつの間にあんなに線路の近くに立っていたのかも分からなかった。

 この女の人―――といっても、水那みな第三高校のセーラー服を着ていたからたぶん同い年ぐらいだろう―――がいなかったら、私はあのOLのように電車に引かれて死んでいたのだ。今になって恐怖で身が竦む。

「しらぬいさん、だっけ。ごめんなさい、巻き込んじゃって……」

「大丈夫ですよ。日下部くさかべさんは大丈夫ですか?何か飲み物とか飲みます?」

「……水」

「ちょっと待っててください」

 しらぬいさんはそう言うと、スっと部屋を出て行った。……なんていうか、すごい地味な子だ。眼鏡にセーラー服なんて真面目な印象があるし、優しいけどすごい物静かというか悪い言い方をすればパシられそうなカンジがする。でもあんなに強い力で引っ張ったのだから、すごい勇気があるのかもしれない。

「水、これで大丈夫ですか?」

 そんなことを考えていると、しらぬいさんがペットボトルの水を二本持って帰ってきた。

「平気。……ありがとう。あの、お金は」

「気にしないでください」

「いや気にするし……」

 貸し借り作るのが嫌なので、私は一三〇円をしらぬいさんに渡した。しらぬいさんは困った顔で「すみません」と受け取った。

「しらぬいさんって、漢字、どう書くの」

「えと、不思議の不に知識の知に、燃える火の火で不知火しらぬいです」

「変わった苗字だね」

「そうですね……よく言われます」

「下は?」

「瑠璃色の瑠に人偏に衣で瑠依るいです」

「そっか」

 私はペットボトルの蓋を開けて、水を一気に飲んだ。びっくりするほど喉が渇いていたらしい。ぐびぐび飲んでいると、不知火さんがもう一本をテーブルに置いてくれた。普段からとても気を遣う子なんだろう。私にはそんな気遣いなんてできそうもない。

「助けてくれて、本当にありがとう」

 そこで私は、ようやくお礼を言うことができた。不知火さんはキョトンとした顔のあと「いえ、」と慌てて手を振った。

「むしろすみません、なんか慌ててしまい引き倒してしまって……怪我はないですか?」

「ないけど……靴、吹っ飛んじゃったよ」

 私はぺっちゃんこになったローファーを不知火さんに見せた。被害はそれだけなのだけれど、ずたずたに傷ついたローファーを見るとずたずたになっていたのは自分だったのかもしれないと再び恐ろしくなった。不知火さんは私の右足に笑うことはなかったが「靴だけで済んで良かったです……」と小さな声でそう言った。

 不知火さんは変わっている。誰かに合わせるように笑うわけでもなかったし、どこか挙動不審みたいにおどおどしているのに目はずっと冷静だった。地味で冷静なメガネっ子に助けられたわけだけども、私よりも小柄なのに一体どこに人を引き倒すだけの力があったのだろうと首を傾げたくなる。火事場の馬鹿力、というやつかもしれない。命の恩人になんてこと言ってるんだと怒られそうだが、思うだけならタダだ。

「不知火さんはさ、あのホームよく使うの?」

 会話が無くなってしまい、親が来るまで暇だった。いや、暇ではないんだけど何か話していないと不安だったから私はそんなことを訊いていた。不知火さんはというと、「いえ、」と首をそっと横に振った。

「使わないですね。あんまり電車乗らないです」

「え、じゃあなんであのホームにいたの?」

「なんでって……その、」

 不知火さんの目が泳ぐ。言えないことでもしようとしていたのか、それとも何かあったのか。私がじっとりと見つめていると「ううん」と小さく彼女は呻いてから、ポケットから何かを取り出した。

「……日下部さん、これ。落としていましたよ」

 不知火さんはそう言ってキーホルダーを差し出す。それはこの間エミリと買った雑誌の付録だった。いつの間に落としていたのだろう。

「なんかすみません……渡すタイミングがよく分からなかったので持っていました」

「……それ渡すために改札越えてまで追いかけて来たってこと?」

「はい……」

 別に怒ってはいない―――というか、そうなるとすごい偶然だなと私は感心した。キーホルダーが落ちていなかったら、私は電車に引かれていたことになる。サブバッグにつけとこうね、と言っていたエミリに感謝しなくてはいけない。一方で持っていた不知火さんは申し訳なさそうにしているのが謎だが。あまり追究しないほうがいいのかもしれない、釈然としないけど。

「ありがと。これ、大事にしないとね」

「ほんとすみません……」

「なんで謝ってんの。謝らなきゃいけないのこっちだし」

 再び部屋が静かになる。私はキーホルダーを鞄に付け直して、ふと口を開いた。

「……あのホームに、お化け出るって知ってる?」

 不知火さんはキョトンとしていた。まあ、知らないよなと思いながら私はホームで見かけた〝アレ〟のことを不知火さんに話した。静かなのは嫌だったけど、それ以上に誰かにあの影のようなものについて話したかった。でもそれは私のことをよく知っている相手じゃダメなんだ。知らない相手だから、言えるようなハナシ。

「夕方になるとね、あのホームに影みたいなお化け出るんだ。私全然霊感とかそういうの無いし、〝アレ〟はただそこにいるだけみたいだったし、見間違いかなって。でも夕方になるといつもいた」

 〝アレ〟の話、と言っても特に話す内容もない。ボロボロの影みたいだったし、人型でもなかったし、本当にただいるだけのものだったから。不気味ではあったけど、何かしてきたわけでもない。電車がくればゆらゆら揺らめくような儚い存在だ。

「不知火さんはあのホームで見た?」

「いえ……特には」

「そっか。じゃあ、見間違いなのかな。疲れてるのかも」

 取り憑かれ、ということはないだろうし駅員さんや察が言っていたように精神的なもののせいかもしれない。今度病院にきちんと言ったほうがいいかもしれなかった。だが、

「その影、先日の事故の時は見えましたか?」

 不知火さんはそんなことを尋ねてきたのにはびっくりした。

「どう……だったろ?覚えてないや」

「そうですか……」

「何かカンケーあるの?それとも不知火さんはそういうこと詳しいの?」

 なら助けてもらいたい気分だった。いや助けてもらったあとだけども……まさか霊感少女だったのかこの人。

「いや全く分からないですね。もし何かいたらお坊さんにお願いしてお祓いするしかないよなあって思っただけですよ」

「あっそう……まぁ、そうだよね」

「あそこは快速電車が通過するから、多いのかもしれませんが」

「多いって……幽霊が?」

 そしたら東京や四神よつがみなどの大都会なんてそこかしこに幽霊がいるのだろうか……そう思っていると、不知火さんは手を振って説明してくれた。

「いえ、自殺する人がです。自殺するから幽霊が多い……こともなくはないとは思いますが」

「快速電車があると自殺って多いの?」

「正しくは〝快速電車が通過する駅〟ですね。場所にもよりますが……ホームを通過するとき、速度をそこまで落とさなくてもいいですよね。今から停まろうとする電車と、通過するだけの電車だったらどっちがより確実に死ねるかとなったら……まあ快速ではないかと」

 恐ろしいことをさらっと言う子だ。でもそうかもしれない、と私は思い返す。あの亡くなったお姉さんも通過する快速電車に頭を差し出していた。あれは確実に死ぬための選択だったら……それはそれで、なんだか悲しいことだ。

「電車に引かれて即死、ということもそんなにないとは聞いたことがあります。かなり苦しくて痛い思いしてから死ぬか、あっさり死ねるかと思ったら……すいません、不謹慎ですね」

「結構面白いよ。面白がるのも不謹慎だけどさ……そう思うと、お姉さんはなんで線路に飛び込まなかったんだろうね。頭をこう、ひょいって前に出す感じで死んじゃったし……私そっちのほうが怖いって思うけど」

 でも想像してみると、線路に飛び込むのもなかなか勇気がいりそうだ。しかも不知火さんが言っていたように、即死じゃなかった場合が悲惨すぎる。このずたずたになったローファーみたいになっても、まだ息があったら早く殺してくれと世界を呪うかもしれない。

 ふと不知火さんのほうを見ると、何か考え込むように指を組んで床を睨んでいた。……なにかあったのかな、と声をかけようとしたそのときだった。「結夏ゆか!」とよく知った声と共にドアが開かれた。お母さんだ。

「アンタまた、もう……っ!!怪我はない?大丈夫!?」

「してないよ……」

「ああもう、ほんとに……!!」

 ほんとに、なんだろう。次の言葉は出ることはなかったし、私は抱きしめられたままバンバンと背中を叩かれた。これはきっと帰ったら拳骨されるやつだ……。

 駅員さんと、警察官が部屋に入ってくるのと入れ替わるように不知火さんが頭を下げて出て行こうとする。え、帰っちゃうの不知火さん。まだお礼言い足りてないのに。

「私はこの辺で……じゃあ」

 お母さんは何度も不知火さんに頭を下げて、お詫びとお礼をさせてくれと連絡先を聞き出そうとしていたが「たまたま通りがかっただけですから」と恥ずかしそうにして出て行ってしまった。

 本当に変わった子だった。そして私は案の定家で拳骨と説教をされ、やっと寝つけたのは零時を越えてからだった。その日、私は疲れ切っていたのか夢を見ることもなかった。



 ホームの照明が落とされ、闇が満ちる。誰もが寝静まった深夜二時、改札はシャッターが下りて封鎖されていた。駅員がいなくなったのを確認して、瑠依は線路前にあるフェンスをよじ登りどこかへ電話をかけた。

「入りました」

『カメラは一応押さえてるけど、あんまり無茶しないように』

「了解」

『……本当に、咎鬼じゃないんだよね?』

 蝶之介ちょうのうすけの念を押すような声に、瑠依は「はい」と小さく答えた。

咎鬼とがきは人に紛れますが……話を聞く限り人に紛れているわけではないし、パターンが限られています。どちらかというとレウスやその他怪異のほうかと」

『で、T機関の反応も無いから怪異だと』

「はい―――霊法課れいほうかの第四部隊に本当は相談するべきだと思うんですが……」

『手口が悪質だし、次の被害者も出そうだからね。まあしゃあないでしょ』

「すみません……」

 瑠依はそう謝罪する。できることなら別の部隊に任せてもう眠りたいが、乗り掛かった舟だ。今更放っておくこともできないだろう。

 霊法課―――怪異やレウス、人に紛れて人を食らう咎鬼による事件・事故を取り扱う警察のような機関だ。正式な名称としては四神警察庁霊法局霊法課で、第四部隊はその中でも「怪異やレウスが行ったのではないか」と調査する課であるのだが瑠依達の所属する第零部は単独で調査を行うことにした。その課長であり、室長であり、隊長であるのが電話の先にいた麻生蝶之介という男で、瑠依はその部下にあたる。彼が決定したのなら、この事件の責任は第零部隊―――通称暗部が取ることになりどの部隊より作戦が優先される。

 本来であれば、暗部は怪異より咎鬼を扱う部隊だ。怪異は高位霊体異常粒子ことレウスまで狂暴ではないものが多かったし、人に紛れて人を喰らう咎鬼まで凶悪でもない。しかし、彼らとは違うとはいえ見過ごすわけにもいかない理由ができてしまった。

「ただの影のようなモノ、というのは聞いていましたが影ではありませんでした」

『線路にいたっていうやつだね。それで?』

「あれは影じゃなくて、疑似餌です」

 歩きながら、瑠依は自分が見たものを説明した。

「便宜上〝影〟としますが……あの影が見えた者に精神干渉をしているようです。取り憑いているように見えないから今まで放置されていたのでしょう。精神干渉と言っても人格が破壊されるようなものではなく、不安の増幅や軽い意識混濁に近いものと推測されます」

『それもちょっとずつ、じわじわとしたやつ……だね。うまいことそのまま引っかかれば重畳ってことか。ということは、前回の自殺したOLもそうってことかな?』

「定かではありませんが、可能性は高いです。OLも日下部さんも、線路を覗き込むようにしていました。線路に何かあるとそう思わせていたのでしょう」

『遺書があったって言ってたけど』

「〝上司に何なにされたので死にます〟と書いてなかったら、ただの辞表だったかもしれません」

『なるほどねえ』

「仮に自殺だったとしても、またそうじゃなかったとしても怪異に干渉されてはいそうですけどね」

 線路からホームに上がり、目的のホームまで連絡路を通る。誰もおらず、電気もない通路はただただ不気味だった。しかし、瑠依は気にすることもなくすたすたと歩いていく。

「怪異が出現する時間帯も、人の不安を増幅させる黄昏時……逢魔が時です。場所に固執しているのでその手のレウスかとも思いましたが、それにしては被害が少なかったですし機関の反応もありません」

『本体は?囁いているなら近いんだろう?』

「一回撃ったら消えましたが、まだそこにいますね」

『撃ったの!?』

「……ごめんなさい、撃ちました。たぶん、カメラには映ってないかとは思います……」

『ちょっと~!!報告ないとほんとに怒られちゃうよ瑠依ちゃん!!』

「すみません……」

 急だったので、と瑠依は小さくそう言った。

「精神干渉からの解放のため……というか、ほぼ威嚇で撃ちました。日下部さんも銃声でハッとしたみたいですが……」

『僕らは普通の妖鬼ようきとして活動してるわけじゃないから、任務以外であまり秘霊刀ひれいとうを表に出さないようにって言われてるけども……まあ、咄嗟のことだったんだろうしこれ以上は言わないでおくよ。でも気を付けてね』

「申し訳ございません……」

 咎鬼とレウスを討つ者〝妖鬼〟その文字の通り、あやかしと鬼という境界に棲む神々と巫女の力を借りて自身の思い描く武器〝秘霊刀〟を駆使して怪異を祓う。その性質が人間としては異端に見える以上、使用は任務以外基本的に厳禁とされている。生きている人間には当たらない仕様とはいえ、一般人に見られるとかなり面倒なことになること請け合いだった。

 とはいえ、急だったことも確かだ。あそこで撃つのを躊躇っていたら日下部の命はなかっただろう。誰も見ていないことを祈るしかないと瑠依は溜め息を吐いた。

「発砲したときですが、正直本体を視認してません。警官の威嚇射撃みたいに宙……位置的にはホームの天井ですかね。そこに当たったと思います」

『そこで手応えがあった、ということか』

「はい。天井にいたんだと思います。こっちが視えなくなるまでに消えてしまいましたが」

『疑似餌だなんてアンコウみたいだねえ』

 停止しているエスカレーターを横目に、瑠依は階段を下りていく。

「アンコウみたい、というよりアンコウですね」

 そうして見上げたホームの天井に―――その怪異は貼り付いていた。

「……ダンゴウオみたいにおなかに吸盤でもあるのかな」

『動かない?』

「いえ―――口を開けてこちらに来たので戦闘に入ります」

『グッドラック―――〝黒衣の狩人〟』

 通話が切れるか切れないか、魚のような巨大な怪異は瑠依のいる方目掛けて落ちて来た。誰も来ませんように、と瑠依はそう思いながらS&W M19―――別名コンバットマグナムを模した秘霊刀を召喚し、構えたのだった。



 次の日の夕方、私は駅のコンコースで不知火さんを探していた。なんとなく、ここを通るんじゃないかと思っていたのだ。手にはお詫びとお礼のお菓子の入った紙バッグ―――何も返せないのは正直嫌だったし、もう一回話してみたいという好奇心もあった。不知火さんは変わってるし地味だけど、どこか人を安心させるような大人しい子だから。

 昨日の今日で学校に行けるかと親に心配されたが、私自身なんともなかったし(念のため今度病院には行くけど)なんとなく学校に行きたかった。両親は共働きなので家でひとりになるよりはクラスメイトや友達に会ったほうがずっと気楽だ。そのために起きるのは嫌だし、満員電車も嫌だったけど。

 電車といえば、びっくりしたことがある。朝この駅に着いたら、ホームの一部がブルーシートで隠されていたのだ。駅員さんに訊いてみると、なんでも夜中に老朽化した屋根が落ちたらしく、その撤去作業にあたっているらしい。大事に至らなくて良かったと言っていたが、もしかして〝アレ〟が―――影が何かしたのだろうか?でも老朽化と言っていたし、たぶん事故だろう。事故が続いて大変な駅だ、とそのひとつになりかけていた私が溜め息を吐くと、少し先に見覚えのあるシルエットがあった。黒いセーラー服に赤いタイ、眼鏡にウルフカットの黒髪―――不知火さんだ。

 声を掛けられると思っていなかったのか、声を掛けられた不知火さんはこっちが不安になるほどびくっと肩を震わせた。もしかして不知火さんてコミュ障……?まあいいや、そんなこと。私は昨日のお礼とお詫びと、あと話がしたくてと言って駅ビルにあるチェーン店のカフェに連れ込んだ。傍から見たら不良に付き合わされる真面目チャン、なのかもしれないが本当のことなので不審に思われないよう手早く注文して飲み物を受け取り、席に着いた。

「―――で、これが昨日のお詫びとお礼です。受け取ってくれないと母さんにキレられるから受け取ってくれると助かる」

「え、あ……ありがとうございます……なんかすいません……」

「ありがとうもすみませんも、生きてないとできないからさ。―――本当に、ありがとうございました」

 照れ臭かったけど、でもそれ以上に感謝しているので私は素直に頭を下げた。不知火さんは相変わらずあたふたしていたが、「どうも」と言ってお菓子の入った袋を受け取ってくれた。

 私たちは、あの事件の前後の話だとか通ってる学校だとかそういう他愛の無い話をした。それから、変わらない朝が嫌な話も。不知火さんは私の話すひとつひとつに頷いて、よく聞いてから口を出してくれた。これは私の周りにはいないタイプだった―――エミリもリンも、そして私もお喋りなのだ。

「……私は朝が変わらないのが嫌というより、朝起きるのがそもそも苦手だからなんとも言えませんが」

 不知火さんは頬を掻いて、ぽつりと言った。

「同じ朝は無い、と妹がよく言いますね。空の色だとか、生えている草木、人の流れだとか……よそ見ばっかりして危ない子だからもっとちゃんと歩けと言っていますけど、昨日とどこが違うだとか、今日は何ができるかなってあの子ずっと考えて登校してるみたいなんです」

 朝は苦手です、と不知火さんは再度言った。

「私は夜型だし、低血圧なので起き上がるのも正直しんどいです。でも、朝は来るから……何か熱中できることとか、楽しみを増やして学校に行ってます。それに最悪、遅れてもいいから学校に行けばいいやって思ってますし」

「……案外不良だね不知火さん」

「今日だって寝坊しましたからね。でもいいんです、起き上がれるだけ偉いって思ってるから。それに、変えようと思わなければ変わりません。私は無理に起きるとふらふらしちゃうので起きかたを変えようなんて思ってないですが……ちょっとずつ寝るのを早くしようかなあとかそれくらいしか思ってないですね」

 それぐらいでいいんです。不知火さんはそう言うと、奢ったチャイラテを飲んだ(新発売のフラペチーノはいらないと言った。冷たいのが歯に沁みるんだそうだ)。私は不知火さんの言葉を咀嚼しながら、新作のフラペチーノをズゾっと吸った。うーん、甘すぎる。

 変えようと思わなければ、変わらない。私は朝のルーティンを、少しでも変えて来ただろうか。いつもと同じように、何も変えようと思わなかった。不知火さんは変えようとも思っていなかったけど、ちょっとずつでも何かを変えようとする姿勢があった。それはきっと大きな違いだろう。それにしても、熱中できることや楽しめることかぁ……。見つかるといいんだけど。

 ……いや、見つけてみたいな。自分が熱中できること。

「そっか、ちょっとずつならできるかも」

 がんばってみようかな、と思っていると少し離れたところからこちらを見つめている女の子と目が合った。中学生くらいだろうか?赤茶色の天然パーマを、高いとこで結っている……と、私の視線が気になったのか不知火さんが振り返った。そして「げ」と呻くような声が聞こえた。あからさまに嫌そうな顔をしているのを見ると、たぶん妹さんだろう。

「話聞いてくれてありがと、お店出よっか」

「……はい」

「あれがその、妹さん?」

「はい…………」

 女の子―――不知火さんの妹はカフェの隣にあったギフトショップにいた。気にはなるけど、不知火さんを見るとそういう雰囲気でもないしもう解散したほうがいいだろう。まあ、別に昨日初めて会った人だしもうこれ以上話さないほうがいいだろうし。

「ありがとね。じゃあ」

 私はそう短く言って、不知火さんに手を振って改札口に向かった。きっともう話すことはないだろうと思いながら。でも。

「キーホルダー、壊しちゃってすみませんでした」

 どこかでそんな声が聞こえた気がして、振り返る。コンコースは下校する学生と、帰宅する会社員でごったがえしていた。その人混みの中にあのセーラー服を見つけることはできなかった。

 私はバッグを肩に掛けなおし、ホームへと向かう。ブルーシートはまだあったが、影はどこにも見当たらないことに、どこかホッとした。

―――後日、私はカラオケのアルバイトをすることにした。ひどい客はたまにいるけど、音楽が聴けるのはいいなと思ったから。お金を貯めて、メイクの練習をしたいと考えている。気分が上がって、自分が少しでも好きになれる方法だと思ったからだ。メイクして学校に行くのはまだ校則違反だけど、それでも明日はどんなメイクで行こうかなと考えてすごすのは――――――楽しいと素直に感じた。



「さっきの人、お姉ちゃんの友達だった?なんか気になっちゃってさ……なんかごめんね」

「いいよ別に。……それより凪咲なぎさ、アンタなんで駅にいるの。学校は?」

「終わってから来たよ。予約した本受け取りに来たんだって」

 そう言うと、凪咲は買ったばかりのコミックの特装版を瑠依に見せた。彼女の通う中学から駅までは結構距離があるのだが、部活が無い曜日だったのできっと歩いてここまで来たのだろう。来年に受験を控えてるのにいい身分だ、と思ったが瑠依は口には出さなかった。

「そういえばなんか駅工事してるって張り紙あったけど、どこ工事してたのかな?全然見当たらなかったよ」

「……ホームの屋根が一部落ちたんだって」

「え~っ!よく怪我人いなかったね!?」

「……いない時間にやったからそりゃ」

「え、なに?なんて言った?」

「夜中に落ちたんだと」

「夜中でよかったね~……」

 何も知らない妹にうっかり本音が漏れて瑠依は無表情でやりすごし、駐輪場に停めてある自転車を引き取ってから凪咲と歩いて帰ることにした。ほんのり薄暗い駐輪場に、瑠依はどことなく溜め息を吐いた。

(取り憑いてないって言ったけど、でも半分くらいは取り憑いてたんだろなあ)

―――瑠依は昨日、たまたま目に入った日下部を追いかけた。駅に入る前まではなんともなかったのに、入った瞬間煙のような影が彼女の背後にぴたりとくっついたのだ。嫌な予感がして呼び止めようとしたが間に合わず、そのまま改札を越えることになるとは思わなかったし、まさか線路に落ちかけることも想像しなかった。怪異に威嚇射撃をし、救出したのはいいものの、「電車通学でもない自分がホーム内にいた」という不自然さを払拭するために日下部のバッグについていたキーホルダーの留め具を外したのだ。保身に走った行為に感謝されて胸が痛まないわけがなかった。そして結局ホームの屋根を破壊してしまったことも。

「瑠依姉ちゃん、これ食べる?」

 重たい足取りで駐輪場を出ると、凪咲が何かを差し出してきた。じゅわっと揚げたばかりのコロッケだった。どうやら瑠依を待っている間に買ってきたらしい。甘いものを飲んだせいか、喉とお腹はしょっぱいものを求めていた。瑠依は手を伸ばしてコロッケを受け取る。特別な食材は使ってない素朴なコロッケだが、瑠依はこの黒コショウの効いたシンプルな味付けのコロッケが好きだった。そこまで分厚くなく、食べやすい大きさなのがたまらない。

「おいしいね」

 凪咲が笑う。夕陽が沈む中、坂を上りながら。

「うん」

 瑠依は頷いて、妹の気遣いに心の中で感謝した。

―――こういう楽しみがあるなら、もう少し昨日のことを誇ってもいいのかもしれない。そう、前を向きながら思った。



おわり。

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夜を往く者 砂河喜一 @Sn_Keychi

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