第2話「CryingEvil・下」



私達は人を守るでしょう

けれど

そのために人を殺すでしょう



 不知火瑠依しらぬいるいという女子高生は、初めて読む小説の中断を許さない。それが夕飯前だろうと就寝前だろうと変わらず、二つ歳の離れた妹に急かされ怒られてもせめて区切りのいいところまで読まないと気が済まない質であった。彼女は幼い頃から読書が好きで、中でも怪談やホラーといった類の小説が好きなのだが、集中しすぎるきらいがあった。それを思えば、電話にすぐ出ようと思ったのが何回も読み終えている本を手に取っていたからなのかもしれない。

「もしもし不知火です。……ちょうさん?」

『寛いでるところごめんね、四神よつがみ咎鬼とがきの反応が出たんだ。案の定、他の隊員は出払ってるし梟和きょうやくんが交戦中だ。悪いんだけどすぐに応援に向かってほしい』

「蝶さんは?」

『珍しく仕事中』

「いつも仕事してください……」

 瑠依は部屋に時計を置かない。電子端末で一度時間を確認すると、夜10時を回ったところだ。電話をかけてきた若い男の声がくすくすと笑う。

『早く行かないと梟和くん美味しく頂かれちゃうよ?』

「……わかりました、二時間後にカメラ持っていきますね!」

『梟和くん死ぬよ!?』

「冗談ですよ」

 電話を切る頃には、瑠依はいつもの黒いセーラー服に着替え終えていた。任務とはいえ、警察に見つかるのは厄介なのだがこの服ぐらいしか夜に出歩いても分かりにくい服がないのである。一応霊法課れいほうかから支給された制服はあるにはあるが、重めの軍服なので動きにくいのだ。式典以外では、もっぱらクローゼットの肥やしになっている。

「さて……」

 ベランダにローファーを置き、ベッドに抱き枕を入れて、黒いウィッグをかぶせておく。これで工作はばっちりだ―――万が一家族の誰かが入って来ても自分が寝ていると分かるだろう。机から蛇を模した指輪を取り出して、瑠依は窓を開けた。

「助けにいきますか。ね、れっちゃん」





「葬式をあげる理由について考えたことってあるか」

 パトカーを運転しているのは青柳梟和の兄である青柳鷹哉あおやぎたかやだった。相棒である藤咲白狼叉ふじさきしろうさは頬杖をつきながら気だるそうにそんなことを問うていた。この白狼叉という男は銀というより灰色の短い髪をしており、その左目は眼帯で隠している。警察と名乗らなければヤクザかマフィアにも通じそうなほど異質な存在だとよく噂されているが、当の本人はそんな噂を気にすることはなかった。

「なんだ、誰か亡くなったのか?」

「そんなんじゃねーよ。ただ、葬式って面倒だったなって思ってよ」

「何がどうしたらそんなこと考えるきっかけになるんだか……」

 一方の鷹哉は深い青の目以外に、これといった特徴のない男だ。あとはせいぜい身長が高いくらいだが、少し前に身長を弟に抜かされたので本人としてはさほど特徴はないだろうなと思っている。そんな鷹哉は「うーん」と唸り、顎髭をざりざりと擦りながら答えた。

「葬式をあげることっていうのはそうだな。死者を悼んで弔うこと、あとは亡くなったことをアピールすることにあるだろうな」

「アピールだぁ?」

「昔は今ほど便利じゃなかっただろ?携帯電話もメディアもない……手紙や言伝の時代において、死を隠蔽することで敵に隙を見せないようにした武将もいたくらいだ。葬式をあげるのも、それこそ昔は村人総出でやるようなことだ。そうやって葬式をあげることで『どこどこ村のあいつが死んだ』と自然と伝わるようになるし、亡くなった者を訪ねて来るような奴も減る。それは現代でも通じるとこはあるかもな。死んだことをアピールすればいちいち説明の手間も省けるし、対応も一回で済む」

 パトカーは都市を抜け、閑静な住宅街に入る。鷹哉はハンドルを左にきりつつ、さらに言葉を続けた。

「あとはあれだ、死んだやつが怨霊になって祟りがないように祈るためでもあるな」

「生きてる人間のこじつけじゃなく?」

「おいおい、幽霊やレウスがえているお前がそれを言うのか」

「まあ、恨み妬み辛み憎しみは早々に消えるモンじゃないがよ」

「……昔、それこそ葬式の文化というのは縄文時代からあった。その頃は屈葬(遺体の膝を折り曲げた状態で埋めること)なんだが、その頃は死者が蘇ってくるのを恐れたためであって、穢れの意識や忌避意識というものはなかったとされている」

 では穢れや忌避の意識はどこから始まったのか、と鷹哉の講釈は続く。といってもこれらは霊法課の研修で学んだことなので白狼叉は知っているはずなのだが、どうやら彼は資料に一切目を通していないようだ。彼は頭で考えるよりも足を動かす質なので、読んでないのも無理はない話だ。いや、本当は目を通してもらわないと困るのだけれども。

「奈良時代に、葬送の簡素化の令が出されて埋葬場所が一か所に定められた。さらに天皇の住む場所とその延長線上の道路に埋葬するのを禁止したことによって、死者というのは生活空間から遠ざけられるようになったんだな。それまでが死者と近すぎたというのもあるが」

「忌避はなんとなくわかった。穢れは?」

「大化の改新があったように、奈良時代は政治抗争が激しい時代でもあった。書記によれば、呪いよる祟りが多発したんだな。陰謀による冤罪が多く、そのなかで憤死させられた井上内親王の死後、7~8年にかけて鼠の大群だとか、飢饉、日食、地震が頻発した。さらには天皇と皇太子も病に侵され、これは疫病の神が怨霊によるものと人々が考えたわけだ」

 これらを御霊おんりょう信仰といい、死者の霊魂を怨霊として恐れる思想ができあがったのだという。

「菅原道真公なんて、分かりやすい例じゃないか?怨霊となり火雷天神からいてんじんとなって呪いを振りまいていた彼を、神として祀り上げることで治めているしな」

「まあそうじゃなくても、野ざらしにしとけば虫が湧いたり腐って不衛生だしでヤバそうだしな」

「人の説明をそうさらっと流さないとくれると助かるんだが……」

 本当にどうして葬式についてなんて聞こうと思ったのか分からないが、どうやら白狼叉の興味は満たされたらしい。「なるほどなあ」などと、小声で呟いてネクタイの先を指で弄っていた。

「あとはこれは梟和の受け売りだが」

「ん」

「葬式をあげて死者を悼み弔うことで、ストレスの軽減を図るというのもあるんじゃないのかと」

 人が死ぬということは大きなストレスになるのだと鷹哉が語る。

「それまでいた奴がもういない、もう話せない、もう笑わない……それが仲が良かった相手だったり、恋人だったり、両親やきょうだいという身近な存在なら、なおさら死んだときのショックというのはそれまでの生活を一変させることもある。死者との気持ちを決別するというより、生きている者の気持ちを落ち着かせることに葬式の意味があるってあの子は言うんだな。死を受け入れるための期間とも言っていたっけか」

 あの子らしい、と鷹哉が寂しそうに呟いたところで目的の場所が見えて来た。

 四神市から少し離れたそこに目的のその家はあった。パトカーを家の前に停め白狼叉はその古民家を見上げる。

 見上げた古民家は、全体としてこじんまりとしているが狭いが庭もついているし、瓦葺き屋根がどこか懐かしさを感じる。今は閉じられているが、庭に面して縁側もあるのだというが、白狼叉は特に何も気にせず郵便受けを見遣る。郵便受けには手紙がいくつか入っていたが、お構いなしに郵便受け内を探っていると何かが指に当たった。それをゆっくりと引き剝がしてみてみれば、セロハンテープの付いた鍵だった。不用心だな、と呟いてからその鍵を使って誰もいない家に上がることにした。

「鷹哉、ここ電気通っているんだよな」

「そのはずだ」

 白狼叉を追って扉の前に来た鷹哉に確認を取ると、右の壁についていたスイッチに手をやる。簡素な音と共に部屋に明かりが灯されるが、電球が古いものなのかぼんやりとどこか暗い印象がある。いや、と白狼叉は右目にしかない眼球で部屋を視る。

(気が重い、余計な気配が寄ってきてやがる)

 電気のせいだけではない、と胸ポケットにしまっていた煙草を取り出して素早く火を点けた。小さく吸い込み、大きく煙を吐き出す―――普通の捜査なら通常有り得ない行動である。しかし、白狼叉にとってこれは必要な行為だった。煙を嫌がる浮幽霊や魑魅魍魎の類を祓うには煙草の煙というのはうってつけなのだ。そして、嗅ぎ慣れた煙草であれば白狼叉はそれ以外のにおいを嗅ぎ分けることができる。

「鷹哉、俺が指示するまでパトカーで待ってろ」

「じゃ、通話にしとくか?」

「ああ」

 白狼叉はもう一度部屋に目をやる。どうやら煙の効果はあったらしい―――先程までの重苦しい空気は消え、煙草の煙があるにもかかわらず部屋にはどこか清涼とした雰囲気さえ取り戻していた。

『外見こそ古民家だが、引っ越す際に色々手を加えたみたいだ。土間はきちんとした玄関になってるし、左手にキッチンもあるだろ』

「ずいぶん小っちぇがな」

『一人暮らしなんてそんなモンだろう。特に料理が好きだったわけじゃなさそうだし』

 ひとつずつ明かりを点けながら白狼叉は確認していく。キッチンのあるスペースは自室を兼ねているようだ。テーブルの上には整えられた美術関係の雑誌やノートパソコンが置いてあったし、近くのクロークには薄っぺらいが布団もしまわれている。流し台を見てみると生ごみはきちんと処理されており、虫も何も湧いていない。冷蔵庫にも何も入っておらず、低い電気音がぶうんと静かな部屋に聞こえている。

「事件性は無いっつって、ロクに捜査してねぇなこりゃ」

『分かるのか』

「たぶん、風呂場が最初だ」

 キッチン兼自室の斜め向かいに浴室があった。ゆっくりとした足取りで廊下に出て、洗面所と浴室に電気をつけて中を見る―――中は至って普通の、一般的な家庭でよく見られるユニットバスだ。シャンプーとトリートメント、ボディソープ、メイク落としと一緒に浴槽洗剤が置いてある。浴槽には何も入っておらず、ぴかぴかのまま蓋を閉じられている。

『最初?どういうことだ』

「風呂場で血を流して死んだあと、死体が別ン場所に移されたんだ。別ン場所ってのはたぶん―――」

 浴室を出て、白狼叉はリビング―――調書によれば行方不明の女性がアトリエとして使っていた場所の扉を開ける。

「ここだ、この絵の前だ。ここに死体を運んだんだ」

『何のために?っていうかもうそっち行っても大丈夫か?』

「……ま、これ以上発見はねぇか。いいぜ、来ても」

 白狼叉は青い絵の前で片膝を折って床を確かめる。彼の目や鼻は常人のそれとは違う―――彼は視ていた。彼の目には血を流した死体の様子がぼんやりと見えた。運ばれた死体の損傷個所は二か所、首と手首だ。しかし、出血は浴室でほとんど終わっている。ここに運ばれた時にはもう血は止まっていたし、それだけ時間が流れている。床に血の痕がさほど残らなかったのはそのせいだろうか。

(違うな……)

 はあ、と煙草を潰して白狼叉が立ち上がると鷹哉が部屋に入って来た。

「白狼叉、大丈夫か」

「どうだろうな」

 白狼叉はこの能力を使うと、いつも気分が悪くなると言っていた。それは死体のグロテスクさのせいだけではなく生者のあらゆる生活が見えてくるからだった。プライベートもクソもない、生の〝におい〟に当てられるのだというが、今日は薄暗い明かりのせいか顔色がいつもより白く見えた。

「……この絵の前に運ばれたと言っていたが」

 鷹哉はイーゼルに立てられた絵画を見つめる。二メートル×二メートルの大きな絵画には、雨で濡れた青い花が丘に咲き乱れていた。

「ここで――――――喰ったのか」

 白狼叉は小さく「ああ」と頷いた。ずいぶん小さな肯定に、鷹哉は不思議に感じた。いつもの白狼叉であれば、皮肉げに笑いながら「そうだ」と自信と諦めを以て言うところだ。しかし、この自信の無さはなんだろう?

「まさか」

 白狼叉の反応に考えが思い至った鷹哉は相棒を見つめた。

「持っていったのか――――――頭を」



 走れど走れど景色は変わらなかった。業を煮やした梟和は、肩で息をする前島まえしまを電柱の影に押しやり「何があってもそこから出ないでください」と低く叫んだ。

「他の妖鬼ようきが応援に来るまで相手するしかない―――顔や手など決して出さないでください。下手すれば死にます」

 早口にそう言って、梟和は振り返りながらベレッタオート9を模した秘霊刀ひれいとうを構えた。鬼裂きれつの影響からか、ぬえとそこまで離れていないことに改めて苛立ちを覚える。どうやらこの鬼裂を生み出したものを倒さない限りは抜け出せないようだ。

「鵺、倒さないと抜け出せないタイプの鬼裂だ!やれるか!?」

『誰に聞いておる、あるじ!』

 梟和の掛け声に呼応し、鵺がレウスから離れる。前島はその声に痛む頭を押さえながら、ほんの少しだけ電柱から顔を出す。そこでは梟和の前に降り立った鵺の白い毛が逆立ち、ピリピリと張りつめた空気中に無数の電気が走っているのが見えた。

うごめく影に光閃ひかりひらめき、惑いの魔を祓え―――轟雷ごうらい!!」

 梟和が唱えてトリガーを引いたその一瞬、目も開けていられないほどのまばゆい光と轟音と共に鵺の体から無数の稲妻が迸る。鼓膜が破れたんじゃないかという音と衝撃が三回響き渡り、雷がレウスを貫いた。

 これが幻獣なのかと前島は目を見開いてその光景を凝視していた。カフェにいたときのあのずんぐりむっくりな―――あのぬいぐるみのような鵺が、今では巨躯の妖怪としてあの稲妻を放出したのが心底信じられない。梟和のコートがはためきを落ち着かせる頃には、あのプテラノドン型のレウスが黒焦げになって落ちているのが見えた。しかし―――

『鬼裂が消滅しないのう……』

 鵺は月を見上げ黄金の瞳を細める。

『おまけに〝まだ〟来るときた』

「脱出に順序があると思うか?」

『無いな』

「他の妖鬼が来ないのもそのせいだな」

 喉の奥でクッと笑う梟和の顔は、明らかに焦りを漂わせていた。

 レウスが作る特殊な亜空間、鬼裂。その形態はレウスによって異なるが、大きく分けて三種類ほど存在する。その三種類とは匣庭型・迷宮型・無限型と呼ばれ、匣庭型が一番ノーマルな鬼裂と呼ばれている。匣―――亜空間の大きさは比較的小さくさらに亜空間内もそれまでいた場所とまったく同じ構造なので、一般人でも逃げ切れる確率は高い。それに比べ迷宮型は前島が夕方に体験したような、亜空間内にそれまでいた場所以上に広くなっておりさらに迷路化しているものだ。迷宮型は中にいるレウスも対象を見失いがちだが、抜け出せない限り命の保証はない。そして一番厄介なのが無限型だ。亜空間の大きさはさほど広くはないが、その鬼裂を作り出した存在を倒さない限り消滅することがないのである。さらに、無限型は複数のレウスで作られることもあり、鬼裂内にどれだけレウスを倒そうと最後の一体まで倒さないと脱出することは例外を除いて不可能だ。

 そして、何より厄介なのは無限型の鬼裂を作ったのがレウスではなく、咎鬼だった場合だ。咎鬼が無限型の鬼裂を作るときは、ターゲットを確実に殺せると確信したからにほかならない。無限型の鬼裂は持続時間が長くないがどのタイプよりも隠密性に優れている。咎鬼にしてみればそれだけで十分なのだ。さっさと殺して食べて、人間の皮を被って妖鬼が来る前に逃げればいい。

『咎鬼がレウスを呼んだ、ということだろうなあ』

 困ったな、と鵺が溜め息を吐く。梟和と鵺は前島の方へと振り返った。梟和のその目は迷っているようだと前島には見えた。

「あなたの悲しみは本物のように見えました。俺はそれを信じたい。―――……前島さん」

「……」

「咎鬼になった美雨さんをあなたが匿っているのか、それとも、あなた自身が咎鬼なのでしょうか」

「……」

「どちらです」

 梟和の目は、あの鉄色から鵺と同じ金色になっていた。これは紛れもない妖鬼の特徴だ―――妖鬼になるとき、その人の目の色が変化する。今の梟和は人間としてではなく、妖鬼として前島と対峙していた。

美雨みうは……」

 前島は痛む頭から手を離し、その手で汚れていた顔を拭う。

「美雨は……僕が食べたから、もうどこにもいないんですね」

 その額には、ねじ曲がった真っ赤な角が額の薄い皮を貫いて伸びていた。

「そうです」と前島が笑う。

「僕が咎鬼です」

 真っ赤な涙を流しながら。



「元はといえば先輩がいけないんです、先輩、僕だけいじめるならまだいいのに美雨にも危害を加えかけたから」

「だから、僕が殺したんです。眠っていたから、お風呂に顔を押し付けるのは簡単でした。でも、美雨は僕が殺したんだと気づいたんです。だから、殺しました」

「でも僕、美雨のことが本当に好きなんです。愛してて、今でもずっと愛してるんです。だから、死んでとても寂しくて……つらくて……死体が……死体が腐っていくことにどうしても耐えられなくて……食べました」

「あなたが青頭巾の話をしてくれたように、僕も美雨を食べました」

「喉から血が溢れてました。手首からも。虫が湧く前に、こぼさないように歯を立てて舐めとっていきました。」

「血生臭くて、鉄錆びの味が口の中に広がりました。気持ち悪くて、でも、美雨が焼かれて灰になってしまうのが本当に嫌だったんです。だったら」

「だったら僕が食べてしまえばいい」

「僕の中でいっしょに生きていければいい」

「人ひとりを食べるのは本当に大変でした。でも、美雨は僕のお腹にいます」

「青柳さん」

「ねえ、どうしてでしょうね」

「お腹が空きました。喉が渇きました」

「あの日から人と同じ物が一つずつ食べられなくなりました」

「あなたも見ましたよね。僕はもう、コーヒーも飲めません」

「飲んでも味がしません。それどころか、砂を食べているような不快感と吐き気を催してくる」

「青柳さん」

「美雨は決しておいしくはなかったんですよ。甘くもないし、いいにおいもしない。ただただ血生臭くて、どろどろしてて、あぶらっぽくて」

「でも食べることをやめられなかった」

「青柳さん」

「喉が渇きました」

「妖鬼の血は、僕を満たしてくれますか?」

「青柳さん」


「おなかがすきました」


 次の瞬間、離れていたはずの前島が梟和の目の前に降りてきた。梟和は咄嗟に胸の前を銃身でガードすると、ガキン!!と硬い何かと衝撃が伝わった。よく見ると、前島の手の甲から赤黒い刃のように鋭い骨が突き出しているのが分かる。

(速い……!!)

 梟和の武器の特性上、接近戦に持ち込まれるとかなり不利になる。一応体術の心得はあるが、相手は飢餓状態の咎鬼―――とてもじゃないが敵うわけがない。しかも

『あるじぃぃぃぃぃぃぃたすけてぇぇぇぇぇぇぇ!!!』

(嘘だろおまええええええええ……!!)

 相棒の鵺は、新たに現れたプテラノドン型レウスと対峙―――というかやられてないかあれ―――している最中だ。ましてやこのスピードに長けた相手だと巨体の鵺でも不利になる。先程の轟雷をもう一度放ったとしても、レウスはともかく前島には当たらないに違いない。

 一度距離を取ろうと下がっても、前島は軽いステップで間合いを詰めて来る。助けたときとは大違いの身体能力も、人間であることをやめた咎鬼ならではの特徴だ。なんとかトリガーを引くが、当たる気配が全くない。

「青柳さん、僕、夢を見るんです。真っ赤な夢、死肉を食べる夢。骨を掻き分けて、石榴のような肉の粒をおいしそうに食べるんです。渇いた喉が潤って、でも、そこに美雨はいないんです」

 斬りつけながら前島が喋り続ける。心底おかしそうに笑っていた。泣いたり、笑ったりと情緒の不安定さも狂いかたも鬼そのものだ。だが―――

(この違和感はなんなんだ)

 今まで相手してきた咎鬼と前島は明らかに違った。彼らは一様に自分のためだけに人を殺して喰らってきたし、前島も恋人に対してそれを行ったと供述している。咎鬼である以上、人を食べたことに間違いはないはずだ。しかし、彼は本当に恋人である美雨を殺したのだろうか。

「正気が狂気に変わっていく。僕が僕でなくなっていくことに、青柳さんは耐えられますか?僕はもう彼女の顔を思い出すこともできません―――ねえ、あなたは妖鬼なんでしょう?僕を殺しますか?僕を殺せますか?ねえ」

「……!」

「僕はもう渇きに耐えられないんですよ」

 前島の刃がまっすぐ梟和の額に向かう。梟和は飛び下がりながら、次の行動に出ていた。

「―――吹き祓う風、神と化為り」

 梟和の詠唱と一瞬で張りつめた空気に前島は斬りかかるのをやめて、間合いを取る。

「白き女神よ、すべてを滅喪めっそう神風かみかぜとなれ―――ウンディーネ!!」

 詠唱を終えた瞬間、白い風がいくつもの太刀筋となって前島に襲いかかった。闇雲に風が暴れ回り、鵺に攻撃していたレウスもその風に当たると無数の切り傷を作りバラバラになっていった。―――水と風の精霊、ウンディーネ。その中でも梟和の持つウンディーネは非常に気性が荒い。彼女の風は繊細なものではなく、激しい嵐の暴風そのものだ。それが風の刃となって敵を斬りつけていた。だが。

「……っ!?」

 突如肩に走った痛みに梟和は咄嗟に飛び下がる。すると足元を抉るように、見えない刃が梟和のいた場所に叩きつけられコンクリートにヒビが入った。この暴風の中で、前島が攻撃をしてきているのだ。

「下がれ鵺、ウンディーネ!!」

 ウンディーネの起こすこの風では立っているのもやっとだ。梟和の声に風がようやく止むと「残念」と前島が笑っているのが分かった。「風は首切り鬼の特権ですよ青柳さァん」

「鎌鼬のような風ならまだしも、嵐のような風では少々荷が重いんじゃないですかねェ」

「首切り鬼……!」

 風を操るという首切り鬼に、梟和は驚愕しつつ納得していた。首切り鬼はその名の通り、首を落とすことに長けている。風に身を紛れさせ、真空の刃で首を落としていくのならウンディーネの暴風ではその太刀筋は見えることができないだろう。むしろ、ウンディーネを呼び出したことで前島にとって都合が良い状況になってしまったのである。最悪だ。

『悔しいけどアイツの言う通りだわ!そりゃこっちに攻撃届くわよ梟和のバカぁ!』

 明らかな戦略ミスに、霊力消費を抑えて小型化したウンディーネがぽかぽかと梟和の頭を叩く。

『アタシの風じゃ真空は防げない……というか相性最悪よバカぁ!』

『すまんがあるじ、彼女とあやつの言うとおりだ。属性が分からなかったとはいえ、むやみに風を使うべきではないといつも言っておるだろう』

「ごめんて……」

 泣きっ面に蜂とはまさにこのことである。怪我を負った梟和を心配するどころか説教を始める幻獣達に、さすがの梟和のメンタルもダメージを負ったようだ。傷を増やしてどうする。

「後悔ならあの世でやってもらえますか」

 赤黒い刃を構え、前島が踏み出してくる。さてどうするべきか―――迫りくる前島に梟和が右耳に手をかけたそのとき、乾いた破裂音と共に世界が音を立てて崩れた。



「――――――!?」

 前島の手の甲から生えていた刃が根元から砕け散り、鬼裂の歪な世界が崩れて戦闘の跡形もない住宅地に戻っていた。

「早く鬼裂を作らないと、今度は別の妖鬼が来ますよ」

 夜の暗い道、街灯の明るさよりも月の光のほうが強く感じられるその道の先にその少女は立っていた。鴉よりもずっと不吉な、死の静寂を纏わせている声音。

「もっとも、その前に終わらせます」

 黒いウルフカットの髪に、黒いセーラー服。眼鏡から覗いた瞳は妖鬼へと変化した銀灰色で、その右手にはS&W M19―――別名コンバットマグナムという銃を模した秘霊刀が握られている。

「不知火さん……!?」

「すみません、遅くなりました」

 しれっと謝ったのち、「カメラの用意したのになあ」という瑠依の意味深なぼやきが梟和に聞こえた気がしたが、なんとなく状況を察した。

 無限型の鬼裂から抜け出せる唯一の例外とは、外から鬼裂を破壊してしまえばいいということだ。身も蓋もない解答であるが、それがどんなに困難なことか梟和は知っている。そもそも鬼裂と現世の境目というのは一般人はおろか、並みの妖鬼でも区別がつかない。気付いたときには鬼裂の中……ということがほとんどであり、外から鬼裂を見つけるということはほぼ不可能に近い。それに、鬼裂を破壊したところで中の咎鬼やレウスが死ぬわけではない。あくまで一時しのぎや中に閉じ込められた一般人を救出しやすい状況を作る目的だけで、咎鬼にもレウスにも逃げられてしまうのでほとんどの妖鬼は鬼裂を破壊するということはまずない。しかし、これが無限型の鬼裂の場合―――梟和が陥った状況では効果を発する。咎鬼が鬼裂を作ろうとすればそれだけ力を消費し、再び構築するにも余計な力を必要とするばかりか妖鬼に居場所を教えているようなものだ。だから彼女は言ったのだ―――「今度は別の妖鬼が来ますよ」と。

(しかもこの人、鬼裂どころか中にいた前島さんごと撃ってるんだよな……)

 このセーラー服の少女―――不知火瑠依にはそれが見える能力があることにほかならない。

前島晴士まえしませいじさんで間違いないですね?私は四神霊法局霊法課よつがみれいほうきょくれいほうかの不知火といいます。梟和さんへの援護と、特別派遣捜査課よりいくつか確認したいことがあってこちらに参りました」

 前島が新たな鬼裂を構築していても、瑠依はマグナムを構えたまま淡々と言葉を紡いでいく。

「梟和さんの連絡から捜査員が坂代美雨さかしろみうさんのアトリエに向かったところ、美雨さんの血液と思われる反応が出ました」

「青柳さん、家族からの電話かと思ったらそんな電話してたんですね。まあでも事実です、そこで僕は彼女を食べ―――」

「浴室とリビングの二か所で食べる必要が、最初は分からなかったと捜査員の人たちは首を傾げていました」

 その言葉に前島の目が見開き、目にも止まらぬ速さで瑠依の首を掻き斬ろうとした。しかし斬るのは空ばかりで、瑠依は梟和と共に彼の背後へと回り込んでいた。

「さらにリビングにあった絵画の中から不思議ものが発見されました。それも鍵で―――しかもそれは前島さんと坂代さんのおうちのものではない」

「不知火さんそれって……」

 梟和の言葉に瑠依は頷く。「前島さんの会社の先輩だったという、戸次とつぎさんという方の住むアパートの鍵でした」

「何故その鍵があなたではなく、坂代さんの家に―――それも絵画の中に隠されていたのか。その答え合わせをして来いと、捜査員の方から頼まれています」

 前島は振り返りなおも斬りつけかかるが、その動きは焦りそのものだった。まるで瑠依の言葉を聞きたくないというような動きでは、彼らを殺すことは不可能だった。二人は軽い足取りでそれを避け、前島から距離を取る。

「結論から始めます。戸次さんを殺害したのは坂代美雨さんであり、そして自殺した坂代さんを食べたのが前島さん―――ではないかと」

 一つずつ話します、と瑠依は前置きをして続ける。

「坂代さんのお話からします。死体そのものは発見されていませんが、現場の捜査員からは『手首を切ってしばらくしたあと、首を掻き切って死んだ』そうです。そのあとリビングに運ばれ、恐らくそこで喰われたのかと。自殺した死体をあなたは食べて咎鬼になったことが伺えますが、しかし何故坂代さんが亡くなられたのか分かりません。でも戸次さんの家の鍵はある

私は詳しい事情は分かりませんが、この鍵がある以上坂代さんと戸次さんに何らかがあったと考えることは容易いでしょう。しかしお互い本来他人で、前島さんというパイプが無ければ決して繋がることはないです。前島さんと戸次さんの関係は先輩後輩というものらしいですが、あまり良い噂はありません。戸次さんにいじられている……もっというなら虐められているというものです。特に戸次さんが亡くなる一週間は、前島さんに仕事を押し付けてさっさと帰ったとか」

 だから前島さんにはそもそもアリバイがあります―――教えてもらった情報を瑠依が紡ぐ。

「あなたではまず戸次さんを殺せません、だから警察も余計に事故とみなしたのでしょう。しかし、ここには鍵があります。繋がるはずのない二人が繋がってしまう。では浮気でしょうか?それはないでしょう、浮気だったらそもそもこんな風に鍵を隠したりはしないんじゃないでしょうか。どこかの川に投げ捨ててしまえばいい。でも鍵は隠されてはいましたがこうして残っています。だからこれは、メッセージになるのかなと」

 その言葉に前島は赤い涙を流して、笑った。

「『戸次は私が殺したのだ』と?なんのために?そんなことをしたら美雨が警察に怪しまれてしまうじゃないか」

「怪しまれれば怪しまれてそれでいいんです。坂代さんの目的は恐らく、前島さんに容疑がかからなければそれでいいんです。そしてできれば、戸次さんが死んだのは自分が殺したからだと知ってほしかったのではないでしょうか」

「わからないな、どうしてそんなことを―――……」

「あなたが戸次さんが亡くなったことに、ひどく悲しんでいたからです」

 その言葉に、前島どころか梟和も絶句した。


―――ねぇ、アオくん。君は誰かをうんと憎んだり、むしろうんと憎まれたことはあるかい?

―――……ああ、うんと憎んだこともあるよ。

―――うんと憎んだし、今も憎んでる。でももうどうしようもないんだけどね


 前島が語った、美雨からの言葉が脳裏を過る。親ではない誰かを憎んでいると彼女は言っていた。しかしそれが、戸次のことだったとは信じ難いし、信じてしまえば彼女が何故自殺したのかを認めてしまうことになる。

 前島のために戸次を殺し、

 嘆く前島を見て罪悪感に苛まれ、美雨は死んだのだと。

「―――妖鬼が知ったような口をきくな!!」

 咆哮にも似た叫びと共に、前島は両手からあの赤黒い刃のような骨を出すと眼前でクロスさせて宙を切りつける。迫る真空の刃に瑠依は大きく飛び下がって回避すると、右手の中指に着けていた指輪を前島に向けた。

「暗雲を切り裂く一条の煌めきよ、裁きの閃光により不浄なる地を貫け」

 さあ、と瑠依が詠唱し終えた瞬間、道を照らしていた月の光が何かに遮られた。前島はその巨影に言葉を失う。

「おいで、ケツァルコアトルれっちゃん

 翡翠色の大きな翼に白い体躯を持った20メートル超のケツァルコアトルが、大きく口を開けて前島に襲い掛かった。

「ひっぃ……うあぁぁぁああぁあぁぁああ!!」

 逃げる間もなく体を捉えられ、蛇特有の鋭い牙で腹部を貫かれる。ごふ、と血反吐が喉をせり上がるが吐き出す隙を与えられず地面へと叩きつけられた。人間であれば絶命している頃合いだが、人間ではない咎鬼はこれでもまだ死なない。

 いや、死ねないのである。首を切らぬ限りは、驚異的な回復力を持つ彼らは人間を食べてさえいればこの程度の傷はすぐに塞がってしまうだろう。しかし、目の前で地面に叩きつけられた前島はどうだ。僅かに傷が塞がっていくものの、それよりも出血のほうが多いことが分かる。

「前島さん、あなたは」

 梟和は言葉をかけずにはいられなかった。

「俺たちに殺されたかったんですね」



 酔っぱらった戸次をよく自宅まで送るうちに、前島には彼の家の鍵が渡されるようになった。しかし、その鍵を失くしていたことに気付いたのは戸次が亡くなってからだ。

 あの日、アトリエにこもると言っていた美雨からの突然の電話に、前島は少なからず動揺していた。彼女から電話をかけてくることは滅多になく、それが作品制作中であればなおのことありえなかった。美雨は寝食を忘れてしまうというより、寝食を捨ててまで作品に没頭する。作品それ以外のことは煩わしいのだといつか言っていたが、このときばかりは前島は急いで彼女のアトリエへと走った。終電を終えた電車が倉庫に戻っていくのを横目に彼は走り、ようやくタクシーを捕まえてたどり着いた頃には彼女は既にこと切れてきた。

 救急車を呼んでも、もう間に合わないことぐらい前島にも分かった。湯に浸された片目は白く濁っていたし、床も壁も天井も赤い飛沫がついた凄惨な状況でまだ息をしていたらそれこそ恐怖だ。

 警察を呼ぼう、死んでいると分かっていても救急車も呼ばなくては。けれど前島は動くことができなかった。ただ美雨の亡骸を抱きしめたまま、座り込んでいた。

「―――なにが、やくそくだよ……終わるって、そういうことであっちゃだめだろ……」

 彼女の手元に携帯電話が落ちていた。あの電話はここでされていたのだ―――寒いと言っていたのは恐らく、血が溢れ続けていたせいだろう。美雨のことだ、と前島は濡れた彼女の前髪をそっとよけてやりながら思う。手首を切るだけでは遅いと感じ、さっぱり死のうと首を掻き切ったに違いない。

 涙は不思議とこぼれなかった。ただひたすらに彼女を抱きしめていたが、せめて別の場所へと思いアトリエへと運んで気が付いた。絵画の存在と、そして隠されていた鍵の存在に。

 そのときまだ絵具は完全に乾いておらず、奇妙な膨らみから覗いていたそれに前島は気づいてしまった。指を汚しながら絵具をそっと掻き分けていくと、それは失くしたと思っていた戸次の家の鍵だった。どうしてこんなところに、とイーゼルの縁に何か紙が貼りついていた。

『Blue,forget me not』

 タイトルだけ見てしまえば、これは『青い忘れな草』という意味にしかならないだろう。『forget me not』というのは忘れな草の名称であり、また花言葉だ。しかし、忘れな草という花は一部を除きそのほとんどが青い花とされているためわざわざ〝Blue〟をタイトルにつけることはない。ならばこれは一種のメッセージではないかと仮定する。愛称が〝アオくん〟である青年に向けた、メッセージであれば―――……


アオくん、わすれないで


 美雨の声が聞こえた気がして、前島は理解してしまった。彼女の言わんとしてることを、彼女が残したものを。

 その瞬間前島は獣のような咆哮をあげて泣き崩れた。きみが殺すことなんてなかった、あれはかわいそうな事故なんだ、きみが傷つくことなんてなかったんだ。どうして僕に何も言わずいってしまうんだ、どうしてひとりできめてしまったんだ、かえってきてくれ美雨。みう、


「呪いですよね、私を忘れないでなんて」


 失くした鍵と、コーヒーと、睡眠薬。―――戸次が死んだ現場にはコーヒーが捨てられていた。あの中にきっと自分が使っている睡眠薬を入れたに違いない。ではどんなタイミングだろう?考えるまでもない、どんなタイミングでもよかったのだ。彼がコーヒーを淹れて、トイレに行くために席を離れるまで、家のどこかで息を殺して隠れていればいいのだから。湯についてもそうだ、寝てしまえばいつでも浴槽に溜めておけるしなんなら浴槽まで連れていかなくてもいい。水道水が肺に入っているという事実が大切なのだ。この家で死んだという事実が。

 戸次の死体が発見されれば誰かが前島を疑うかもしれない。だが戸次が死体になったとき前島にはアリバイがあるし、この部屋には鍵がかかっている。彼さえ疑われなければいいのだ。

 事なかれ主義の前島は、誰かをひどく憎んだりましてや殺そうと思うことはない。不満はあれど、嵐が過ぎ去るまで耐えられればいいのだ。戸次はたしかに自分をいじっていたが、面倒をみてくれる場面も多々あったし自分にはないポジティブさを羨んだこともある。だから、その戸次が亡くなったと聞いて前島はひどいショックを受けた。そして彼を引き留めなかった自分を前島は責めた。あのとき仕事を手伝ってくださいと言っていたなら、もしかしたらこんなことにはならなかったかもしれない。

 そして、美雨でさえも。自分が仕事を変えていれば、誰かを殺したいと思うまで憎むこともなかったかもしれない。嘆く自分のせいで命を絶つこともなかったかもしれない。

 もう帰らない。もう戻れない。

「美雨……」

 泣き叫んで、喉が掠れていた。このまま警察に行ったらどうなるだろう、とぼんやり思った。捕まるならそれでもいい、しかし美雨の遺体はどうなる?見も知らぬ者達に解剖され、整えられ、そうして焼かれて灰になって……

(嫌だ)

 温もりを失った彼女を見つめる。今はここに肉体があるのに、灰と骨しか残らないなんてそんな悲しいことがあるのだろうか。あんなに語り合った唇も、ピンクに染めた髪も残さず燃えて思い出だけしか残らないなんてあまりにも切なすぎる。

(嫌だ、いやだ……いやだ……)

 抱きしめる腕に力が入る。朝陽が昇ったら、この部屋は暖かくなる。防腐処理を行わなければこの亡骸もいずれは腐臭を放つだろう。

(いやだ……いやだ……)

 喉が渇いていた。彼は憔悴しきっていた。彼女の罪を受け止めきれないでいた。

 何も受け入れることも、認めることもできず彼の思考はいつしか袋小路にいた。

(美雨にいなくなってほしくない……のどがいたい……灰と骨だけになった父さんと母さん、あんなに少なかった……少なくなってほしくない……でも、彼女が悪いなんてことがあっては……いけない……)

 前島はがぱっと口を開いた。剃刀で切り裂かれた喉に嚙みついて歯を立てていた。どこかに埋めることも捨てることもできず、ましてや焼くことすらも拒んだ彼の解だった。何度も何度も吐き戻しそうになったが、吐けば無駄になると思って飲み込んだ。何も残さないように、何にも群がらせないように、焼かれていなくなってしまわないように。噛んで、噛んで、飲んで、啜って、肉と骨を掻き分けた。

 人ひとりを食べることがこんなに体力を使うものだと思わなかった。単なる50kgほどの肉ではない―――骨と臓物が詰まった肉である。味わいだとか、舌触りなどというものを感じることもなく、ただただ作業に没頭した。彼女をこの世から物理的にいなくさせるための作業に、前島は3時間要した。

「……美雨、いなくなっちゃった」

 食べ終わり、口を拭いながら前島は呟いた。

「どこに行っちゃったんだろう」

 ごく自然な動作で絵画に鍵を戻し、前島は何事もなかったかのように部屋を掃除し始めた。またこんなに汚しちゃって、と呟きながらあらゆる汚れを落としていく頃には夜明けを迎えていた。会社には体調不良で休むと言おうと思いながら、重たい荷物を抱えて彼は家へと歩いて行った。誰も歩いていない街は、ブルースクリーンがかかったかのような青色をしていた。

 戸次のいない会社、美雨のいない日々は彼の精神を徐々に蝕んでいった。ある日突然亡くなった先輩の仕事の引継ぎは、慣れない仕事に前島を終業後の会社に何時間も拘束したし、ある日突然行方不明になった彼女を探しにあちこちに奔走させた。彼女の家族が娘を疎んでいた事実に直面しながらも探すことをやめられなかった。そうして疲れ果て、腹が減って何かを口にしようとしても口に入れたその料理の不快感に前島はトイレで毎晩吐き出した。美味い不味いではない―――食べ物ではないものを無理やり食べているような気色の悪さである。甘味も酸味もなく、ただただ泥を食べているような感覚だった。最初は肉が食べられなくなった。肉という肉―――牛・豚・鶏・羊だけではなく魚すらも見るのが苦しくなった。それだけならまだよかったが、食べられないものが一つずつ増えていくのが不可解でならなかった。野菜も一種類ずつ食べられなくなり。昨日食べられたものでも次の日食べられないことも多かった。しかしそれを前島自身が不思議に思うことは無かった。「おいしくないなあ」「食べられないなぁ」とぼんやり思う程度で、人間の食事を拒絶していることに気付いていなかったのである。

 ある日毎日会社から疲れ果てて帰宅する中で、前島はゴミを漁っていたカラスをふと見つめた。鴉も生きるためにゴミを漁ってまで何かを食べようとしているだとか、こんなに散らかしては掃除も大変だな、とも思わず

「ガア、」

 生きているやわらかい肉だ、と気が付けば鴉を縊り殺していた。とはいえ、彼が殺したという自覚はなく、「鴉の死体がある、どうしてだろう?」という疑問と恐怖だけがそこに残った。咎鬼特有の破壊衝動だが、前島は自分が咎鬼になったことを分かっていなかったので自分の意識の外の出来事に関してはまったく頓着していなかった。あくまでも他人がやったことであって、自分ではない。猫を殺しても、公園の遊具を壊してもそれは同じだ―――彼は自分自身の中にいる鬼から目を背け続けたのである。

―――今日に至るまで、前島は美雨が死んだことを忘れていた。崩壊しつつあった精神に拍車をかけるように、レウスが現れるまでは。



「……あなたは、今の今まで咎鬼ではなかった。だからいま、泣いているんです」

 梟和は呟くように言葉をかけていた。人間として、人間を喰らい尽くした。それでも肉体は人間から異形へと変異し続けている中で、前島はヒトとして活動することができたのは皮肉にも彼女を食べたことを忘れていたからだ。

「レウスはあなたの中の衝動の箍を外すために現れた。しかし、あなたは思い出さなかったし、人間でした。殺そうと思えばいつだって俺を殺せたはずなのに、それすらもしなかったのは覚えてなかったからだけじゃない。誰も殺したくないし食べたくない―――その思いだけで抑えていた」

 しかしその理性も今や風前の灯だ。咎鬼になっても鵺や梟和を騙せたほど〝人間らしかった〟彼の精神は擦り切れ摩耗してもなお、死を切望している。この苦痛がやがて、彼を完全な異端へと変えてしまうだろう。

「こんな俺ですみません。もっと早くに気付けば良かったんだ、俺に会う前も会ってからも死にたがっていた。―――だって鬼は、泣かない」

 ベレッタオート9を再び構える梟和。瑠依もそれにならい、ケツァルコアトルの頭を一撫でしてマグナムを構える。

「何もかも奪います。何も残しません。だから」


―――だからもう、眠りなさい


「……ああ……」

 その言葉に、流していた血色の涙がふっと透き通った色になった。

「っ……ありがとうございます……」

 それはあまりにもやわらかな笑顔だった。誰も殺すことができず、弔うこともできず、ただ食べることしかできなかった男の最後の理性であり

「―――ひ、トごろシ」

 人間だった最期の言葉だった。

「人殺シィイイイィィィィイイイィィッッ!!」

 反転した瞳と穿たれた腹から異形の口を向けて前島だった者が叫びながら猛然と走ってくる。

「鵺、装填完了」

「ケツァルコアトル、装填完了」

 二体の幻獣が白い弾丸と翡翠色の弾丸となって、互いの秘霊刀に装填される。鵺とケツァルコアトルの持つ属性は雷。梟和と瑠依を囲むように光が溢れ、そして二人の銃口へと集約する。

―――契約士。召喚士のような幻獣ただ一体のみを召喚するのではなく、血の契約を交わした幻獣を何体でも現実に召喚することができる、いわば召喚士の上位互換。しかし決められた詠唱であればどんな幻獣を呼び出せる召喚士とは違い、幻獣そのものとまず契約をしなくては力を借りることができない。そして、瑠依と梟和は秘霊刀が銃であるので特定の人物への魔法および攻撃を仕掛けたいときに幻獣を霊力と共に弾丸化している。


「闇を祓え」

「翳を祓え」

「清らかなる光が」

「白き雷鳴と共に導かん」

「「連弾〝明けの明星〟―――発射ファイア」」


 同時に発射される弾丸は空中で弾け、その瞬間雷を纏った鵺とケツァルコアトルが爆発のような雷撃を放った。

―――雷は〝神鳴〟とも表記されたように、膨大なエネルギーそのものだ。電圧は最大10億ボルトに達し、温度は約3万℃と太陽の表面温度である5500℃を軽々と越える。それが幻獣ともなればその威力は計り知れない―――直撃した前島の肉体は一瞬にして炭と化し、塵になって消えていった。

 黒いセーラー服が揺らめきを落ち着かせる頃には鬼裂は消えていた。

「人殺し、か」

 ケツァルコアトルを指輪に帰還させながら、瑠依はふっと笑った。

「上等。―――…だって私たちは、暗部だもの」

―――魂とは元々エネルギーである。それを分解し天国や浄土と呼ばれるところへ運んでいくのが死神である。エネルギーは純度の高いものが天界では尊いものとされているので、輪廻転生させることで純度を高めていく。しかし、その輪廻転生させていく過程で出てきた不純物は処理されなければならないのだが、天界はこれを穢れとみなして処理してこなかった。これが異常粒子である。それが集まることで高位の霊体を作り、世界に巣食うレウスとなるのである。レウスを倒すことは、エネルギーを元ある形に戻して天界と呼ばれるところに還していることになる。しかし、異形は何もレウスだけに留まらない。

 人から生まれ人から成り人を喰らいそして咎鬼と呼ばれている。レウスを倒すこととは違って、咎鬼を殺すことはすなわち人を殺すことに変わりはない。そしてそれは一般の霊法課の隊員でも対処しきれない事案である。だからこそ彼らが、四神警察庁霊法局霊法課の翳、暗殺のための第零部隊が存在している。

 第零部隊は隊長である麻生蝶之介あそうちょうのすけを筆頭に、咎鬼や咎鬼に関わる事件へ干渉する。咎鬼を殺し、そして時には人間を殺す〝国家に認められた人殺し〟だ。

 そして彼らの喪に服すその姿から、黒衣の狩人と呼ばれている。

「私たちは人殺しなんです。……忘れちゃだめですよ、梟和さん」

 瑠依と梟和は、契約士と呼ばれる妖鬼の中でも特殊な技能を持った妖鬼だが、瑠依の実力は梟和を圧倒していた。そんな瑠依の言葉はとても悲しい響きをしているのは、それでも殺した相手が人間だったからだ。

 最後の最後まで人間だった。―――それが悲しい。

「……すみません」


―――そんな慣れ、悲しいですよ。もっと胸張っていいんですよ、青柳さんは。私はあなたのおかげで今ここにいられるんですから


 そう言ってくれた人はもうどこにもいないのだ。

「そういえば梟和さん、怪我のほうは大丈夫ですか?まだらめで治しましょうか?」

「大したことはないんですが……まだらめってたしかユニコーンでしたよね?あれ女性限定じゃなかったでしたっけ」

「やれと言えばやるかもしれないので……」

「うーん曖昧」

 肩の傷は塞がっているようだった。妖鬼の回復力は咎鬼ほどではないが、かすり傷程度なら短い時間で治るのだ。梟和が遠慮しておくと、少し離れた道の先からクラクションの音が聞こえた。赤色灯がくるくる回転しているパトカーが、二人のそばにゆっくりと停車した。

「成人が未成年をこんな時間まで連れてたらだめだぞ」

「鷹哉兄さん!?」

「危ねぇから、保護すっぞ保護」

「白狼叉さん!」

 パトカーに乗っていたのは特別派遣捜査課の鷹哉と白狼叉だった。特別派遣捜査課は第零部隊との繋がりが強く、鷹哉にいたっては梟和の実の兄である。年齢は10才ほど離れてはいるが。

「蝶之介の指示でな。近くにいるなら乗っけてやれって」

 二人がシートベルトを着けたのを確認して、鷹哉はパトカーを発進させる。ゆっくりと加速し、パトカーは住宅街をぬけようとしていた。

「不知火さんもお疲れ様、うちの弟が世話になったみたいで」

「いえ全然そんなことは……私が来たときには梟和さんがほとんど終わらせてくれていたので、」

「瑠依」

 瑠依の言葉を遮って、白狼叉が問いかける。

「答え合わせ、できたか」

 問いかけというより、それは確認だった。軽い口調なのに、有無を言わせない気迫があった。

「―――はい」

 だから瑠依は、少し背筋を伸ばしてそう答えた。その返事に納得したのか、ふうと溜め息を吐いたのち白狼叉は話し始める。

「俺たちは梟和の連絡を受けた蝶之介の指示で、坂代美雨のアトリエを捜査していた。確かに坂代美雨はあの場で死んでいる痕跡があったし、彼女の被害者にあたる戸次義孝の自宅の鍵もあった。だがな……結局のところ、坂代美雨が本当に戸次を殺したかどうかは分からなかった。彼女はどこまでも黒に近いグレーのまま終わっちまった。確かに鍵はキャンバスに隠されていたし、副鼻腔炎の薬の副作用である眠気を利用して自分の睡眠薬をコーヒーに混ぜてそうではありそうだったが……それでも、どこまでもグレーなんだよ。戸次の件は事故として片付けられてるから資料も少ねぇし、もう新しい入居者もいるからこっちで捜査も不可能だ。でも前島晴士は坂代美雨がやったんだろうと思ったから、喰った。それぐらい普段から危うい彼女だったのかもしれない」

 梟和は彼女のことを話していた前島を思い出す。彼の表情は穏やかであったが、出会ったきっかけを思い出せば美雨が戸次を恨んでいてもおかしくはない。戸次という男は美術を馬鹿にするばかりか彼女の作品を傷つけようとした。たしかにそれがきっかけで前島と付き合うことができたが、それはあくまで結果論だ。そして、戸次は日常的に前島をいじめていた。積りに積もった憎しみが、あの残業を押し付けられていた件で溢れたのかもしれない。そして、残業を押し付けているなら彼は家にいるはずだろうとも。

「……前島さんがすべてを知る頃にはもう終わってしまっていたんだ。見て見ぬふりをしていたのかもしれないけど」

 梟和は呟くようにそう言った。「見て見ぬふりだ?」と問いかける白狼叉に、梟和は窓の外を眺めながら続ける。

「前島さんは現実逃避というか、あえて見ない・あえて考えないようにしているようでした。事なかれ主義って言うのかな……いじめに関しても『いじられている』と言っていましたし、深く考えないことでストレスを溜めないようにしていた感じです。でも、人が死ぬときにかかるストレスというのは大きいものです。普段はなんでもないように過ごしていたのに、戸次さんが亡くなったときのショックがあまりにも酷かった」

「……」

「苦しいから、悲しいから見ないように考えないように―――最終的に、彼は美雨さんが亡くなったことも忘れていました。食べたことを思い出しても、顔を思い出せないと言っていました。……完全な咎鬼化はせず誰も殺さずに今の今までいられたなんて、皮肉な話ですが」

 誰も殺さなかったからこそ、殺せなかったからこそ彼の中の歯車は狂い始めたのかもしれない。

「顔についてはちと違うかもな」

 白狼叉の軽い口調に、梟和と瑠依は助手席を見遣る。

「アトリエには喰われた形跡はあったが、どうにも足りない情報が出てきた。だもんで、ここに来るついでに前島の自宅に向かったんだが、どうやらそこにあったらしい」

「……もしかして」

 ごく、と息を飲む瑠依。「頭部が?」という声に、白狼叉は頷く。

「冷蔵庫にあった。アイツの能力か何のせいかは分からないが、腐敗もそこまで進んでないし体液も出てない綺麗な首があった。ま、顔の半分が湯に浸ってたみてぇだからいくらかふやけてたり白目だったが、状態としてはマシなほうだろ」

「……首だけどうしても食べられなかったってことですか」

 首から下は食べることができたのに、とは梟和は言えなかった。前島は彼女を深く愛していたし、彼女もまた前島を深く愛していた。前島は咎鬼の衝動があっても、どうしても美雨の頭だけは食べたくなかったからこそ忘れてしまっていたのだ。もしかすれば、彼女のいた証を残しておきたかったかもしれない。坂代美雨という女性は、絵画の他に残せるものが無かった。

「食べられなかったのかあとの楽しみかは知らないが、首は残っちまった。このあとのことはお前と蝶之介に任せていいんだろ?」

 含みを込めた白狼叉の言葉に、梟和は頷こうとする。だが、隣で話を聞いていた瑠依が「待ってください」と梟和を見つめる。

「梟和さん、今日お昼からずっと仕事しっぱなしじゃないですか。夕方のレウスはまだしも咎鬼まで……あとは私が引継ぎますから、今日はもう休んだほうが……」

「―――……」

 瑠依の言うことはもっともだ。前島を助ける前から、梟和は別件で仕事を二件ほど引き受けていたし霊力の消耗が激しかったせいもあって眠気がちらついている。瑠依といえば今日はこの仕事以外は何も無かったし、翌日の学校以外に予定はない。

「いや、俺がやるから不知火さんは先に帰って大丈夫だよ」

 梟和はそう言って、少し笑った。

「急だったとはいえ休んでる不知火さんに来て貰っちゃったし、明日も高校あるんでしょ?今日全部済ますワケじゃないし、俺ひとりでも大丈夫だよ」

「でも……」

 なおも言いすがろうとする瑠依に、梟和は視線を助手席に座る男に向ける。

「それに、〝これ〟を不知火さんにさせるのは酷だ」

 白狼叉は何も言わなかったが、梟和の言わんとしていることを理解して「そーかよ」と怠そうに返事をした。

「つーわけだ鷹哉、目標は瑠依の家だ」

「今向かってる」

「でも、梟和さん……」

「―――俺は大丈夫、また後日霊法課で会いましょう」

 うまく笑えただろうか、と梟和はぼんやりとした頭でそんなことを思った。瑠依の心配そうな小さい返事に、うまくできなかったみたいだと梟和は細く息を吐いた。



 翌日の天気は、憎らしいほど晴天だった。こちらのほうが助かるとは思うが、気温の上昇を感じてコートで来たことを後悔したくなる。しかし、この恰好は彼にとって必要なものだった。日常と非日常の切り替えは大事だ、と梟和は常々感じている。普段の恰好のまま仕事をしても問題はないが、ふと「この服で誰かを殺したな」と思い出してしまう。そうなると、常に自分が戦場にいる気がしてならなくなってくる。それは不便なので、特に学生であるうちは他人とのコミュニケーションがうまくできるようにわざわざこのような恰好をしているのだ。

 誰が見ても不吉で、誰も近寄らないような黒。けれど喪に服すものを。


「Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee…

E'en though it be a cross That raiseth me

Still all my song shall be,

Nearer, my God, to Thee, Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee……

Though like the wanderer, The sun gone to down,

Darkness be over me, My rest a stone

Yet in my dreams I'd be

Nearer, my God, to Thee, Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee……」


 ぼんやりとゆっくりとしたリズムで歌を口ずさんで、梟和は煙草に火を点ける。―――彼が今いるのは撤去前のアパートだった。誰もいないアパートは静かに朽ちており、錆びの浮いた手すりは今にもぽっきりと折れてしまいそうなほど脆く見えた。二階に上がるための階段の半ばで彼は腰を下ろして煙草を吸う。静かに息を吸って、長く煙を出すと『なんだそれは』と鵺が足元に顕現する。

『なんの歌だ』

「聖歌。―――第260番『主よ身許みもとに近づかん』讃美歌のほうだと320番だったかな」

『……あるじ、カトリックの民だったか?』

「いいや?」

 梟和は煙草を離して鵺に説明する。

「母さんがそうだった。むかしはよく隼和と一緒に教会に連れて行かれたけど、最後まで肌に合わなかったな」

『ふむ。では、何故その歌を?』

「これは、葬儀の曲……というより、追悼のための歌だから」

 タイタニックでもあったろ、と言えば鵺は大きく頷いた。鵺はよくテレビで映画を観るのだ。先日放送されていた名作に彼も納得する。

『あるじ、続きはせんのか』

「忘れた」

『……音楽隊は弾いておったのに』

 鵺は呆れるも、まぁいいかと視線を前に戻す。遠くで立ち昇る黒々とした煙に溜め息を吐いた。

『まともな葬儀ができんぞ、あれでは』

「いいんだ。誰かに弔ってもらうだけでも今回はそれでいい。美雨さんの遺体が無い前提だったけど、首が残っていた以上こうしたほうが誰にとっても分かりやすくなるっていうのが上の見解だから」

『……そりゃたしかに前島の会社のものにも、女の家族にも分かりやすくはあるけども』

「行方不明のままだとまた誰かが爛れるからな」

 消防車のサイレンの音が聞こえてきた。梟和はゆっくりとメロディーを口ずさむ。

―――出るはずのない首が出てきたことにより、当初の『全員行方不明』という計画は崩れた。

 前島が咎鬼かもしれない―――と、蝶之介に相談したとき彼の頭には既に計画が練られていた。美雨の遺体が残っていない場合と、そうでない場合。そして前島の遺体を残すか残さないか。霊子異常による他者への干渉問題があり、咎鬼の遺体は基本的に残さないほうが良い。また美雨の遺体があったとしてもさほど問題ではないと判断した。前島に見立てた別の遺体もしくは泥人形を使って、美雨の生首と共にアトリエを焼けばいいという判断を下したのである。

「兄さん的には、会社で諸々あったことと美雨さんの自殺が原因の後追い自殺……っていう風になるって言ってた」

『女の自殺がそううまく証明できればいいがな』

「もちろんそのへんはうまくやるって白狼叉さんも言ってたし、そもそもそのための特別派遣捜査課だしな。ここから先のことは俺の仕事じゃない」

 梟和の仕事はその仮の死体をアトリエに運び、家が燃えやすいように細工をすること。自殺をするために燃やしたように見せかけることが、昨日までの仕事だ。あとはきちんと豪快に燃えてくれるか見守るだけ。

「……これで美雨さんも前島さんも弔ってもらえるんだ。行方不明でも生死不明なんかじゃない、正しい葬式ができる」

 がらがらと盛大な音を立てて燃え落ちる様を、梟和は見ている。―――瑠依にこの仕事を引き継がせなかったのはこのせいだ。彼女の実家はかつて一度小火ぼやを起こして火事になりかけたことがあるせいで、彼女自身火事が苦手なのだ。もちろん、仕事となれば別だがわざわざトラウマをほじくり返すほど梟和も鬼ではない。

「……俺だけでいいよ、こんなのはさ」

 ぽつりと呟いて、梟和は短くなった煙草を消した。その辺に捨てようかとも思ったが、鵺のきつい視線に苦笑を一つ漏らして携帯灰皿に入れる。もうそろそろ帰らないと午後の授業に間に合わないだろう。

『あるじ』

「ん?」

 短い腕を伸ばして鵺が抱っこをせがむ。

『我もいるぞ』

「……」

『我もいる。ひとりではないぞ』

「……ああ、そうだな」

 鵺を抱き上げ、お気に入り場所である首の後ろに鵺を置く。人の目には見えないやわらかな感触を味わいながら、サイレンを背に彼は街を歩き出していた。鴉の羽搏きにも似た、コートをなびかせて。



おわり





参考文献

「怪異の民族学4 鬼」小松和彦責任編集

「ビギナーズ・クラシック 日本の古典 雨月物語」上田秋成 佐藤至子⁼編(2017)

「お葬式の日本史」監修・新谷尚紀(2003)青谷出版社

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