夜を往く者

砂河喜一

第1話「CryingEvil・上」

 Blue, forget me not



 お願いですから助けてくださいと叫んだとき、あの人は困った表情をしながらそっと手を伸ばしてくれたことが嬉しかった。



 赤い道をひたすら歩いていた。どろどろと赤黒く、ただ広いだけの空間を僕は歩いている。道と呼ばれる道はないように見えるが、ほんのうっすらと糸のように細く光っている筋があるのだ。それが僕をどこかへと誘っているので、それに従って歩いていた。

 歩いていると、目の前に白い椅子がこれでもかと詰まれているのが見えて来た。まるで椅子の山だ、遠回りしようという気も起きず僕はその椅子をひとつひとつ掻き分けて行った。椅子は予想に反してとても脆く、掻き分ける度にポキポキと音を立てて割れていく。とても乾いた音が耳に心地良い。無心になって掻き分けていくと、椅子の山の向こう側がようやく見えて来た。頭を入れて狭い道をどうにか抜けると、そこは真っ白な空間だった。雪のように真っ白な空間に、整然とパイプ椅子が並べられていた。

 そこは葬式の会場だった。大きな遺影と百合の花が飾られているが、遺影には誰も映っていなかった。僕の手にはいつの間にか大きな花束があったので、パイプ椅子の脇を通って祭壇まで歩を進める。焼香台に花束を置いて、焼香をしようと箱を覗くとその中には宝石のように赤々とした実が詰まっているのが分かった。それを見ると、歩いてきた疲れもあって僕は喉が渇いていることに気が付く。これはここまで来ることができた人のために設置されたものだ、と僕はなんとなくそう思って実に手を出して口に入れた。ぷちぷちとした食感と、瑞々しくそしてどこか酸味のある実に喉が喜んだ。僕は無我夢中でそれを食べる。子どもの頃に食べた石榴だ―――たしか学校の写生会で使うからと言って買ったんだっけ。懐かしいなあとふと顔を上げると、遺影の後ろから黒い炎が立ち昇っているのが見えた。火事だろうか、それにしては煙が出ていないし、なにより禍々しい。

 早く逃げなくちゃ、と足を動かそうとして気が付く。黒い炎は僕の足元から出ていた。熱いどころか冷たい炎は会場も、遺影も、花も僕自身を飲み込んで黒に塗り潰していく。やめろ、やめてくれ。声が出ない―――出せないのだ。どろりと粘着質な炎が喉まで来ていた。

 そうして世界が黒に塗り潰される瞬間、絶叫と共に僕はようやく夢から覚めるのだ。





 前島晴士まえしませいじは逃げていた。迫りくる巨大な手から全力で逃げていた。どろどろとした赤黒い空間はそれまでいた住宅街と同じなのに誰一人として人間がいなかった。狭い路地に入り身を隠すと、巨大な手はドドドドドと大きな音を立てて通り過ぎて行った。

 何故自分がこんな目に遭っているのか――――――膝を抱えて一時間前のことを思い出す。


「前島、顔色悪いし今日はもう帰ったらどうだ」


 崎本さきもと課長は人柄の良い上司として職場で人望があった。仕事の出来も良く、部下の体調や家庭の事情など考慮しており、こうして具合の悪そうな者にもちょくちょく声を掛けている。

「今日すぐに提出するという仕事はないだろ?あとはこっちでやっとくから、もう帰って休んでおけ」

「すみません……ではお言葉に甘えて……」

「……あまり気負いするんじゃないぞ」

 目を伏せて物憂げな表情をする上司に、前島は曖昧に笑いつつそそくさと退社した。今年で26歳になる前島は、うだつの上がらないサラリーマンだ。弱気な性格は昔からで、高校生の頃もそして大学の頃もそれでよくいじられたものだった。いじられ慣れすぎて自らその役に回ったほうが楽だったところもあり、自虐に走る癖がついている。就職難と呼ばれたこの時世に運よく今の会社に正社員として就職できて3年ほど経つが、後輩に舐められないようにふるまうことを現在の目標にするくらい自分に自信がなく、どこかおどおどしていた。

 そしてこの日もいつもの電車に乗り、いつもの道を歩いて帰宅していたはずだった。夕方に退社してあっという間に夜だ、と空を見上げたはずなのに空は何故か赤黒かったのだ。慌てて周囲を見回すと、空だけでなく周囲もまるでフィルターがかかったようにどこか赤黒かった。そして地鳴りのような音に前島が振り返ると、あの3メートルはありそうな巨大な手が迫って来ていたのである。まさか自分が、と前島は膝を抱えていた腕を緩めて顔を上げる。

 この都市―――四神学園都市よつがみがくえんとしでは、度々このような事件に巻き込まれることがあるのだという。異形が人間を襲うという不可解な現象があり、決してそれは他人事ではないはずなのだが人間というものは何故か「自分は大丈夫だろう」と根拠のない自信を持ってしまう悪癖があった。前島もそれは例外ではなく、「とにかく変な空間に入り込んだら出口まで逃げれば大丈夫」という呑気な考えがあった。実際に起きてしまえばそれどころではないことは明白であるはずなのに、だ。

(噂だと、変な空間には出口があるって話だったっけ……化け物に食い殺されるか出口を見つけるしかないならそりゃ出口一択だけど……出口ってどこだよ……!)

 何の変哲もない住宅街のはずだった。見た目こそ先程いた住宅街だが、所々おかしな路地があったり狭い場所があったりと迷路化していた。こんな場所であの巨大な手から逃げ続けること30分―――そろそろ体力的にも精神的にも限界だった。前島はおそるおそる立ち上がり、壁からそっと顔を出してみた。どこかで走っている音は聞こえるものの、自分がいる場所より幾分離れているように聞こえた。今しかない、と壁伝いに前島は歩き出した。ここでじっとしていてもいつかは見つかってしまうように思えたからだ。近くに来ないかと、あの地鳴りのような音を確認しつつとにかく足を動かす。何もしないよりはマシだ―――そう思いながら進んでいくと、遠くに見覚えのある白い光を見た。

(あれは……いつもの道にある電灯だ!)

 赤黒い世界との境目なのか、電灯がゆらゆらと揺れているように見える。前島の全身は一気に希望に満ちた。あそこにさえ辿り着けば、自分は帰れるのだ!元の生活に、日常に、この悪夢から現実に!

 前島は走った。運動はからっきしだし、腿は急な運動で既に悲鳴をあげていたがそんなことはどうでもよかった。今はそれどころじゃない、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるんだと必死に彼は全速力で走った。前島の逃げるその気配に気付いたのか巨大な手が後方から追って来た。化け物との距離はおよそ80メートル、出口と前島との距離はおよそ200メートル―――――肺も足も心臓も悲鳴をあげていたがここで挫けてしまえば死が待っていた。いや、文字どおり死が迫って来ているのだ。無我夢中で走り、涙も唾も気にしている暇はない。開ききった目が乾いて痛い。あと50メートル、というところで前島の視界は地面で埋め尽くされた。躓いたのだと気づくまでにたっぷり2秒は要した。

 地鳴りは迫って来ていた。急いで起き上がろうとして彼は気づいてしまった―――躓いたのではなく、地面から生えていた手が前島の足を掴んで引き留めたのだと。

「ひっ、い」

 その手はまるで生まれたばかりの赤ちゃんのようだった。小さくて、肉がつまってパンパンに膨らんでいるものが、何本も地面から生えて文字どおり前島を足止めしていた。なんとかもがいて離れようとして、スーツの裾を掴んでいる腕のそのうちの一つを踏みつける。腕は恐ろしいほど簡単に破裂して、中の血肉が飛び散る様に前島はもう泣きそうだった。

 巨大な手が迫って来る。巨大な手だと思っていたが、よく見ると無数の手が折り重なってひとつの大きな手を作りあげていた。そしてその一つ一つ手に口があり、ばらならに並んだ黄ばんだり黒ずんだりしている汚らしい歯を見せている。

『ほしい』

『ほしい』『ほしい』『ほしい』

『ほしい』『ホシイ』『ほシい』『欲しい』

『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』『ほしい』



『よ』『こ』『せ』



 無数の口が口々にそう言って、腕が足を止めて―――もうなにがなんだか分からなくて

「■■――――――!!」

 何を叫んだのかすら、前島は分からなかった。だから彼は気づかなかった。

「顕現せよ炎の巨人――――――ムスッペル」

 片手で持つには馬鹿げた大きさの、化け物じみた拳銃が火を吹き化け物に向かって弾丸が射出される。弾丸は炎のように赤く、朱く――――――空間で弾けたと思った瞬間、そこには手の化け物以上におかしなものがいた。

「は、はぁ!?」

 上半身は北欧のヘルムを身に着けた筋骨隆々の男で、その下半身は白く逞しい馬―――人馬である。

「ハァッハッハッハッハッハァッ!!!!!」

 およそ5メートルはありそうな人馬は笑いながら背中に身に着けていた二本の巨大剣を抜き取ると、ホシイと囁く化け物に向かって蹄を鳴らして突撃していく。手の化け物は無数の手を伸ばしてその突撃を止めようとするが、人馬はそれをものともせず頭が痛くなるような大声で大笑いしながら剣を振るって腕を薙いで行った。目の前の光景に貧血を起こしそうになったが、今のうちに逃げようと前島が身体を動かそうとしたそのときだった。

「―――っは、」

 鴉が来たと、前島は思った。

「――――――」

 真っ黒なコートに、真っ黒なスーツ。グロッシーブラウンの短く刈り上げた髪に、銀色の化け物じみた拳銃をその青年は持っていた。

「動かないで」

「へぁっ!?」

 青年は前島の足元にその銃口を向けると、躊躇いもなく引き金を引いた。前島は目をつぶって顔を逸らしたが、軽くもなく重くもない乾いた音が二つ響いたあと「伏せていてください」と青年はそう言って前島に見向きもせず化け物に向かって走る。前島は恐る恐る目を開けて見ると、纏わりついていたあの小さな腕が地面に転がっていた。

「コアが中心にある!腕が邪魔だ!!」

 人馬の後方から青年が叫び、彼に向かって伸びて来る腕を撃ち落としていく。

『ハァッハッハッ!!ならば雑草は任せよ!!』

 人馬は蹄を鳴らすと、手の化け物の周りをぐるぐる回りながら剣を振り退路をも断った。スパスパと軽快に腕を落としていく様は一種の爽快感すら覚えそうなほどであったが、剥きだしになりつつある腕の中身は、どろどろに溶けた多くの人面の煮凝りでできていたことに前島は口元を押えて吐き気をこらえた。あれはきっと、今まで喰って来た人間でできているに違いない―――老若男女問わず、無数の人相が溶け合っている姿はあまりにも惨かった。口の無いその顔が、恨みがましそうに―――そして怯えるように青年と人馬を睨みつけている。青年はその二体の化け物に臆することなく、人馬の胴体を踏み台にして―――空中へと跳躍した。

「灰に還れ」

 そうして発射された三発の弾丸は正確にその人面達を貫き、化け物は内側から爆発するように燃え上がった。飛び散ると予想された血肉は思いの外飛び散ることはなかった―――飛び散る前に、燃え尽きて灰になっていた。化け物が燃え尽きる頃には、あの人馬はいなくなっておりいつの間にか世界も赤黒い世界からいつもの夜の住宅街へと戻っていた。

 チカチカと、電灯の白い光が瞬いている。そんな日常と、非日常の境界のような青年に向かって前島は叫んでいた。

「お願いだから助けてください!!」



「とにかく、少し落ち着いて下さい前島さん」

「これが落ち着いていられますか!」

 ―――場所は住宅地から変わって、駅近くのコーヒーショップのチェーン店。時刻は午後8時を越えているにも関わらず、若い人で賑わっていた。しかしそんな中で前島はただ一人パニックから立ち直れていなかった。

「あなただって見たでしょう!?あんな手だらけで……っていうか手の化け物が襲い掛かってきて……なんか馬鹿でっかい銃と馬であなたが倒して……っ。何なんですかアレは!?ってかあなたも一体何なんです!?」

「だからこそ少し落ち着くべきです……そういえば自己紹介がまだでしたね、俺は霊法課れいほうか青柳梟和あおやぎきょうやといいます。そしてあなたに襲いかかったのは高位霊体異常粒子こういれいたいいじょうりゅうし―――通称、レウスというモンスターです」

 梟和と名乗った青年はそう淡々とした口調で言うものの、前島の目が分かりやすく丸くなっていたので小さく溜め息を吐いたのち説明することにした。

「レウスは通常、幽霊と変わらない存在ですのでフツーの人には見えませんし、肉体もありません。しかし、エネルギーを得るために人間を捕食する際に現世に〝鬼裂きれつ〟という空間を生み出します。その空間でなら、レウスも肉体を維持することができるし、そこに入った人間ならレウスを見ることができますので前島さんはあのレウス……タイプ的には千手羅と呼ばれているアレを見ることができたのです」

「捕食される人だけが見える……」

「まあそんな感じですかね。レウスというのは、人間の憎悪や妬み苦しみといった負のエネルギーが変異した霊子です。存在し続けるためには魂や肉体といったエネルギーを摂らざるを得ないんです。生きているものが何かを食べて生きているように、レウスは人を食べます。しかし、それは本来自然の摂理ではない。レウスはただ魂やエネルギーを消費するだけで、そこから生み出すものはありません。だから、我々〝妖鬼ようき〟から成る霊法課がレウスを討伐しています」

 ようき、という言葉に前島は首を傾げた。「おに、ですよね」

「妖鬼って、人間なんです?」

「一応人間ですね。鬼や妖をることができ、かつ戦おうという意志を持ったときに力を下賜されるのです。わかりやすく言うと、戦うときだけ不思議な力が使える人間の総称ってとこでしょうか」

「……プリキ〇ア的な」

「せめて仮面ラ〇ダーでお願いします」

 似たようなものじゃないか、と前島は言わなかった。ただ理解が追い付かずがっくりと肩を落とした。

 ―――つまるところ、自分はうっかり鬼裂に入ってしまったがゆえにレウスに襲われたのだ。たまたま妖鬼の梟和が近くを通りかかり鬼裂に気付いたから助かったようなものである。

「霊法課ってあまり聞いたことが無いんですが、あの、警察的なものでしょうか」

「警察的というか……まぁそうですね、国から認められている対レウスの機関です。正式名称は四神警察庁霊法局霊法課よつがみけいさつちょうれいほうきょくれいほうかといいます。ほぼレウス討伐が任務ですが、まあ普通に生活を送っている分にはあまり聞かない名前と機関だと思います。基本的にレウスによる一般人への被害が出る前に、討伐しているので」

「……」

「名刺要ります?」

「いや……大丈夫です……」

 前島は首を振って遠慮しておいた。できれば二度とあんな体験はしたくないし、できれば警察の世話にもなりたくなかった。

(まっすぐおうちにかえりたい……)

 目の前であんな体験をした以上、梟和の言うことに間違いではないのだろう。怪しい宗教や詐欺ではないことは確かだ。

 襲ってきたレウスというモンスター。

 助けてくれた梟和という霊法課の妖鬼。

 その何もかもが理解に追い付かないし、それがこの四神でよく起きているというのなら自分は何も知らなすぎた。

「前島さん、別に無理に理解して貰わなくても大丈夫ですよ」

「えっ」

 前島の不安を見透かしたように、梟和は軽い口調でそう言った。「そういう職業ですし」と梟和はコーヒーを一口飲む。

「正直なところ、疑われることには慣れています。人生で初めてレウスに襲われたそのあとに、こんなことを理解してくれなんて急に言われても戸惑うでしょう?」

「そりゃ……そうじゃないと言ったら嘘になりますが、でも、青柳さんは私を助けてくれたのにそんな態度とるのは失礼じゃないかなって……」

「……優しいですね、前島さんは」

 ありがとうございますと言った梟和の表情が、どこか切ないものだったのはきっと気のせいではないのだろう。

「妖鬼は、巫女より下賜された武器―――秘霊刀ひれいとうと呼ばれる武器でレウスを討伐します。武器の形は様々で―――俺の場合銃ですが―――妖鬼であればいついかなる時でも取り出すことができます。そのせいか、人殺しだとか凶悪犯だとかいろいろ言われることが多いですね。一応、秘霊刀というのは人間に攻撃することができないんですけど、そういうのはたぶんあの人たちにとって関係ないのでしょう。武器を持っていたら、加害者―――まあ、分からなくもないんですけどね」

「……大変なんですね、妖鬼って」

 彼は、多くの誰かをレウスから守ったり戦ってきたりしたのだろう。しかし、その多くからは感謝ではなく非難の声があがっているのはなんだか酷く理不尽な気がした。

「もう慣れましたけどね。いちいち聞いてへこんでいたらキリがないでしょう」

「そんな慣れ、悲しいですよ。もっと胸張っていいんですよ、青柳さんは。私はあなたのおかげで今ここにいられるんですから」

「……ありがとうございます。そう言われると嬉しいです」

 梟和はマグカップを置くと、それまでの表情から一転して真面目な表情を前島に向ける。

「ところで前島さん、あなたの身の回りで変わったことは起きていませんか?あの時間、あの通りにレウスが鬼裂を張ったという警報はまだ発動されなかったんです。そうなると、もしかしたらあのレウスは前島さんを狙ってあそこに鬼裂を張ったのかもしれません」

「え、えっと……?」

 急に問われた内容が頭に入ってこない。梟和はその反応に慣れたのか、呆れる素振りをすることもなく「警報というのは」と説明をする。

「よく大雨洪水警報とか地震などでアラートが鳴りますよね?あれと似た通知です。機関で鬼裂やレウス等の確認が察知されたときに、その周辺にいる人に通知が届くようになっているんです。ただレウスが出現しましたとかではなく『一時通行止め』等の文面になってしまうのですが……見かけたことはありますか?」

「あっ、それならあります。『事故のため一時通行止め』とか『工事のため迂回してください』とか……あそこ工事なんかしてたっけ?って思いましたが、そういうことだったんですね。でも、なんでレウスが出たと書かないんです?」

「迂闊にレウスが出現したからと記載すると見に行ってしまう方も多いというのと、鬼裂の範囲がどの程度のものかまでは現地に行かないと分からないことがあるからです。……それで話を戻しますが、前島さんがレウスに襲われていたあの時間帯は確認したところ警報が発動されていませんでした。察知から警報が発動されるまでの時間は正直判断が難しいところですが、鬼裂は一時間も二時間も張り続けることができないというのとあの鬼裂の中にいたのは前島さんだけだったので、もしかすると前島さんを狙って鬼裂を張った可能性があるのです」

 まだ可能性の段階ですが、と梟和は言葉をきった。

「鬼裂はどこにでも張れる、というものではないのです。基本的に屋外、そして暗い場所。蜘蛛の巣をイメージして下さると分かりやすいかもしれません。蜘蛛の巣というのは、大通りでは作ることができませんよね?鬼裂も同じです、鬼裂は大きければ大きいほど機関に察知される可能性も高くなるし、それだけのエネルギーを消費しなくてはいけません。狭くて暗い場所で待つ―――これがレウスの基本的な行動ですが、前島さんの場合は比較的広い場所に鬼裂を張っていました。住宅地ではありますが、そこまで人通りはない場所で鬼裂を張るとなると―――何かしらの縁がなければそこまで狙われることもないんじゃないかなって」

 そこまで言われて、前島はようやく差し迫った身の危険に気づいた。運悪く鬼裂に入ったわけではなく、そこを通る自分を狙って鬼裂を張ったのだとしたら―――命の危機はまだ、過ぎ去っていないのだ。

 とはいえレウスに狙われるようなことを自分はしたのだろうか?レウスとの縁など想像もつかない。

「そうですね……小さい異変とか、身の回りでそういうのは無いですか?たとえば事故が多くなったとか事件に遭いやすいとか」

「!」

 ハッと顔を上げた前島の表情に、梟和は「やっぱり」と小声で呟く。

「あるんですね?」

「もう、半年前のことでしょうか―――……」

 コーヒーに映る自分が、ひどく困った表情をしていた。



「私の二つ年上の先輩に―――戸次義孝とつぎよしたかという男の先輩がいたんです。体育会系って言ったらいいのかな、上下関係に厳しい割に同じ運動部ならなぁなぁで済ますようなそんな感じの人がいたんです。仕事を覚えられないのはやる気が無いからだとかよく言って、私はよくいじられたもんですが。教えかたに問題があるような気がするけど……いや、そういう話じゃないんです。戸次先輩が半年前に、亡くなったんです。なんかほんとに、ほんと……急に、何の前触れもなく……」

 その日は雨が降りそうな、重い曇天の日だった。いつもスポーツバイクに乗って早めに来ている戸次が来ず、誰もが無断で休んだのかと思っていた。前島もSNSのチャットアプリで「大丈夫ですか?」と連絡してみたものの、一向に既読の通知もつかないことから段々不安になってきた。そして昼頃、連絡が繋がらないことにしびれを切らした部長が戸次の住むアパートに向かったところ、浴槽に沈んでいる彼を発見したのだという。

「なんか未だに先輩が死んだなんて信じられなくて……。だって生きてることを精一杯楽しんでそうな人が、『週末にデート行くんだ』なんて言ってた人がこんな呆気なく死んじゃうんですよ?誰かに殺されたのかなって思う人も、少なくなかったんです」

「でも、そうじゃなかったんですね?」

「警察は事故だと言っていたのを、部長から聞きました」

 前島は部長が言っていたことを梟和に伝える。死後はおおよそ半日で、戸次の死因は溺死。入浴中にうっかり寝てしまい、そのまま沈んで溺れたのだと警察はそう断言した。

「戸次先輩は副鼻腔炎がひどくて、薬を服用してました。たしかにその薬の成分に眠くなる作用があるとは聞きましたけど、なんか釈然としなくて」

「どうしてです?」

「先輩って、浴槽に浸かる人だっけ?って」

 しかし、現場に不審な物は特に発見されなかったという。現場も荒らされていることも無ければ、誰かいたという形跡も見られなかった。そして、胃からも普段服用している薬の成分が発見されたということもあって警察は事故死だと述べた。

「前島さんは戸次さんのご自宅に行かれたのですか?」

「ええ、部長とご家族の方と一緒に遺品整理をしました。その前にも、酔った先輩を送り届けたこともあります。先輩、お風呂に入る前にコーヒーを二杯も飲んだのにやっぱり寝ちゃうなんて、相当疲れてたんだろうなってみんなで言ってました。死ぬ前の一週間は残業続きでしたから……」

「お仕事、お忙しかったんですね」

「あまり滅多にあるものでもないんですけどね。私もいつも帰るのが終電ギリギリで大変でしたが」

 苦笑する前島は、「でもそのすぐあとかな」そう言って再び表情に暗い影を落とす。

「先輩が亡くなってから、身近で何か死んだり壊れている物が多くなったような気がします。ほんとに気のせいかもしれないんですが……ゴミ捨て場や路地で野良猫や鴉が死んでいたり、近所の公園の遊具や車が壊されているなんてことがありました。なんか物騒だなって思ってたんですけど、別に自分に害があるわけじゃないしそれこそ対岸の火事じゃないですかそういうのって。でも……」

 うだつが上がらない自分にも、という言葉は酷いが本当にそうなのだと思っていた。こんな臆病でいじられキャラの自分にも彼女がいるのだ。……いや、〝いた〟というべきか。

「そのしばらくあとに、付き合っている彼女が……美雨みうが、行方不明になったんです。美雨はアーティストというか、その、油絵で個展を出しているような子なんです。私も彼女の個展で会ってから、その、お付き合いにまでなったんですが……美雨はよくスケッチブックとペンを持って出かけるんです。修行と言って一週間……すごいときには二、三か月は帰ってこなかったり連絡入れてこないような自由な子なんです。だから、今回もきっとそのひとつだと思っていたんです」

 他人である梟和に話すべき内容じゃないかもしれない、と前島はそう思いながらも話すことをやめられなかった。この不安を、誰かに聞いてもらいたくて仕方がなかった。

「しばらく連絡がなくて、ああいつもの修行かなって思ったんです。でも修行をするときは一応『出かけて来る』とか『しばらく潜る』とか言ってくれてたからなんか変だなって……不安になって美雨の家に―――彼女、大きな絵を描くから一緒には暮らせなくて―――行ったんです。でも、スケッチブックもお気に入りのペンも、ボロボロのリュックもスマホも充電器も置きっぱなしでこれは様子が変だと……」

 前島はすぐに彼女の両親に連絡をしてみた。美雨は両親とさほど仲が良いというわけではなかったが、それでも連絡せずにはいられなかった。しかし……

「美雨は家を出て行ってから一度も帰って来たことが無かったし、連絡も全然していないと彼女の両親は言ってました。一応、交友関係も洗ってみたんですが……どれもダメでした」

 警察にも捜索願いを出してはみたものの、今の今まで全く進展が無いと前島はそう言ってがっくりと肩を落とした。「青柳さん、」と出した声は僅かに震えていた。

「先輩が亡くなったのも、美雨がいなくなったのも……これもレウスの仕業なのでしょうか。あんな化け物のせいで、こんなに日常が脅かされてしまうんでしょうか?」

「無きにしも非ず、と言ったところでしょうが……」

 ひどく落ち込む前島に、なんと言葉をかけたらいいのか分かりかねた梟和が頭を掻く。

(さて、どこから説明したらいいものか)

 傍から聞いていれば、とんでもなく不憫で不幸なサラリーマンとしか思えないほどの悲惨な体質と感じた梟和だったが、どことなく何か違和感を覚えていることも事実だ。彼の周りで何が起きているのか―――いや、起きようとしているのか。

『まあ、咎鬼とがきの可能性があることを言ってみるにこしたことはないかの』

 重たい沈黙から、好々爺のようなほほんとした声がどこからともなく聞こえた。前島はハッとしてキョロキョロと周囲を見渡すが、どこも若者だらけで老人の姿などない。

「やっぱりそこからかなあ」

『とはいえ、咎鬼が狙うほどのヤツには見えないがなァ。ま、そこは人の縁というものもあるか』

「まだ決まったわけじゃないしな」

 梟和が見えない誰かと会話しているのか?と、ふと視線を梟和の隣に向けて前島はそこに何かがいることに気が付いた。

「……!?」

 それはずんぐりむっくりとした猿―――の、ような生き物だった。顔の毛は黒いが、その他は白くふわふわとした毛並みで体型はまるで子供のペンギンのようだが、その尻尾が光沢を持って動いていることで前島はつい凝視してしまった。そして短く悲鳴をあげて、指をさす。

「……!~~~!?……ッッッッ!!!?」

 それは蛇だった。ぬいぐるみの猿のような見た目で、生きている蛇の尻尾を持った化け物が梟和の隣にいつの間にか鎮座しているのである。ぬいぐるみの化け物は前島の視線に気付いたのか『ふむ』と彼に向かって頷いた。

『あるじ、どうやら前島は我のことが視えているようだ。まずは我の説明をしたほうが良いのではなかろうか』

「あっ、視えてたんですね。すいませんつい癖で」

 梟和のあっけらかんとした態度に、前島はますます驚きを隠せない。とりあえず何度か深呼吸をしたのち、「何ですかそれは!?」と小声で尋ねた。妙に気を遣う男である。

「いきなりそんな、ぬいぐるみ……何も持って無かったですよね!?」

「ぬいぐるみじゃなくて、ぬえです。幻獣げんじゅう……って言っても伝わらないな、えーと……味方の妖怪って言えば伝わります?」

『言い方がひどいぞあるじ……』

「他に言い方無い気がするけど。俺と契約している妖怪で、前島さんが言ったように普通は視えない存在です。俺に助言してくれたり、なにかと顕現するんですが……それでも霊力の低い一般人には視えません」

 俺が独り言を言っているようにしか見えないでしょうね、という言葉に前島は目を擦っていた手を止める。

「前島さん、今までこういった妖怪や幽霊を視たことは?」

「無いに決まってるでしょう!?何もかもが今日初めてですよ!!」

『鬼裂に入って、一時的に視えるようになった感じだろうかの』

「そんなことってあるんです!?」

「鬼裂は、この世とあの世の境目のような不安定な亜空間です。少なからず影響する人も少なくないとは聞きます。大体三日ぐらいでまた視えなくなるので生活に支障はないですよ、たぶん」

「たぶんって」

 今でさえこうしてひとり慄いているというのに、こんなものが日常にごまんといると想像しただけで引きこもりになってしまいそうだった。もう家から出ないほうが安全なのではなかろうか。しかし、梟和の言うことが本当なら、三日で済むならどうにか我慢できなくもない……かもしれないと、バクバクとうるさい胸を前島は押さえた。

「鬼裂の中で、レウスの他にムスッペル……馬とヒトが合体した生き物がいましたよね。彼らは幻獣といって、本来は俺達の住む世界とは別の空間で暮らしています。彼らと契約することで、戦闘時に召喚してレウスを倒しているんです。ムスッペルは出力を抑えても元々巨体なので、鬼裂や他の結界内でしかなかなか使えませんが」

「日常でも幻獣は視えないんですか?」

「俺の持つ霊力を与えれば、視えない人でも視えるようになる―――というか顕現して実体化するので普通に存在することになります。今は実体化していない霊体という状態ですが、いわゆる霊感が強い人なら視えたり声が聞こえたりするみたいですよ」

『今はお前さんしか我のことは視えてないし、我の声も聞こえてないみたいだがの。さて』

 前島と梟和が周囲から変に思われないよう、鵺が梟和の膝の上に乗る。こうしてみると、本当にぬいぐるみのような見た目だと前島は思った。しかし、中身が老人のぬいぐるみでは恐らく女子ウケはしないだろう。

『お前さん、咎鬼に狙われているかもしれんな』



 鬼とはかつて、みやこに蔓延る魑魅魍魎や病魔を指した。〝鬼〟という漢字も、最初の点が無い漢字であったり、〝於爾〟や単純に〝おに〟と表記されていたりしていた。しかし、仏教が日本に入るとともに表記も〝鬼〟と浸透し、角が生えて虎の毛皮でつくった下着を履き、金棒を持った現代でも通ずる姿形が固定されるようになった。

『しかし鬼というのは本来の性質上、異形であり特定の形を持たぬ存在であったり、神と対をなす力を持ったりするモノだ。そしてそれは人間の目には見えないもの……通常であればな』

 怨霊や魑魅魍魎が蔓延った平安時代にまだ〝レウス〟という言葉は無く、妖怪や物の怪が出たと言っては力ある者が討伐していた。

『かつて〝妖鬼〟という漢字は〝妖貴〟であった。知性があり、権力があり、何より力を持った貴族が奴らを視ることが多かったからだ。そして陰陽師の力を借りたり、弓や剣を用いてそれらと戦った。しかしそうしているうちにな、魂が穢れていく妖貴が増えだした。魂が血に汚れ、恨み、憎しみといった負の感情に囚われ、精神を追い詰められ……そうして鬼になりだしたんじゃ』

 鬼になりだした妖貴を見て人々に混乱が生まれた。鬼とは異界からやって来るものではなく、身の内から生まれてしまうもの―――それも妖貴から生まれてしまうのならば、本来の敵は妖貴ではないのだろうか?

『混乱、混沌……実に阿鼻叫喚地獄絵図だったと我は耳にしている。人間が人間を殺し、その憎悪は連鎖して鬼が増える。かくして京は鬼の棲む場所になってしまった。そこで、ひとりの陰陽師の妖鬼がこう言ったのだ』


―――見鬼の才を持ち、戦える者を〝妖貴〟とするのではなく〝妖鬼〟としましょう。鬼になった妖鬼は、守護していくうちに魂に咎を背負い過ぎたのです。咎を背負い過ぎた鬼、これを咎鬼としましょう。これは戒めです。魂まで堕ちぬよう、そして力に溺れぬよう努々忘れぬように。


『咎鬼は妖鬼からる―――神の棲む高天原に、浄めの力を寄こせとその陰陽師が秘霊刀を作らせた。普通の武器では魂の穢れまでは落とせぬと踏み、そしてそれを扱う者も妖鬼のみに限定した。―――それから今に至るまで、妖鬼と咎鬼という言葉がある。では現代の妖鬼も咎鬼になってしまうのかと言ったらそれは違う、咎鬼はどの人間も成り得てしまうものだ。もっとも最近じゃ〝境界〟に漂う高位霊体異常粒子が、何らかの反応を起こして人体に取り込まれたときに人間が人間でいられなくなる現象―――ともされているようだが』

 何らかの反応とは何か、と言葉を引き継いだのは梟和だった。

「その多くは、〝人喰い〟にあります。人が人を食べることで、魂が穢れ、そこに異常粒子が取り込まれたことで鬼に……いや、咎鬼と成る者がほとんどなんです」

『ま、人を喰ろうただけで必ず咎鬼になるというわけでもないがな。しかし、鬼の性質のほとんどは人喰いにある。そして、咎鬼になってしまえば自分の欲が満たされるように行動し始める。人間社会にあるまじき行動だからのう……最初は抑えようとしてもいずれ理性が擦り切れ、自分の欲求を追うようになるだろう。その欲や負の力に魅かれてレウスが現れることもある』

「さらに、咎鬼は無差別に人間を襲いません。咎鬼になれば高天原機関……通称T機関に異常粒子が検知され、霊法課の妖鬼へ通達され討伐されかねません。だから、襲うときは慎重になります。咎鬼になって初めて人間を襲うならなおさらのことでしょう」

『じゃから咎鬼になりたての咎鬼は、縁の近しい者を襲う』

「家族、友人、恋人、会社関係……下手に無差別殺人を行えば、その分だけ警察や霊法課に怪しまれます。だからできるだけ証拠を隠滅しやすい関係を狙います―――考えたくないかもしれませんが、心当たりは十分にありそうなので」

 鵺と梟和が前島を見つめる。前島の顔面は蒼白だった。今にも倒れてしまいそうなほど、顔色が悪く持っていたマグカップの中のコーヒーが小波を打っている。

「……私の両親はもういません。親戚ももう何年も顔を見てません……でも、だからって!」

「会社の先輩が本物の先輩でない可能性もあります。以前、他人になりすました咎鬼もいました」

「……!!」

「前島さん」

 梟和の深い緑をした瞳が前島を見つめる。

「貴方は咎鬼とレウスに狙われている―――それもすごい執着で。このままじゃ殺される……いや、喰われるでしょう。貴方がどうして狙われているのかは分かりませんが、このまま放っておいても事態が改善するとは到底思えません」

 前島の脳裏に今までに自分の身に起きたことがよぎる。最初は猫や鴉の死体、公園の遊具や車の破壊行為。そして今日、彼はレウスに襲われた―――これらはすべて偶然ではなく、自分を狙った咎鬼が引き起こしたものだとすれば、そう遠くない未来に咎鬼は現れるのだろう。

 前島を、喰らうために。

「今日のところは俺が護衛します。そして明日改めて霊法課に行って、狙われている原因を探りこれからの対策を考えていきましょう」

「……は、はい」

 浮かない顔で前島が返事をするそのとき、梟和のコートから電話の着信を知らせるバイブ音が響いた。梟和は「失礼、」と席を立って電話に出る。その姿を見送ったあと、大きく前島は溜め息を吐き出した。

『おぬしも大変だの』

 鵺は梟和が置いて行ったコーヒーのマグカップを取りながら、前島を慰める。

『一介のサラリーマンが急にこんなことに巻き込まれてなあ。不運じゃの』

「はたしてこれは不運で済むんでしょうか……」

 周囲の人間に鵺は見えていない。前島はこっそり小声で返して、テーブルに突っ伏す。

「先輩も死んで、美雨もいなくなって……最後は僕だなんて。そんなの、最初から僕を狙ってくれればいいのに」

 そんなか細い声に、鵺は何も言わなかった。その沈黙が今の前島にとって、ひどく楽だった。



「すいません遅くなっちゃって」

 家族からの連絡でした、と帰ってきた梟和の手にはホットドッグとトマトとチキンが挟まったパニーニに新しいコーヒーの乗ったプレートがあった。「まだかかりそうなので」と少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「少しだけ補充させてください。あ、前島さんもアレでしたらお好きなのを購入してください。経費で落としますよ」

「そんなの悪いですよ……。それに、いろいろあってお腹減らないです……。私のことは気にせず食べてください」

「すいません、じゃあお言葉に甘えて」

 前島は腕時計を見ると、時刻は既に9時を回っていた。梟和は自分よりも体格が良かったし、どこか幼さが残っている。ひょっとしてと思い梟和に視線を戻すと、なんと3口ほどでホットドッグもパニーニも平らげていた。すごい食欲だ。

「青柳さんて、もしかして学生ですか?」

「……大学生です。それ以上は仕事の関係でちょっと言えないですが」

「ああ、それはすみません。なんていうかその、いっぱい食べるからそうじゃないかなって。私もこないだまで学生時代だったような気はするし、そこそこ食べたはずなんですけど今じゃ全然食べられないし。油っぽいのは胃がもたれますねぇ……」

『若いのに大変だの』

 胃を押さえる前島を見て鵺は小さく笑う。『妖鬼は秘霊刀を使うと言っただろう?』

『秘霊刀を継続して使うにも、幻獣を召喚するにも霊力というものが必要だ。その霊力は精神力……ではないのだ』

「えっ、そうなんですか!?ゲームとかアニメじゃMPって精神力みたいにあるからてっきり……」

『精神力は必要だろうが、霊力や魔力というのは実のところ体内を巡る血液と同じものだ』

「見えない血液、と言ってもいいかもしれませんね」

 鵺の言葉を引き継いで、梟和は言った。

「見えない血液を認知して、そこからどういう風に使うかは妖鬼にもよりますが……戦ったりすると血液を消費していることになるのであんまり酷いと貧血に似た状態になりますね。消費したらこうして食べるか、寝て休んで回復しないと倒れちゃいます」

「は~……なるほど」

「まあそれは人も咎鬼も同じなんですけどね」

 咎鬼はほぼほぼ人間しか食べませんが、と付け加えてコーヒーを啜る。その姿に、前島はふと疑問を感じて口に出す。

「あのっ、どうして人は鬼になってしまうんでしょう?」

 梟和の緑の目と、鵺の琥珀色の瞳が前島に注がれる。どっちも変わった目の色だ、と頭の隅で思いながら「ええと、」となんとか言葉にする。

「人を食べたり魂が穢れると咎鬼になってしまう、ということはわかりました。でも、聞いていると咎鬼と鬼は別物なのかなって感じてしまって……」

「……難しい質問ですね」

 梟和は「うーん」と小さく唸るように逡巡したのち「あまり違いはないかもしれませんが」と考えを述べる。

「今でいうところの咎鬼は、昔は鬼と呼ばれた可能性が大きいです。橋姫しかり、清姫しかり……人として生を受けたにも関わらず生きながらに鬼になった者は、現代じゃ確実に咎鬼ですね。しかし鵺が言ったように、もともと日本において鬼というのは病魔や魑魅魍魎をさしていました。さらに、地獄の官吏と呼ばれた小野篁の伝説のようにあの世には鬼がいたという明記がある以上、前島さんが言ったように咎鬼と鬼は似て非なる存在だと俺も思っています。強いていうなら、鬼は自然的で、咎鬼は人為的な存在……といったところでしょうか」

「咎鬼が人為的な存在……」

「人を恨み、喰わなければ人が自然に咎鬼になることはない」

 梟和の口調が一瞬だけ堅く厳しいものになった。

「一方で鬼という存在は一種の精霊に近いものであったり、人間社会を成り立たせるために必要な存在と捉えることもあります。俺も何度か鬼を見かけたことはありますが、あれは明らかに咎鬼とも人間とも違う、異質な存在でした。圧倒的な悪の象徴のような鬼もいたし、それこそ地獄の門番のような規律正しい鬼もいましたが……元人間である咎鬼ではない。生まれたときから鬼で、それ以上でもそれ以下でもない。完全に確立した存在、それが本来の姿の鬼です」

―――現代において〝鬼〟というものは物語の世界で活躍するものであり、またその概念を比喩的に用いられるものだろう。鬼のもつ反社会的存在な部分である〝殺人鬼〟であるとか、鬼の属性である大きい・無慈悲・残酷であるうちの大きいという概念を取り入れた〝鬼百合〟など、鬼を想起させる言葉があるくらいだ。

 しかし、咎鬼は―――人間は鬼になった。

「かつて鬼になったとされる歴史上の人たちのほとんどは、女性とされています。それは女性の社会的地位が現在よりもずっと低く、彼女たちの世界というのはずっと限られたものでした。家の他に逃げ場はなく、無理やり結婚させられたり夫に尽くさねば価値あるものとして見られなかったりした時代―――夫や男に裏切られた彼女達の怒りや恨みというのは発散されなかった。精神が弱り、そのまま病になって亡くなった『雨月物語』に収録されている『吉備津の釜』というのもありますね。浮気相手と共にいなくなった夫を憎んだまま亡くなった妻の磯良が、怨霊となって浮気相手を殺したあと鬼となって夫を殺しに行く話です。このように精神的に追い詰められ、妬み、恨んで、憎んで自らを鬼にしてくれと貴船の神に願い21日間の水業のあと生きながら鬼になった『宇治の橋姫』も、女性です。けれど鬼になるのは何も女性だけではありません。男性も勿論、鬼になります」

 描き方は違いますけどね、と梟和はコーヒーで口を湿らせる。

「男性が鬼になる場合、当時の政権に盾突いた者……要は異端とされた男性が鬼になる場合が多いです。大江山の酒呑童子とか今昔物語集とかね。どちらというと男性は怨霊になるパターンの方が多いですが、これは当時鬼と怨霊がごっちゃになっていたという意見もあります。でも精神的に追い詰められた、というとなるとやはり『青頭巾』になるんでしょうか」

「なんか……『赤ずきん』思い出すようなタイトルですね」

「内容はやはり人喰いの鬼ではありますが」

 江戸時代の作家、上田秋成の『雨月物語』に収録された『青頭巾』のあらすじはこうだ。

 あるところに快庵禅師かいあんぜんじという徳の高い僧が全国を行脚していた。あるとき、その旅の途中で日が暮れてしまい里の大きな屋敷に一晩泊めてくれと宿を頼んだのだが、その屋敷の男たちに「鬼が来た」と言って恐れられてしまった。屋敷の主に詳しく話を伺ってみると、この山と里で恐ろしいことが起きていたことが判明する。

 主の話によると、里の上にある山の上にかつて徳の高い阿闍梨あじゃりが住んでいた。しかし、自分の身の回りを世話させているほど溺愛していた美しい少年が亡くなったことで彼は豹変してしまった。阿闍梨は嘆き悲しみ、火葬も土葬もしないまま少年を掻き抱いていたが、やがて少年の亡骸が腐り爛れて行った。しかし、朽ち果ていく肉体を惜しんだ彼は、とうとうその溶けゆく肉を吸い、骨を舐め、少年を食べ尽くしてしまった。その様子を見た寺の人たちは「阿闍梨が鬼になった」と逃げ出し、ただひとりになった阿闍梨は夜になると里に下りては村人を脅しては墓を暴いて死体を食べるようになった。こうした事情から、屋敷の男たちは快庵禅師を見て恐れたのだという。

「この話を聞いた快庵禅師は、自ら山に登って鬼となった阿闍梨のいる寺に向かいました。そこは酷く荒れ果て、朽ちた寺がありました。快庵禅師が声をかけて、ようやく寝室から瘦せこけた老人……阿闍梨が出てきます」

 快庵禅師は阿闍梨の退廃としたその姿に躊躇することなく「この寺に一晩泊めてほしい」と声をかけた。阿闍梨は最初こそ拒否し、快庵禅師に里に行くよう説得したのだが、彼の態度にやがて諦め「こんな荒れ果てた場所ではよくないことが起きるものです。強いて引き留めることはできないですが、強いて出て行けと言うわけでもない。あなたの心次第です」と言って黙り込んでしまった。

「その晩、快庵禅師は寝ることはなく、ただ座って様子を見ていました。すると真夜中になって、大声で叫びながら何かを探し求めるように寺の敷地内を駆け回る阿闍梨がいました。座っている快庵禅師に目をくれることもなく、阿闍梨は力尽きて倒れるまで走り回っていました」

 翌朝、ただ座って見ていた快庵禅師は茫然としている阿闍梨の傍に近寄ると「嘆いているのならわたしの肉を食べるといい」と囁いた。しかし阿闍梨は首を振ってこう返した。「自分はあさましいことに人肉を好んで食べてきたが、生きている仏を食べたことはない。あなたは仏だ、しかし仏が来たというのに自分は見ようとしてもそれを見ることができないのも当然だ。ああ、尊いことだ」と言ってこうべを垂れてしまった。快庵禅師はそんな阿闍梨を放っておけず、教化を施しにきたのだった。

「悪業を忘れられる道理を知りたいという阿闍梨を平らな石に座らせ、快庵禅師は被っていた青い頭巾を脱いで阿闍梨にかぶせました。そして証道歌(禅の本義を詩で示したもの)を二句授けると『この句の意味が分かったとき、本来備わっていた仏心に会うことができるでしょう』と言って山を下ります」

 そうして一年が過ぎ、快庵禅師が再びこの里に訪れて話を聞くと、あれ以来山から鬼が下りてくることもなく平和になったのだという。しかし、山へは誰も怖くて行かないので阿闍梨の消息は分からないと言った。快庵禅師が山に登ってみると、以前よりも寺は荒廃し雑草も伸び放題になっていた。その草むらの中に倒れるようにあの阿闍梨がいるのを見つけ近寄ってみると、聞こえるか聞こえないかのか細い声で授けられた二句を唱えていた。その様子に快庵禅師は「いかに、何の所為ぞ」と一喝し禅杖で阿闍梨の頭を打てば、阿闍梨は頭巾と骨を残して消えて行った。

「阿闍梨の執念が消滅したという証でしょうね。このあと快庵禅師は称賛され、寺も清められ万事解決していくんですが……女であれ、男であれ追い詰められれば容易く人は鬼に身を堕としてしまうのです。『青頭巾』の阿闍梨だって徳がいかに高くとも、ひとたび愛欲に堕ちてしまえば引きずられるようにどんどん堕ちていきました。こうして咎を背負い、やがて咎鬼になっていくのです……ちょっと脱線しちゃいましたが、人はこうして鬼になっていくんだと思います」

「奥が深いんですね……」

「業が深いだけなんでしょうけどね、人の」

 話し疲れたと言わんばかりにコーヒーを飲もうとした梟和だったが、マグカップの中に残っていたのは一滴の雫だけだった。よく見ると、周囲の客は減りいくらか静かになってきている。

「話し過ぎてしまいましたね。家まで送りますよ」

 立ち上がり、プレートを片付けようとする梟和。前島もその行動に慌てて立ち上がると、マグカップに残っていたコーヒーを急いで捨てに行った。



「美雨とは、今の会社に入社したばかりのときに会いました。だからもう、付き合ってかれこれ三年くらいになるんじゃないかな。会社の飲み会があって、二次会から帰る途中でした。会社の最寄り駅にある商店街の一角に小さな展示場があるんですよ」

 人通りも少なくなった駅前から、二つの影が住宅街へ向かって行く。時刻はあっという間に10時を示していた。社会人として本来前島の方が学生の梟和を見送るべきなのだが、事情が事情なので彼の好意に甘えることにした。自宅までそう遠くはないので、歩きながら前島は梟和にいなくなった彼女について話をしている。

「いろんなアーティストが入れ替わり立ち替わる展示場で、そのとき美雨の作品が飾られていたんですね。花と油絵を用いた作品が多くて……たまたまその一つが外に飾られていたんです。それを見た戸次先輩が……まあ、すっごい酔っていたせいもあってめちゃくちゃ怒鳴り始めたんです。こんなとこに置くなんて邪魔だーとか、俺のほうがうまく描けるーとか。そのうち鞄を振り回し始めたので、キャンパスに当たりそうになったんです。先輩って馬鹿力なんで、咄嗟に絵を庇っても私のほうが吹っ飛ばされちゃって。あ、絵は無事でした。他の先輩たちが流石に見かねて戸次先輩を押さえて連れて行ってくれたんですけど、私はまあ、いつでもどこでもいじられキャラというか『こいつはこういうやつだから仕方ないよな』という感じで放置されちゃいまして。そしたら展示物を片付けようとしてた美雨が走り寄ってくれたんです。擦り傷の手当をしてくれたあとに、『庇ってくれてありがとう』って」

 暴れている戸次に近づこうにも、自分に危害が及ぶ恐怖で動けなかったのだという。前島は美雨の整った顔立ちにどきまぎしつつ、大丈夫だと言ってから彼女の作品を見て帰ろうと思った。

「彼女の作品は、とてもきれいなんです。花をモチーフにしたり、生花を使って栄枯盛衰を描いたり……私なんか素人だから、なんて言ったら正しいのか分からないけど、でも、本当に心惹かれるものがありました」

 それから美雨の展示期間が終わるまで、時間の許す限り前島は展示場へと足を運んだ。美雨が歓迎の言葉を掛けたのは最初だけで、そのあとは前島が来る度訝しげな顔を向けていた。よくある話なのだが、誰かを助けたときに助けられた方は助けてくれた相手の顔を覚えてないのだという。むしろ、助けた人の方が「自分が相手を助けたのだ」と印象に残り、助けた相手の顔を覚えていることがある。そしていつしか助けた方が、好意を押し付けてくる……という話があるらしい。前島もそのうちのひとりではないのかと美雨は警戒していたらしいが、前島が熱心に絵画を見つめていたことと、彼は絵画を見て美雨に何も訊かずそっと会釈をして帰って行く姿を見て好意の押し付けをしに来ていないことに気付いた。

 やがて展示期間が終わり、前島は絵画の一つを購入して帰ろうとした。すると美雨の方から「アトリエ見ていきます?」という声を掛けられた。前島は嬉しさ半分、疑問半分な心持ちだったがそれでも彼女の作品を見たい気持ちが勝ってアトリエに向かった。

「そうして交流していくうちに、いつしか彼女と付き合ってました。とは言っても、美雨は気まぐれの天邪鬼でしたから……彼女の突飛な行動に最初は驚きの連続でした。ある日唐突に修行の旅に出たり、作品がクライマックスなところで過眠と不眠を繰り返したり、髪の色を茶髪からピンクに変えたり……でも不思議なもので、私も驚きはするんですけど嫌じゃなかったんです。私が奥手なのは十分承知してますが……彼女のそういう生き方、好きなんです。過眠や不眠は流石に危ないのでたまに病院には連れていきましたけども、でも強くやめろなんて言えませんでした」

 世間一般の言う〝お付き合い〟の形では無かったのかもしれないが、それでも穏やかな日常が続いていたはずだった―――美雨が行方不明になるまでは。押し黙ってしまった前島に、梟和はかける言葉を一瞬見失うがすぐに「最後に美雨さんに会ったのはいつですか?」と尋ねた。

「たしか、会社の先輩が亡くなってしばらくしてから行方不明になられたんですよね。辛いと思いますが、そのときのことを教えてください」

「……先輩が亡くなって、二ヶ月くらいでしょうか。落ち込んでいた私を慰めてくれたあと、美雨はアトリエに引きこもるようになって……中々会えない日が続きました。連絡も中々既読がつかない日があって、もしかして倒れてるんじゃないかって会いに行ったら『今は入らないで』って帰されました」

 そのときは倒れてないだけまだいいか、と前島は思っていた。作品の〆切が迫ると倒れるまで無茶をするので、本格的に音信不通になったら無理やり部屋に入ろうと考えて彼女の住む小さな古民家を離れた。

「それから一週間かな、美雨から電話があったんです。普段私達はあんまり電話しないんですけど、『声聞きたくなっちゃってさ』って」

「会いに行かなかったんですか?」

「ええ。美雨が、まだ仕事が終わってないから会えない、と。付き合いたての頃、よく言われたんです―――『作品を仕上げる前は、お風呂に入らなかったり髪も傷みっぱなしだしヒトとして終わってるから会いたくないし、会いに来ないでね。アオくんの前ではせめてヒトで会いたいからさ』って」

「アオくん?」

「僕の……いえ、私のあだ名です。私の名前、晴天の晴に武士の士で晴士って名前なんですが、美雨が面白がってアオくんアオくんって呼ぶんです。ハレくんだと、アメとハレじゃ反対でしょってよく分からない考えで言われたんですが」

 その夜の電話は長いこと続いた―――と、いっても普段電話しないので30分でも長く感じた。今何してる?から始まり、会社にきちんと行っているかとか公開前の映画の話などとりとめのないことを話し続けていた。

「まだ会えないのかな、って訊いたんです。でも美雨はまだ仕事終わらないんだ、と」


―――もうちょいで終わると思うんだけど、中々終わらないモンだね。まったく、寒くてしかたないよ。ねぇ、アオくん。君は誰かをうんと憎んだり、むしろうんと憎まれたことはあるかい?……はは、憎まれたことはあるかもしれないのかい?でも憎んだことは無いんだね。アオくんらしいよ。ぼく?ぼくはねえ、どっちもあるよ。まず両親にうんと憎まれたね、女なのに子どもを産めないだなんて。でもそれってどうしようもない話だし、ぼくに言われてもってかんじじゃん?……うん、うん。そう言ってくれるアオくんがいてくれるから、ぼくはぼくのままでいいって素直に思えたし、すごい嬉しいんだ。ありがとね。それで、なんだっけ。……ああ、うんと憎んだこともあるよ。え?親じゃないよ。親に対しては、もう何も思わないようにしてるんだ。殺してやりたいと思ったことはあるけどさ。それとはまったく別の人だよ。うんと憎んだし、今も憎んでる。でももうどうしようもないんだけどね、アオくんはそういう風にヒトを憎んだりなんかしないでね。鬼になっちゃうぞ、って。はは。……じゃ、仕事戻ろうかな。終わったら会いに来てね。やくそくだよ。


「もうすぐ終わるから、と言っても連絡がなかなか来ず……後日、私は思い切って美雨の家に行きました。彼女のアトリエ兼家というのはおばあちゃんから貰った古民家でして、そんなに大きくないんです。3分もあれば全部見終わるような、小さな彼女の家です」

「……」

「美雨はいませんでした。代わりに、アトリエに大きな絵が飾ってありました」

「―――……どんな?」

「通り雨が過ぎ去った瞬間の、どこまでも青い花で埋め尽くされた丘の絵です」

 荘厳だった。雲間から覗いた金色の太陽と、雨で濡れた花は美しくそして……どこか前島を悲しくさせた。

「タイトルには『青い忘れな草』と添えられていました。でも、美雨は……どこにも……」

 その時の絶望を思い出したのだろう、前島は鞄を落として目元を押さえ立ち止まってしまった。その行動にさすがに驚いたのか、梟和も困惑しながら「前島さん、」と近寄る。

「前島さん、大丈夫ですか」

「うう……美雨、どうして……っ」

「ここにいると危険です、早いとこ家に着かないとやつらが……」

『あるじ』

 梟和の言葉を遮る鵺の声は硬く、そして危険を知らせるようにその白い毛並みが逆立っていた。その反応に、梟和はハッとして周囲を確認する。

(あれだけ長い話をしながら歩いていたのに、住宅地の景色が変わってない……!)

 いつから、と考える暇もなくコートに入っていた電子端末が僅かに振動する。その場にうずくまってしまう前島をよそに、梟和は端末の画面を確認するとそこには【T機関より近隣にいる霊法課妖鬼に通達】という文面が届いていた。

【T機関より近隣にいる霊法課妖鬼に通達:四神市内○○丁目にてレウス反応あり。各員急行し討伐せよ】

「こんなときに……!」

『こんなときだからだろうな』

 来たぞ、鵺が梟和の肩から飛び降りる。梟和は鬼裂化した住宅地の向こうから、恐竜型―――俗にいうプテラノドンに似たレウス三体が飛来してくるのを見た。

「鵺、ここは前島さんを鬼裂から脱出させることが先決だ。いつどこで鬼裂の終わりが来るか分からない以上、ムスッペルは出せない。時間稼ぎ、できるな?」

『承知した』

 鵺はその小さな体で一回、二回と飛び跳ね、三回目の大きなジャンプのうち地に戻る頃には3メートル以上はある大きく勇ましい姿になっていた。白虎の手足に白猿の頭、白狸の胴体に黒い大蛇を尻尾とした妖怪そのものである。

 梟和はネクタイの裏に付いていた黒い翼のようなブローチを握る。すると、そのブローチはぐにゃりと様相を変えてベレッタオート9―――あの片手で持つには馬鹿げた大きさの銀銃へと変貌を遂げていた。

「前島さん、走りますよ!」

 うずくまっていた前島の腕をとり、梟和は真っすぐ走り出した。前島は轟いたレウスの雄叫びに慄きながら、顔面がぐしゃぐしゃのままなんとか足を動かした。

(美雨、美雨。どうして)

 再び襲い掛かる恐怖と、恋人がいなくなった絶望とで乱れる感情で前が霞む。

(どうしてきみの顔を思い出すことができないんだろう)



つづく

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