002
『アミダクジ』という店名の由来を僕は知らない。生まれた時からその名前を掲げて営業していたから、そもそも成り立ちを知る気にもならなかった訳だけれど、それでもある時、何かの拍子でメイラに訊ねたことがあった。どうしてメイラちゃん家のお店は、『アミダクジ』って云うの? ヒイロと一緒になって、そんな風に尋ねたが、しかし、メイラは分からないと言った。ならばと、次点でメイラのお父さんとお母さんに尋ねたが、しかし二人も分からないと言っていた。何でも、この店を開業した、メイラのお父さんのお父さんのお父さん――つまり、メイラの高祖父に当る人物が名付け親なのだが、この人がどうも寡黙な、好く云えば職人気質の人だったので、見ることで伝えられる技術は今日まで連綿と彼らの血に流れているのだけれど、耳によって伝えられるべき事情は完全に滞ってしまっているらしい。もっとも、ありとあらゆる全てに意味と理由を求めるのは、第三者の都合でしか無いため、当該人たちからすれば、アミダクジがアミダクジである所以など、さして重要では無いのだろう。それこそ、僕が、僕の名前の由来を忘れてしまったのと同じように――店には、セレナから聞いた通り、ミナーヴァが居た。
「やあ、お帰り、ノート君」
背が高い椅子が八つ並ぶカウンター席の真ん中、常連らしき野郎共に挟まれる彼女は、それでも左右に一つずつ席を空けていた。ひらひらと、僕とセレナを手招く。近付いて見れば酒の匂いがする。何となく見覚えのある常連たちの面はすこぶる赤い。一方で、ミナーヴァの顔色に変わりはなかった。彼女は飲んでいないのだろうか? いや、思えば昨晩の食事会でも、酒は振舞われていたが、彼女に酔いは見えなかったのだったか。
「ただいま帰りました」
「ああ、セレナちゃんもお帰り。ご苦労だったね、褒めて遣わそう」
ミナーヴァを挟んで僕らが席に腰掛ける(左翼が僕で、右翼がセレナである)と、彼女は僕の肩を抱き寄せ、その端正な顔をずいっと近づけた。瞳の奥の、ずっと深いところを覗き込まれるような、そんな感じ。息が顔に触れる。やはり酒を飲んでいるようだ。
酒臭い。
「うん、大丈夫そうだね」
「……?」
一人納得したミナーヴァは、何に納得したのかを説明することは無く、するりと視線を流す――カウンター奥の手狭な厨房から、ひょっこりと顔を見せた人物がいた。メイラである。お仕事中の彼女は、決まってその金色の頭髪を後頭部で一括りにし、同年代よりも少しだけ幼さの残る丸っぽい輪郭を無防備に晒していて、非常にキュートであり、常連の野郎共からはアイドル的な扱いを受けていた。
がやがやと口々に勝手を声にしていた野郎共が、一層とうるさくなった。
今日は美人が多いな、と誰かが言う。
それに誰かが賛同してどっと笑いが起きた。
……僕は昔から、こういう空気感が苦手だ。
「二人とも久しぶり」
手の湿気をサロンエプロンで拭いながら、カウンターに構えたメイラは、野郎共の喧騒を適当に往なしながら、僕とセレナの顔を交互に見て、うんうんと頷いて見せた。相変わらず、その仕草の一つ一つが小動物じみていてかわいい。
「元気そうで何より!」
「メイラもね。相変わらずの美人さんで何よりだよ」と、僕は返す。これに対してセレナは、挨拶らしい挨拶を返しこそしなかったが、僕の二の句を引き継ぐように「今日も忙しそうだね」と続けた。
「おかげさまで儲けさせてもらってますよう」メイラは、にししとなつっこい笑みを浮かべて見せた。「――そいで、二人はどうする? 注文は決まってる感じ?」
うーん……どうしようか。
僕らは、女神様と別れてからなんだかんだで一時間弱も歩いていた――取り敢えず飲み物くらいは頼もうか、とセレナを見やった。
「セレナはお酒、飲むの?」
「え、飲んでも良いの?」
「良いよ、好きなの飲みな。どうせ辺境伯様の奢りだ」と、不遜に応えたのはミナーヴァだった。彼女は、ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべながら、懐から巾着型の財布を取り出して見せびらかす。「今朝、ノート君とデートしてた時にそこそこ散財してるから、あまり期待されては困るけどね」
「お金のことは心配してません。私もそれなりに持ってきてますし――金貨十枚あれば、三人で飲んでも足りるでしょう。……足ります、よね?」
「あはははは」ミナーヴァは快活に笑った。愉しそうですね、随分と。「いやあ、流石はお嬢様だね。金銭感覚がぶっ壊れてるぜ」
「え? 全然足りない?」
オロオロ、オドオド。
女の子にしてはかなりの高身長であるセレナは、日々の鍛錬により維持される抜群のプロポーションも相まって、研ぎ澄まされた美しさを醸している――つまり、カッコいい感じの女の子なのだが、あるいはそれゆえに、たまに見える小動物チックな仕草は反則的だった。ギャップ萌え、と謂うヤツである。一応は年上なので、こんなことを思うのは失礼なのかも知れないけれど――頭を撫で繰り回してやりたい気分だ。
「そんなこと無いよ」僕は、咄嗟にセレナの頭へ手を伸ばしてしまわないよう、左手で右手首を強く掴みながらフォローする。「ただ、ちょっと多すぎるかもね」
「なら、何も問題は無いのね」
ふうと胸を撫で下ろすセレナだったが、メイラは少し難しそうな顔をして見せた。確かに決済能力に問題は無い。むしろ過剰でさえある。でも、だからこそ、紙幣を導入していない我が国では、別の問題にぶつかってしまう。
「――足りるには足りるんだけどね? 今、ホールド金貨がウチに無いからさあ、御釣りが全部銀貨とか銅貨とかになるんだよね……、何十枚って御釣りを渡さないといけなくなるけど、ダイジョブそ?」
つまり、携帯の便に問題が生じるのだ。
この店は、町の北方に位置しており、その客層は農業従事者が殆どで、町の中心部ほど金銭的に余裕のある客は少ない。そのため、この店の価格設定はかなり良心的、そこそこに腹を満たしたとしても、大人一人当たり銀貨一、二枚で済んでしまう。酒はピンキリで、無駄に高い酒も置いていないことは無いが、基本的には手持ちが十二分に無くても楽しめる仕様になっているのだ。ゆえに、例え三人で馬鹿みたいに酒をかっ喰らったとしても高が知れており、いくら使ったにしても、精々銀貨二十枚に届くか届かないかと云った具合で、銀貨百枚分の価値を持つ金貨で決済すれば、お釣りは自然と嵩張る、と云う訳だった。
「はっはー!」
ミナーヴァが笑った。やけに大口を開けて――それでもなお美人が崩れないのは魔法だろうか――快活に、見ようによっては少し悪趣味なくらいに、高らかと笑っていた。そして、心底可笑しそうに目を細めながらセレナの頭を撫でる。手つきは、少し荒い。見た目には分からないが、それなりに酔っているのだろう。
「そうかそうか、うんうん、そうだよなあ。久しぶりにノート君とお出かけできると踏んで、ちょっとばかしはしゃいじゃったんだよな? いいねえ、青春だねえ」
揶揄われたセレナは「そんなんじゃありません!」と声を大きくし、勢いよく頭上の手を払い除けるが、その所作は、よく熟れた林檎のように赤らんだ面の所為で、随分と子供じみており、怒気よりも愛嬌が伺えた。「……そもそも、あんまり出掛けないんです」
「勤勉だねえ」
「馬鹿にしてますよね?」
「はは、そいつは被害妄想ってヤツだよ、セレナちゃん――でもまあ、そう言うことなら今日はたらふく飲むと善い」
「ミナーヴァさんの奢りで、ですか?」
「えー? いやいや、そこは一番を金持ってる奴の奢りだろ? なあ、ノート君?」
唐突に話の矛先を向けられた僕は――無一文の僕は、うッと喉を詰まらせるように答えを窮した。どちらにせよ奢られる身分にある甲斐性なしの僕は、あまり金銭的な話に関わりたくないのである。シンプルに恥ずかしい。と、そう思ってゆっくりと目を逸らした先には、微笑み浮かべるメイラちゃんが居た。
「こういう時は、男が奢るモンなんじゃない?」
だよね。僕もそう思う。けれども手持ちが無いんです。
笑って誤魔化すしか無かった。
…………。
「――仕方ないですね。今日のところは私がお金を出しますよ」
不甲斐ない僕を見かねたのか、優し気に微笑んだセレナはそう言って折れた。するとミナーヴァは、やったね、と大人げもなく大いにはしゃぎ、僕とセレナが新規のオーダーを申請するよりも素早く、今さっきまでグラスを満たしていた酒のおかわりをメイラに告げた。同じ
そして、その様子を呆れたような目つきで一瞥したセレナはメニュー表を広げた。
「それじゃあ私は、バンディルスの
僕は、と。ミナーヴァの座席(彼女のお尻の後ろあたり)に右手を突き、ぐいっと上体だけを彼女の上に乗り上げるようにして、セレナの手許のメニュー表を見やった。開かれている頁には沢山のお酒の名前がずらりと並んでいる。小さい頃からアミダクジに出入りする機会の多かった僕だけれど、酒の名前に関しては、ほとんど憶えていない。
「そうだなあ、ええと、じゃあ――」
「
ミナーヴァは笑っていた。にたり。したり顔である。
「そうだろ?」
「いや、うん、まあそうなんだけど……」
どうして分かったのか――なんて野暮な質問はもう飽きたので、「取り敢えずそれで」とメイラに頼み、彼女が「ちょっと待っててねん」再び厨房の方に戻ったのを確認した僕は、体勢を元の位置に戻した。
「魔法というのはそう云うことにも使えるんですか?」
しかし、ミナーヴァから未来(笑)の話を聞かされていないセレナは、僕が飲み込んだ質問を、少しだけ皮肉を交えながら口にした。「便利と云うか、厭らしいですね」
「酷いことを言うね、セレナちゃんは。でも、これは、残念ながらただの推理さ。ほら、ノート君って苦いのとか辛いのとか苦手だろ、子供舌だから」子供舌は余計だ。「今朝だって折角、辺境伯のとこのメイドさんに珈琲を注いでもらったのに、ノート君ってば一切手を付けなかったからねー」
「ノートが甘党なのは、はい、私も知っています。でも、甘いお酒なんか、他にもいっぱいあるじゃないですか。それこそ、蜂蜜酒だって甘いですよ?」
「そうだね。だから、あとはヤマ勘だ。もしくは愛の力とも謂う」
「女神様と云い、貴女と云い……馬鹿にしてるんですか? 私だって――いや、なんと言うか、その、馬鹿にしてるんですか⁈」
「ははは、冗談だよ」
笑ったミナーヴァは、セレナちゃんは可愛いねえ、と付け足した。
「ただまあ、ノート君のお家では林檎を育てているだろ? だから、そうなんじゃないかなあ、と思ったのさ」と、ミナーヴァが推理(?)にもっともらしい理由を付け足したところで、メイラが帰ってきた。手には、三つのグラスが載った小ぶりな盆がある。「おまたせー」彼女の声を真っ先に聞きつけたセレナは、ミナーヴァに向けていた不服そうな顔を瞬時に捨て去り、カウンターに少し身を乗り出してメイラからグラスを受け取った。遅ればせながら僕も手伝おうと思ったけれど、セレナは、早々に全てのグラスを受け取り終えると、そのままの流れで食事の注文を始めたので、僕は浮かせかけた腰を静かに落ち着けた。あれやこれやと、適宜、僕とミナーヴァに確認を取りながら滞りなく注文を進めるので、下手に口を挟む気にも成れず、手持ち無沙汰な僕は、メニュー表を眺めているかのような体勢でミナーヴァの耳元に口を寄せた。
「――んで、本当のところは?」
「もちろん、君のこの店での初動は知っていたよ」
さいですか。
そうだろうなとは思っていたけれど、やはり推理では無く、インチキだった――注文を終えたらしいセレナが、メモを終えて厨房に向かったメイラを見送り、それじゃあ、と呟いてグラスを持ち上げたので、僕とミナーヴァはそれに倣った。
乾杯。
僕は、ひどく懐かしい匂いのするほんのりと黄色味がかった液体をちろりと嘗めた。この店で使われている林檎は、ほぼ全て僕の実家で採れた物であり、無論、林檎酒に使用されている林檎も御多分に漏れず、僕の家の物だ。家で採れた林檎を、すぐ近くに住んでいる親戚の家で醸造している。ウチの林檎は、女神様が特別に栽培する林檎よりも酸味が強く、シーズンの只中に収穫した採れたての物をそのまま醸造に流用してしまうと、どうしても美味しい林檎酒に成らないため、ウチの林檎酒には、シーズンの後半、熟し過ぎて木から自然に落下した林檎を使用し、そのうえで補糖を行っている――だから、すこぶる甘い。
林檎酒を始めたのは、母さんの提案だった。酒好きな親父が、いつか酒を飲める歳まで大きくなった僕と酌み交わしたい、そう言っていたことを踏まえての提案だったらしい。もっとも、そのことを僕が知ったのは、ウチの林檎で林檎酒を醸造している親戚の叔父さんからなので、真偽のほどは分からないが――僕は、仕事終わりの野郎共で賑わう店内を軽く見渡してから、もう一度グラスに口を付けた。
ちらりと視線を横に流せば、喉を潤したセレナが、それで、と口を開いた。
「――ミナーヴァさんはどれぐらい飲んでるんですか?」
「どうだったっけね。慥かこれで五杯目とかだったと思うけど?」
「お酒、強いんですか?」
「うーん……どうだろう。普段はあんまり飲まないからねえ」
「そうなんですか、ちょっと意外」
「そうかい? でも、それで云ったらセレナちゃんこそどうなんだい? 勤勉な君のことだから、あんまり酒とは縁が無さそうだけど」
「いやいや、これでも貴族ですからね。むしろ、飲みにケーションに頼る場面は、庶民よりも多いくらいですよ」
「ふーん」ミナーヴァはあまり興味も無いのか(と云うよりかは既に知っている情報だから聞き流しているだけなのだろう)、そんな気の抜けた返事をしてから、ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべて僕を見やった。なんだよ、その目は。「たしか、ノート君が初めて酒を飲んだのは、十六の誕生日だったかな?」
またお得意のインチキである。
そうだよ、と僕は吐き捨てる様に答えた。
「どうだった?」
「どうって?」
「初めてお酒を飲んだ時の感想だよ」
にたりにたり。
その厭らしい笑顔から察するに、多分、彼女は知っているのだ。僕がたった一口で酔っ払い、その後数時間にわたってトイレで強烈な吐気と格闘する羽目になったことを、十中八九、知っている。そして、あまりに下戸な僕を見て、親父がみるみる不機嫌になったことも知っているのだろう――重苦しい鈍痛と突き上げるような不快感に苛まれながら聞いた、親父の独白は未だに性懲りもなく思い出すことがある。
俺の子なのにな。
妹に背中をさすられながら、トイレで吐気と死闘を繰り広げていた僕には、知る由も無かったわけだけれど、あの時、
……知りたくもない。
だから僕は、
「最悪だった」
と短く答えた。
「ノートはあんまりお酒得意じゃないもんね。そっか、十六の誕生日の時に初めて飲んだんだ……、何となく想像できるなあ」セレナは軽い調子で続ける。「でも、結構飲めるようになったよね」
「うん、だいぶ」
「じゃあ今度、一緒にウルメティアラの方に行ってみる? 向こうにも面白いお酒がいっぱいあるし――ああ、それで云ったら、お母様は海外の物を集めるのが趣味なんだよね」
へえ、そうなんだ。
何気なく相槌を打つが、セレナの母親に収集癖があるのは知っていた。僕と彼女はお互いに、あまり父親のことを話したがらない性質なのだけれど、僕が妹と母さんのことはそれなりに話題として登場させるように、彼女もまた母のことだけは話題に登らせることがあった。彼女は、だからその、と少しだけ視線を泳がせる。
「ウチに来たら、結構面白い……かもね?」と、貴族様からのお誘いに、しかし真っ先に飛びついたのは僕ではなく、ミナーヴァで――どうにも先からニタニタとした笑みが消えない。これだから酔っ払いは手に余るよな――彼女は「好いねえ、彼のベリタス家にご招待されちまったよ」と、僕の首に腕を回し、なかば強引に僕の重心を引き寄せた。
「折角だから、お邪魔しよっか」
「え、ミナーヴァさんも来るんですか?」
露骨に厭そうな顔をするセレナ。
「なんだなんだ、駄目なのかい? ひどいねえ、私だけ除者だよ」
およよ、と言いながら芝居がかった仕草で僕の頭に頬を押し付けるミナーヴァ。
「ねえ、ノート君。意地悪された私を慰めてよ」
「べつにダメとは言ってないじゃないですか! つうか、なんでそんなに貴女達は揃いも揃ってノートにべたべたするんですか‼」と、ミナーヴァの腕を引っ張りながらセレナが叫ぶと、丁度、厨房の方から料理を持ったセレナが現れた。
「愉しく飲むのは結構だけど、あんまり大声出さないでよ? 他のお客さんの迷惑になっちゃうから」
そして叱言を添えながら、料理を僕らの前に並べる。
卵焼きと塩ホルモン。
「悪かったね、どうにもセレナちゃんがはしゃぐもんだからさ」鉄板の上に乗ったスクランブルエッグ風の卵焼きをスプーンで掬ったミナーヴァは、それを口に放り、口をほふほふと半開きで動かした。「悪いついでに、おかわりもお願い」
「
「おねがい」と、セレナは空のグラスをメイラに差し出したが、僕のグラスにはまだ半分ほど残っていたので、大丈夫、と僕は遠慮した。
「そーお? もしあれだったら、お冷持ってこようか?」
僕が下戸であることを、あるいは此処で一番に知っているだろうメイラはそう言ってくれたけれど、べつに酔いが回っているわけでも無いので、これも遠慮し、おかわりを注ぎに向かったメイラを見送った。
少し経て、おかわりを持ってきたメイラは開口一番、ごめん、と謝った。
「蜂蜜酒、これで
グラスを受け取ったセレナは「なんもなんも、気にしないでよ」と言いつつ、それでも不思議そうに首を傾げて、ねえ、と厨房に戻ろうとしたメイラを呼び止めた。「蜂蜜酒が無くなるなんて珍しくない?」
「まあ、ウチで蜂蜜酒を飲むのは、私かセレナかノートくらいだもんねえ」
そうなのだ。来客の九割を野郎が占めるこの店で、蜂蜜酒などと云う甘い酒を飲む客は、看板娘のメイラか、数少ない女性客のセレナ、もしくは下戸で甘党な僕くらいなもので、そう滅多なことでは在庫切れを起こしたりはしないのだ。にもかかわらず、現状、セレナの一杯が最後だと言う。さては、前回のキャラバン来訪の際に買い忘れたな? そう思ったのは、どうやらセレナもだったらしく、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そっかあ、確り者のメイラでも買い忘れることがあるんだなあ」
「言うほど確り者でも無いけどね――でも、買い忘れた訳じゃ無いよ」
「そうなの?」
「なんかねえ、首都の方から来るはずのキャラバンが遅れてるんだって」
ウルメナオ国内を巡回する商業ギルドのキャラバンは、国内最大の港町であり、商業ギルドの御膝元であるエレコモヤに一度集結してから、各地に物資を運ぶことになっているのだが、首都の方から来るはずのキャラバンが遅れていると言うのは、つまり、この集結に遅れていることを意味している。そして、ウルメナオ国内で出回っている蜂蜜酒は、首都の方――エレコモヤよりも東側にある町で生産され、首都から出発するキャラバンに乗ってエレコモヤに搬入される。なるほど、だから蜂蜜酒が手に入らなかったのだ。エレコモヤより東側の町ならいざ知らず、ウルメナオの最西端に位置するエングルスには届くはずもない。……でも、だとすれば、キャラバンに何があったのだろうか? 事故とか? まさか、山脈から流れて来た魔物に襲われたのか?
「いやあ、それがね、分かんないんだよね」
メイラは腕を組んでそう言った。
「キャラバンの人にも聞いたんだけど、向こうと全く連絡が取れていないから分からないんだってさ。もう参っちゃうよ」
「それは困ったね」
メイラ以上の困り顔で同意を示すセレナ。
「ねえ、セレナは親御さんから何か聞いてないの?」
「うーん……今月はまだ手紙が届いてないって謂うか、先月のも届いてないんだよね」
「そっか、キャラバンに遅れが出てるなら、郵便にも遅れが出てるよね、きっと」
二人は頻りに頷き合っていた。その様子は、何か言語以上のモノを交換し合っているようで、見ている側は不思議な気持ちになる。仲良きことは美しきかな。友情とはかくも尊いモノであるが――ところで、ミナーヴァは大麦酒を受け取ってからだんまりを決め込んでいるけれど、何か知っていたりするのだろうか? そう思って訊ねた。
「ねえ、ミナーヴァは何か知ってたりしないの?」
「さーねえ」
興味なさげに短く答えた彼女は、ホルモンを口に放り込んだ。
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