二日目(2)
001
女神様から聞きたかったことは一通り聞いてしまったので、そろそろ町に戻ろうと云う段になったところ、また一悶着あった。何があったのかと云えば、女神様が僕を返したくないと子供のように駄々を捏ねたのである。やだやだやだやだ、ノートちゃんはあたしと一生、此処で暮らすんだい! これには、女神様のことを盲目的に信仰している僕でさえ唖然とした。それだもの、女神様に敬愛の念を抱いていないセレナが、女神様の痴態を見て顔色を侮蔑一色に染めたことについては責められない。至極真っ当な反応である。とは云え、じゃあ女神様の児戯をまるっきり無視してとっとと退散すれば良いじゃないか、とはならない。そうは問屋が卸さないのだ。なにせ、女神様の居城は、完璧に外界と隔絶された、正に鉄壁の要塞である。入退場には、必ず女神様の許可が要た。ゆえに僕らは、下手に彼女を蔑ろにすることも出来ず、セレナと女神様は、僕を挟んで暫く揉めることになった。ああだのこうだの、と――思えば、人と神の対話は、ウルメナオの建国神話にも記されている。初代国王と彼を支えた七人の勇士が、ヘダテルイウ山脈の頂上に君臨する女神様に謁見する一幕。きっと、女神様はその日からウルメナオ人に干渉することができなくなってしまったのだろう。云い換えれば、ウルメナオ人は、その日、ささやかな親離れを果たしたのである。ならば、セレナと女神様のチープな舌戦は、伝説以来の親子喧嘩と謂うことになるのかも知れなかった。……それにしては、いささか馬鹿馬鹿し過ぎる遣り取りだったけれど――それでも最終的には、女神様が折れる形で、僕とセレナは無事に町へ戻ることが出来た。
時刻は――分からない。ただ、日はすっかり傾いてしまっていて、東の空は夜の気配に脅かされていた。ぎりぎりで星の輝きは見えない。ところで、留守番をしていると言っていたミナーヴァだが、セレナの談に因れば、彼女は、僕の幼馴染の両親が経営している食事処で待っているらしい。ゆえに僕らは、暮れなずむ町をのらりくらりと北上していた。
「――メイラちゃんのとこに行くの、久しぶりだなあ」
女神様から解放された僕らは、既に、ぴったりとくっ付いている必要は無いはずなのだけれど――セレナは、僕の右腕をがっちりとホールドしつつ、そんなことを呟いた。ちなみに、メイラとは、幼馴染の名前である。ミナーヴァの知らない名前である。
「そうだね。なんだかんだで、僕も久しぶりだ」
少なくとも、一月ほどは会っていなかった気がする。
「家、近いのにね」
「近いからこそだよ」
憐れなクソ親父の無様な教育方針のため、僕と妹は、異性が暮らす家の敷居をまたぐことが出来ない。無論、バレなければ、どれだけ跨いだところで問題無いのだけれど、メイラの家は僕の家のすぐ近所に有るので、行けばどうしてもバレてしまう。一応、彼女の家は食事処なので、それなりに言訳は立つのだけれど、それでも好い顔はされないから、自然、彼女の家に足が向くことは無くなる。ので、彼女と会おうと思った日には、わざわざ町の中心で待ち合わせをすると云う手間を挟まなくてはならず――精神的に元気な時でもない限り、彼女とは会おうと思えないのだ。
「まあ、でも、今日はセレナとミナーヴァが居るし。親父と喧嘩してもへっちゃらだよ」
「……無理はしなくていいんだからね? いざとなったら、私が守るんだから」
セレナは、空いている右手をぐっと握って見せた。
頼もしい限りだ――が、むしろそれは逆効果である。女に守られたとあれば、彼奴は、僕の不貞を疑い、馬鹿みたいに目くじらを立てることだろう。お前のような奴が女を堕落させ、周囲に毒を巻き散らかすのだ――などと、居もしない仮想の敵を僕に重ねる。全く以て愚かだ。……少し、いやかなり、足が重くなってきた。
「どうする?」
「どうするって、何が?」
「たまたま僕の親父がメイラのとこに飲みに来てて、ばったり遭遇するとかなったら」
「最悪の展開だね、それ」
相槌に、僕は声を上げて笑った。
「笑えないよな」
「笑えないね」
言いつつ、宵闇に溶けてしまいそうな忍び笑いを一頻り交わし終えた僕らは、それから数十分の間――町の中心部を越えて徐々に家屋のクオリティが落ち始め、道の舗装も拙くなり始めるまで、妙に余韻の深い沈黙を共有していた。腹の底では、複数通りに及ぶ会話が展開されていたけれど、それを形にするため、わざわざ口を開く気にはどうしてもなれなかったのだ。セドラの方は、知れない。彼女もまた、僕と同じように腹の中で会話の種をいくつか養っていたのだとは思う。沈黙の最中、何度か彼女が息を飲む音を聞いてはいたので、まず間違いなく、何らかの算段はあったのだろう。
しかし僕らは心地の良い沈黙を選んだ。
そしてその沈黙を破ったのは僕だった。
「おなか空いたね」
「そうだね」
遠くにメイラの家が見えた。
「何食べようかなあ」
「メイラの作る飯は何でも美味いよ」
――いつの間にか、僕とセレナは距離を取って歩いていた。
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