003
散々に飲んだくれた挙句、閉店するまで長々とメイラのところに居座った僕らは、それでも最終的には追い出される形で、アミダクジを後にした。随分と久しぶりだったから、僕もセレナも珍しく羽目を外してしまったのだ。メイラちゃんメイラちゃん、と絵に描いたようなダル絡みを演じてしまったし、それに加えて初見さんであるはずのミナーヴァも酷かった。まあ、彼女の場合は、常に羽目が――むしろ頭のネジが――外れているので、あるいはあのダル絡みも通常運転なのかも知れないけれど――とにかく、メイラには申し訳ないことをしてしまったと思う。日を改めて謝りに行かなければなるまい。そして、その時こそは僕がお金を出そう、と密かに
道中の記憶はない。
意味もなく笑い転げていたような気もするし、理由も分からず泣いていたような気もするし、何かを間抜けに合唱していたような気もする。いずれにしても、ロクでも無かったことだけは確かだ。
「――いやあ、それにしても飲んだね!」
ミナーヴァは愉しそうである――邸宅には、十時半を少し過ぎた頃に到着した。出迎えてくれた執事さんは厭な顔一つせず、酔っぱらった僕らを昨日と同じ部屋に案内してくれたのだが、現在、セレナだけは執事さんに連れられて此処に居ない。辺境伯に用があるのだと言っていた。聞きたいことがある、と。
窓際のソファに深々と腰掛けたミナーヴァは、水の入ったグラスを傾けながら夜空を眺めている。そう云えば、昨日も彼女は風呂上がりに空を眺めていたけれど、天体が好きなのだろうか。ロマンチックな趣味である。
「ノート君なんか、もうすっかり酔い潰れてしまったもんね」
うるせえやい。乱暴な否定は、しかし怪しい呂律のために、情けない音となってベッドの泥濘に吸い込まれてしまった。突っ伏していた顔を僅かに上げ、大して顔色を変えないミナーヴァを見やる。「僕ァ、はだよってはい(まだ酔ってない)!」
「酔ってないっつうのは、酔ってる奴の台詞だぜ、ノート君」
ミナーヴァの言は尤もだった。が、酔っている僕に道理を説いても無駄である。呂律が怪しいのなら、鼓膜だっておかしくなっているし、
「ねえ、僕らがいらいあいら、ずーっとメイラんとこにいたの?」
「はあ? なんて?」
どうやら聞き取れなかったらしいミナーヴァは、ソファを離れて僕の方にやって来た。そして、ベッド脇のナイトテーブルにグラスを置くと、僕の隣に寝転がって左手で頬杖を突き、右手で僕の頭を撫でた。もう一回言ってちょうだい、とそう言うので、僕はもう一度、さっきよりゆっくりに訊ねた。
「――いや、ずっとあそこに居たわけでは無いよ。飲み始めたのは君たちが来る一時間前からだし……。それまでは、君の生まれ育った場所を眺めていた」
「ふうん?」
「お母様に会ったよ」
「…………」
「もちろん、君のことは話さなかったさ。だって、嫌だろ?」
僕はうんと頷いた。
「だから、ただの通りすがりの旅人の体で、世間話を吹っかけたんだ。いやあ、びっくりしたよ。本当に顔がそっくりなんだもん。目鼻の感じなんか特によく似ている」彼女は僕の鼻先に触れた。「とても綺麗な人だった。それにとても親切だった。忙しかったろうに、私の暇潰しに付き合ってくれたからね。ちょっとだけだが、畑も見せてくれたよ」
「そりゃあ善かった」
「なあ、あの畑は随分と広かったが、あれを家族四人で世話するのは骨が折れるだろう」
「親戚の人が手伝ってくれるよん」
「林檎酒を醸造してくれているって云う親戚か。なるほどね、だったらばそれなりに手は揃っているんだな。……いやね、こうして君を連れ回している手前、ふと、ご両親の負担が気になったのさ」
「優しいことを言うんだな」うつ伏せになるのを止めた僕は、右手を、ミナーヴァの顔と腕とで出来た三角形の中に差し込み、その褐色の頬に触れてみた。柔らかいなあ、なんて暢気に思っていると、三角形はぱたんと潰れ――腕枕の形になる。ずりずりとミナーヴァは僕ににじり寄り、彼女の端正な顔が見えなくなった。灰色の頭が僕の顎下で丸くなっているのだ。「親父には会わなかったの?」
「遠目には見た。農作業をしていたよ」
「そっか――似て無かったでしょ?」
「……そうだね。他人の目から見ても、君と君のお父様は似ていない。妹ちゃんにも出くわしたが、やはり彼女も君と同様、お父様には似ていなかった――彼からすれば、難儀な話だよ。自分の子供が、揃いも揃って自分に似ていないと云うのは」
僕は、顎先に触れるミナーヴァの髪の毛がくすぐったくなって天井を見上げた。見上げたそれは、実家の物よりも遥かに高い。もっとも、この部屋にしたって実家のリビングよりも遥かに広いはずで――実家が、まるで牢獄のように思えた。
すると僕は、脱獄囚だろうか……。
妹はどうしているのだろう?
「帰りたいのかい?」
「……さあ、どうなんだろ。分かんないや」
僕は目を瞑った。妹のことを思うと、罪悪感で異様に疲れる。
「眠いのかい?」
「いいや、ぜんぜん」
「そうは見えないけどね」言ってミナーヴァは、僕の上からゆるりともったいぶるように離れた。しかし、ベッドから下りるつもりは無いようで、ベッドのクッションは、僕のではない体温に沈んだままである。
衣擦れの音がした。
「寝るなら寝るで、ちゃんとベッドの向きに従って寝なよ」
僕は頷いて、芋虫のように体をくねらせて、九十度の旋回を行った。頭上に手を伸ばすと枕がある。にじり寄って、それに頭を乗っければ、「それにしても」と、再びミナーヴァの体温が僕の上に圧し掛かかった。抱き枕になった気分だ、悪くない。「メイラちゃんは本当に善い子だね」
「僕の自慢の幼馴染だ」
「可愛いし、要領は良いし、料理は出来るし、可愛いし――美少女を名乗るのに申し分ないスペックだよな。ありゃあ相当モテるだろう、善い意味で男好きのする娘だ。……彼氏とかいたりするのかねえ」
「さあね、聞いたこと無いから分かんないよ」
「君は、なんつうか、色の話に疎いよな。ある意味では好ましくあるんだけどね――少なくとも私的には有り難いことだけれど――でも、英雄色を好むって言葉があるくらいだから、もうちょっとくらい色に触れないとな」
「ダメなの?」
「駄目ってことは無いが、あまり無垢が過ぎると、女神に付け入られてしまう――あの阿保も、阿保なりに巧妙だからねえ……、セレナちゃんが付いていたから、露骨に君を呪うことはできなかったみたいだが、こうして抱き着いてみれば――」何かに僕の頭は包まれた。柔らかくて、甘い香りがする。随分と気持ち好い。「――衣服に直接自分の髪を編み込んでしまうなんて、まったくどうして変態の所業だよ。流石に引くぜ」
くくく、とミナーヴァは笑って、僕の頭を撫でた。
「でもまあ、折角貰ったんだ、そのタンクトップは大事にすると良い。あの阿保のいけ好かない体臭が匂うことを除けば、国宝級の神器だ。GPS機能が付いているのは気に食わないけれど、簡単な魔術や呪いなんかはほとんど無効化できるし、そこらへんの鉄鎧なんかよりもよっぽど頑丈だ。鋏で切ろうにも、鋏の方が逝かれちまうくらいには、ね」
「じーぴーえす……?」
「遠い未来の技術だよ。君が王に成り、人の時代が始まってから暫くした頃に発明される技術さ。もっとも、君が生きている間に発明されることは多分無いだろうから、あまり気にしなくていいよ。こっちの話だ」
僕は、ふうん、と気の無い返事を返した。もう、かなり意識は限界に近い。セレナが帰ってくるまでは頑張って起きていようと思ったのだけれど……どうだろう。瞼はすっかり重くなってしまって、ぬるま湯に浸かっているかのような夢心地だ。夢現とは、正に今の僕の状態を指すんじゃなかろうか。
「良いよ、寝なさい。私が見ておいてあげるから」
「……うん」
頷くと、どっと意識は遠退いた。
ミナーヴァの声は優しい。
「おやすみ、ノートくん」
そして、まとわり付く心地良さに沈んだ――……
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